飛べない天使

紫月音湖(旧HN/月音)

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第5章 終わらない夜

悲しみの情景・1

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 夜を真似た漆黒の闇が、星に似た封印の文字の向こう側でざわざわと揺らめいている。ドーム状に天界を包んだ結界の外では、魔剣と闇の王の復活によって更に数を増した魔物たちが、赤い目をぎらつかせながら天界への侵入口を必死になって捜していた。束の間といえど一時の休息を得た天使たちは避けられぬ戦いの為に万全の準備を整え、天界には再びぴりぴりとした緊張感が漂い始める。

 魔物が空を覆い光を奪ってから、どれくらいの時間が流れたのだろう。天界は徐々に光を失い、反対に闇は止まる術を知らずどこまでも膨張していく。それを象徴するかのように、五芒星の砂漠には暗黒の瘴気が激しく渦を巻いていた。砂漠の姿すら見えないほど大きく膨らんだ瘴気はアルディナの力によって辛うじて抑えられ、天界を蝕む事が出来ずその場に色濃く留まっている。
 天界にありながら、もっとも邪悪で危険な場所。魔剣の封印が解け、地界ガルディオスへの道が開いたのだ。今はまだアルディナの力で止めてはいるものの、衰えを知らない地界の闇がいつ結界を破って溢れ出すか分からない。もし地界への道が完全に開いてしまったのなら、天界をドーム状に包んでいる結界が内側から破壊され、そこに待ち構える魔物が一斉に攻め込んでくるだろう。
 けれどシェリルは、この道を通って地界へ行くと決めた。

『私、ガルディオスへ行きます。そこにカインがいるなら……会いに行かなくちゃ』

 闇に捕われている間何が起こったのかをアルディナから聞いて、シェリルは迷う事なくはっきりとそう言った。自分がやるべき事、自分にしか出来ない事をシェリルは知っている。ルシエルの思いに応えられるのがシェリルしかいないのなら、同じようにシェリルの思いに応えられるのもたったひとりしかいない。

『地界への道を一瞬でも開けば、魔物はそこから侵入してくるだろう。私たちは結界維持と魔物撃退の為、天界に残らねばならない』

 アルディナが何を言おうとしているのかを知り、シェリルはそこに集う四人の天使たちをひとりひとり見つめながら、最後に強く頷いた。

『……ひとりで、大丈夫です』

 シェリルの真っ直ぐな瞳の奥で、アルディナが消えてしまいそうに儚い笑みを浮かべる。

『地界への道を開くと同時に、私はこの身を核とした結界を作る。これで一時的とはいえ、地界から溢れ出る闇を抑える事が出来るだろう。セシリアとリリスたち魔道士はその結界の維持に努めて欲しい。それでも防ぎきれなかった魔物の討伐に天界戦士を。指示はルーヴァ、頼む』

 アルディナから直々に命を受け、セシリアたち三人が短く返事をして頭を下げる。その横に立つシェリルへゆっくりと手を伸ばして、アルディナが心を決めるように深く息を吸い込んだ。

『行こう。道は砂漠の墓標にある』

 街の上空を忙しく飛び交う天使たちの姿は、白い小さな光のように暗闇に細い軌跡を描いていた。忌むべき場所を避けて飛ぶ彼らの瞳に、シェリルたちの姿が映る事はない。
 ルーヴァの指示のもと準備を続ける天界戦士らは、そこでこの戦いの本当の意味を知る。たったひとりの人間に、すべての命運を委ねる事。そしてこれは闇の王を倒す為ではなく、救う為にある戦いだという事を。





 伸ばされた手の細い指先を嫌うように、瘴気がざあっと音を立てて後退した。中に入ってきたアルディナに悲鳴を上げてざわめく瘴気は、しかし砂漠の結界から逃げ出す事が出来ずに大きく身を捩る。
 光に浸食され消滅していく闇のように徐々に色をなくし始めた瘴気が、アルディナに触れてなるものかと次々に砂漠の中へ身を潜めていく。結界内だけが激しい砂嵐に遭い、その外で様子を見ていたシェリルたちの視界からアルディナの姿が完全にかき消された。

「アルディナ様!」

 シェリルの声をも飲み込んだ砂漠は幾つもの闇の帯を絡ませながら、まるで何かに引き寄せられているかのように、瞬きする間もなく地中深くへ吸い込まれる。後に残ったのは魔剣をなくしたただの砂漠と、その中央に立つアルディナの姿だけだった。

「シェリル。ここへ」

 すっと手を伸ばして、アルディナが静かにシェリルを呼んだ。分かっていた事なのに一瞬息を詰まらせたシェリルが、アルディナを見つめたまま無意識に身構える。

「気をつけてね、シェリル。彼はカインであると同時に闇を纏う者イヴェルスでもあるわ。危険だと感じたなら、すぐ戻る事。いい?」

 いつもとは明らかに違うセシリアの声音に、シェリルの体が更に緊張する。かちかちになった体を動かしてぎこちなく頷いたシェリルを見て、リリスがふっと柔らかく微笑んだ。

「そんなに緊張してちゃ、何も出来ないわよ」

「……うん」

「分かってると思うけど、ルシエルを救うのは憐れみや涙ではないわ。大切なのは貴女の気持ちよ。……さぁ、シェリル。カインを連れて戻ってらっしゃい」

 ぽんっと叩かれた肩から温かい力が流れ込んで、シェリルの中から余計な力が消えていく。リリスの言葉に心までもがふっと軽くなり、シェリルはその優しい力を体中に感じながら祈るように目を閉じた。

「……じゃあ、行って来ます」

 一言ずつ言葉を噛み締めてそう言ったシェリルがにこりと微笑んで、アルディナの待つ砂漠の中央へ走っていった。
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