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第5章 終わらない夜
母子の絆・2
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古びたカーテンの隙間からオレンジ色の光が射し込んでいた。少し埃っぽい室内を一直線に横切った光は、僅かに開いたままの壊れかけた扉を悲しげに射している。鼻の奥をつんと刺激する薬品の匂い。それに紛れて響く、高く小さな金属音。五感に感じるすべてが、少年の中に鮮血の記憶を甦らせる。
ディランの目の前に、あの日と同じ光景が広がっていた。
「……母さん」
唇の手前で囁いて、ディランは少しだけ開いた扉に手をかける。錆付いた扉は耳障りな音を響かせて開き、その向こうに白く凍った空間を曝け出した。
埃に埋もれた白い部屋。薬品と湿ったカビの匂い。絶え間なく続く金属音を辿ってゆっくりと目を向けた部屋の奥で、色褪せる事のない鮮やかな色彩がディランの音を待っていた。
「……お母さん」
再度零れ落ちたか細い音に、それまで延々と続いていた耳障りな金属音がぴたりと止まる。静寂が津波のように押し寄せ、ディランの小さな胸がどくんっと大きく脈打った。
「ディラン。ちゃんと謝ってきた?」
体中の血が逆流する。小さな体を所狭しと駆け巡る声音は彼の奥底に封じられた惨劇の記憶を呼び覚まし、ディランの時間をあっという間に逆戻りさせていく。あの日と少しも変わらない冷たい声。けれどそれはディランがいつの日かもう一度聞きたいと願っていた、懐かしい母の声に変わりはなかった。
「駄目だよ。……みんな、僕の話聞いてくれない。みんなで僕を殺っ……殺そうとっ」
あの日と同じように、ディランの頬を大粒の涙が滑り落ちていく。変える事の出来ない過去を繰り返すだけの世界で、ディランに告げられるべき言葉はひとつしかなかった。そのたったひとつの言葉をディランが変える。
『そうでしょうね。お前は魔物の子ですもの』
ここは過去の世界ではない。悲しみの枷に繋がれたディランが見る、目覚めない悪夢の一片なのだ。夢を紡ぐディラン本人が変わる事を望むなら、それは決して難しくはない。
「僕はっ……魔物なの? お母さんの側にいちゃいけないの?」
白く凍った冷たいだけの空間に、目には捉える事の出来ない何かが駆け抜けていく。それは、ディランの熱い涙の雫だったのかもしれない。内に秘めたディランの熱に、空間さえもかすかに揺れる。
「お前は……」
導かれるがままに、エリザの唇がゆっくりと動く。そこから零れ落ちた言葉はディランの熱を受け取って、エリザ本人の心の奥に深く強く刻み込まれた。
「お前は、私の子よ。ディラン」
その瞬間、エリザの中で何かが音をたてて崩れ去った。
掠れた声は、けれど確かにディランがずっと待っていた言葉を紡ぎ落した。失ったはずの涙が熱を取り戻して、あの日以来凍り付いていた心までも溶かすように、エリザを優しく包んでいく。と同時にそれはディランに絡み付いた枷を外す唯一の鍵となり、ディランはやっと己を取り巻く闇から完全に解放された。
「……母さっ……僕ね、僕っ。ずっと母さんを待ってたんだよ」
止まらない涙を腕で拭いながら、ディランは嗚咽を堪えて必死に言葉を繋げていく。
「母さんが言ったからっ。僕を守ってくれるって言ったから」
話したい事はたくさんあった。聞きたい事もあった。けれどいざエリザ本人を目の前にすると、ディランの口からは言葉がうまく出てこない。溢れ出す幾つもの思いに揺れて落ちた音だけが、互いにぶつかりあって消えていく。
「……ディラン」
心を探るだけの言葉はいらない。真実は二人の目の前にある。
「辛かったでしょう? たったひとりで残されて苦しかったでしょう? でも……もうひとりで泣かなくていい。これ以上傷付かないでいいのよ、ディラン」
躊躇いがちに頬に触れたエリザの指先が、ディランの涙を拭い去っていく。忘れかけていた母親の温もりを直に感じて、ディランがぱっと顔を上げた瞬間、彼の小さな体はエリザの温かい両腕の中にすっぽりと包まれていた。
「今度こそ私がお前をずっと守ってあげるから。こうしていつまでも抱き締めていてあげるから」
「……――――お母さん」
震える両手を伸ばしてエリザにしっかりとしがみ付いたディランが、もう二度と奪われる事のない母の温もりを全身に感じながら眠るように瞳を閉じた。
「ごめんね、ディラン。――――愛しているわ」
エリザの唇から紡がれたその言葉は彼らを救う最後の魔法となり、ディランは自分を強く抱き締めるエリザの体ごと柔らかな光の糸にくるくると包まれていった。みるみるうちに二人の体を飲み込んだ光の球体は、ディランの夢を蝕んでいた闇の空間を淡く白く照らし始める。その光景はまるで、白い満月の光に浄化される闇夜のようだった。
ディランの目の前に、あの日と同じ光景が広がっていた。
「……母さん」
唇の手前で囁いて、ディランは少しだけ開いた扉に手をかける。錆付いた扉は耳障りな音を響かせて開き、その向こうに白く凍った空間を曝け出した。
埃に埋もれた白い部屋。薬品と湿ったカビの匂い。絶え間なく続く金属音を辿ってゆっくりと目を向けた部屋の奥で、色褪せる事のない鮮やかな色彩がディランの音を待っていた。
「……お母さん」
再度零れ落ちたか細い音に、それまで延々と続いていた耳障りな金属音がぴたりと止まる。静寂が津波のように押し寄せ、ディランの小さな胸がどくんっと大きく脈打った。
「ディラン。ちゃんと謝ってきた?」
体中の血が逆流する。小さな体を所狭しと駆け巡る声音は彼の奥底に封じられた惨劇の記憶を呼び覚まし、ディランの時間をあっという間に逆戻りさせていく。あの日と少しも変わらない冷たい声。けれどそれはディランがいつの日かもう一度聞きたいと願っていた、懐かしい母の声に変わりはなかった。
「駄目だよ。……みんな、僕の話聞いてくれない。みんなで僕を殺っ……殺そうとっ」
あの日と同じように、ディランの頬を大粒の涙が滑り落ちていく。変える事の出来ない過去を繰り返すだけの世界で、ディランに告げられるべき言葉はひとつしかなかった。そのたったひとつの言葉をディランが変える。
『そうでしょうね。お前は魔物の子ですもの』
ここは過去の世界ではない。悲しみの枷に繋がれたディランが見る、目覚めない悪夢の一片なのだ。夢を紡ぐディラン本人が変わる事を望むなら、それは決して難しくはない。
「僕はっ……魔物なの? お母さんの側にいちゃいけないの?」
白く凍った冷たいだけの空間に、目には捉える事の出来ない何かが駆け抜けていく。それは、ディランの熱い涙の雫だったのかもしれない。内に秘めたディランの熱に、空間さえもかすかに揺れる。
「お前は……」
導かれるがままに、エリザの唇がゆっくりと動く。そこから零れ落ちた言葉はディランの熱を受け取って、エリザ本人の心の奥に深く強く刻み込まれた。
「お前は、私の子よ。ディラン」
その瞬間、エリザの中で何かが音をたてて崩れ去った。
掠れた声は、けれど確かにディランがずっと待っていた言葉を紡ぎ落した。失ったはずの涙が熱を取り戻して、あの日以来凍り付いていた心までも溶かすように、エリザを優しく包んでいく。と同時にそれはディランに絡み付いた枷を外す唯一の鍵となり、ディランはやっと己を取り巻く闇から完全に解放された。
「……母さっ……僕ね、僕っ。ずっと母さんを待ってたんだよ」
止まらない涙を腕で拭いながら、ディランは嗚咽を堪えて必死に言葉を繋げていく。
「母さんが言ったからっ。僕を守ってくれるって言ったから」
話したい事はたくさんあった。聞きたい事もあった。けれどいざエリザ本人を目の前にすると、ディランの口からは言葉がうまく出てこない。溢れ出す幾つもの思いに揺れて落ちた音だけが、互いにぶつかりあって消えていく。
「……ディラン」
心を探るだけの言葉はいらない。真実は二人の目の前にある。
「辛かったでしょう? たったひとりで残されて苦しかったでしょう? でも……もうひとりで泣かなくていい。これ以上傷付かないでいいのよ、ディラン」
躊躇いがちに頬に触れたエリザの指先が、ディランの涙を拭い去っていく。忘れかけていた母親の温もりを直に感じて、ディランがぱっと顔を上げた瞬間、彼の小さな体はエリザの温かい両腕の中にすっぽりと包まれていた。
「今度こそ私がお前をずっと守ってあげるから。こうしていつまでも抱き締めていてあげるから」
「……――――お母さん」
震える両手を伸ばしてエリザにしっかりとしがみ付いたディランが、もう二度と奪われる事のない母の温もりを全身に感じながら眠るように瞳を閉じた。
「ごめんね、ディラン。――――愛しているわ」
エリザの唇から紡がれたその言葉は彼らを救う最後の魔法となり、ディランは自分を強く抱き締めるエリザの体ごと柔らかな光の糸にくるくると包まれていった。みるみるうちに二人の体を飲み込んだ光の球体は、ディランの夢を蝕んでいた闇の空間を淡く白く照らし始める。その光景はまるで、白い満月の光に浄化される闇夜のようだった。
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