飛べない天使

紫月音湖(旧HN/月音)

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第5章 終わらない夜

母子の絆・3

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 闇のはるか遠くで何かが崩れ始めた音を耳にして、シェリルが弾かれたように顔を上げた。瞳に映った空間の亀裂はあっという間に蜘蛛の巣状に張り巡らされ、端からぱらぱらと剥がれ落ちていく。ディランの悪夢が終わろうとしている事を知り、シェリルはほっと息をつくと同時に慌てて辺りを見回した。
 ディランの悪夢は終わる。悪夢を増殖し続けたこの空間も、存在理由を失い消滅する。そこに残されたままのシェリルたちは……。

「ディラン! ここは消えてしまうわっ。早く逃げないと……」

 叫んでシェリルが家の扉に手をかけた瞬間、足元の闇がぐらりと大きく左右に揺れた。バランスを崩したシェリルの体が木作りの扉に支えられたのも束の間、今度はその家全体が罅割れた鏡のように鋭い亀裂を走らせる。びきびきっと太い音を響かせて割れていく家を目の当たりにして、シェリルが小さく悲鳴を上げた。

「ディランっ!」

 今もその中にいる母子を求めるように手を伸ばしたシェリルの足元が、罅割れた家より先に崩壊する。足場を完全に失い、シェリルの体は崩れた闇の破片と共に、歪んだ時空の彼方へ飲み込まれようとしていた。

「きゃあっ!」

 底の見えない奈落へ引きずられていくような感覚に心まで震わせながら、シェリルは何とかこの渦の中から抜け出そうと必死にもがいて手を伸ばす。逃げたいと叫ぶシェリルの心に同調して、背中から飛び出した純白の翼が大きく羽ばたいたその瞬間。

「翼なんて邪魔なだけよ。しまいなさい」

 どこかで聞いた事のある声がシェリルの耳にはっきりと届いた。と同時にもがいていた片腕を何者かによって捕まれ、シェリルはそのままくんっと真上へ引き寄せられる。未だ忙しく動く翼の向こうに、見覚えのあるブロンドが揺れていた。

「……リ、リス?」

 自分を助けてくれた存在を確認するや否や、シェリルがその翡翠色の瞳をめいっぱい大きく見開いた。凝視したままの視界の中では、リリスの顔を激しく打ち付けている自分の翼が映っていたのだが、突然の、しかも思ってもみないリリスの登場にただ驚くばかりのシェリルがそれに気付くのは難しかった。

「どうしてここに……」

「ちょっと、痛いわよ! さっさと翼をしまいなさいっ。それともこの手を離してほしいの?」

 自分の翼がリリスを攻撃している事にやっと気付いたシェリルが、あっと小さく声を漏らして翼を背中にしまいこむ。

「ごめんなさいっ」

「アルディナ様の力を受け継いだようだけど、中身はまったく成長してないのね。身を守る結界くらい作れるようになりなさいよ」

 はあっと呆れたように大きな溜息をついて、リリスがシェリルの腕から手を離す。空間を覆っていた闇は恐ろしい速さで時空の歪みに吸い込まれていると言うのに、二人の周りだけは完全に切り離されたように無風状態を保っている。まるで荒れ狂う海を別の空間から傍観しているようだった。

「結界……リリスが? ……ありがとう」

「人の夢の中でぎゃあぎゃあ騒ぐあなたが煩かっただけよ」

「夢? でもここはディランの悪夢よ? どうしてリリスが……」

「さぁ。ここにいたんだから仕方ないでしょ。何がどうなってるのか、私にもさっぱり解らないわよ」

 崩れ行く空間を肩を竦めながら見ていたリリスが、その視線の先に古びた家の残骸を見つけて少し悲しげに目を伏せた。

「……でも多分、同じ闇に捕われていたからじゃない? 私と、あの子は」

 その瞬間、時空の渦に引き寄せられていたディランの家が、激しい衝撃に耐え切れず硝子のように砕け散った。粉々に砕けた家の中から亜麻色に輝く柔らかな光が飛び出し、それは闇を泳ぐようにゆらゆら揺れながらシェリルたちの目の前まで近付いてきた。その光が誰であるのか、シェリルには解っていた。

「最後まで見届けなさい」

「リリス」

「あの子と母親が救われる瞬間よ」

 リリスの言葉にシェリルの胸がじんと熱くなる。
 愛を知らずに育った少年ディラン。彼がその小さな手にやっと掴んだ幸せは、もう二度とディランを裏切りはしないだろう。くるくると円を描く亜麻色の光の中に少年を抱く母親の姿を見て、シェリルはそう強く確信する。

「ディラン。……良かったね」

 唇から零れ落ちたシェリルの言葉を受け取って、ディランとエリザを包む光が応えるように一度だけ大きく光り輝いた。

『ありがとう、お姉ちゃん』

 ディランの声を耳のすぐ側で聞いたような気がして、シェリルが暗闇だけの空を仰ぎ見る。その視線を追うようにして、亜麻色の光が一気に空へと駆け上がった。辺りに残った悪夢のかけらを吹き飛ばし、崩れかけた空間に一筋の軌跡を描く亜麻色は、シェリルの見守る中で完全に闇を突き破って光ある世界へ消えていく。それがシェリルの見た、二人の最後の姿だった。

 主を失い均衡をなくした空間は、留まる術を持たず一気に崩壊する。その向こうから降り注いだ白い光は、明ける事のなかった夜を照らす眩しい朝日のようだった。



 ――――さようなら。ルシエル様。
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