飛べない天使

紫月音湖(旧HN/月音)

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第5章 終わらない夜

母子の絆・1

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 闇の合間に伸ばされた、小さな小さな少年の手。当たり前の幸せを心から望む、彼の震える両手を握りしめるのは、もう遠い過去に出会った同じ悲しみを持つ地界神ではなかった。
 決して消える事のない傍らの光に導かれ、少年は自分の足で歩き始める。望んだものを今度こそ手に入れる為に。もう二度と闇に捕われない為に。何よりも、自分自身の思いの為に。


 辺りはしんと静まり返っていた。夜の闇に包まれたフィネス村は不気味なほどに人の気配がない。
 崩れた家を幾つも通り過ぎ、二人は先の見えない淋しい道をただひたすら歩き続けていた。通り過ぎる度に塵と化していく家々は、まるで崩れていく夢を暗示しているようにも見える。お互いを繋ぐ手のひらの熱だけが、この世界で唯一確かな感覚だった。

「とても、長い夢を見ていたんだ」

 夜に溶ける静かな声で、ディランがゆっくりと話はじめた。

「長くて、凄く悲しい夢。……そこには二つの月が存在していて、光と闇に包まれていた。光を宿す黄金の月に隠れた、もうひとつの紫銀の月。闇を宿す月の裏側、そこに佇むあの人の姿を、僕はこの目に映したかった。ずっと、ずっとそれだけを望んでいたんだ。彼の姿を見、その悲しみを癒す事が出来たなら、僕もまた同じように救われると信じていた」

 ディランの声は幼さをなくし、大人びた青年の声音に変わっていく。姿は少年のまま、けれどその意識は遠い夢の世界へ引き戻され、闇の従者としてディランが何を思い行動していたのか、その記憶が幼い少年の中に甦る。

「闇に堕ちる事を望んだのは彼自身だったけど、あの人はいつもそれを悔やみ苦しんでいた。神であるがゆえに、己の弱さを認める事が出来なかった。僕はそんな彼を救ってあげたかったんだ。……でも、その役目は僕じゃない」

 視線を感じて下を向いたシェリルの瞳に、一瞬だけ青年の姿をしたディランが映る。

「あなたは……彼を許せるの?」

 自然と口から零れ落ちた言葉に、シェリルはルシエルがディランを殺した時の事を思い出す。ディランを裏切り、殺したのは闇を纏う者イヴェルスではなかった。淡いブルーに輝いたあの瞳が、闇の王であるはずがない。

「この体を貫いた魔剣によって、僕は闇から救われた」

「え?」

「シェリル。君が持つ、君自身の力を信じて。ルシエル様がそれを信じたように」

 ふわりとディランの体が淡い光の帯に包まれる。その光が流れるようにディランの体の中へ消えていく瞬間、シェリルの周囲の闇ががらりと音をたてて剥がれ落ちていった。


「……お姉ちゃん?」

 幼い少年の声が、怯えたようにシェリルを何度も呼んでいた。浅い眠りから引き戻され目を覚ましたシェリルは、体を通り抜けていく夢の残骸にかすかに震えて息を飲む。

「お姉ちゃん……大丈夫?」

「ディラン?」

 不安げな表情を向けてくる少年を瞳にしっかりと確認して、シェリルはあやふやな意識を追い出すように数回頭を振った。

「大丈夫よ。ごめんね」

「本当? ……良かった。僕、まだひとりは怖いから……お姉ちゃんがいてくれないと進めないよ」

 シェリルの手をぎゅっと強く握りしめて、ディランがゆっくりと前方の闇を指差した。何もなかった暗闇の向こう、ディランの指先に導かれて淡いオレンジ色の光が浮かび上がる。不安定に揺れながら近付いてくるその光は、シェリルたちに手招きをしているようにも見えた。

「ここだよ。ここが、僕の家」

 目の前で形を崩した光は木作りの扉に姿を変え、まるで風に吹かれ身に纏ったものを引き剥がすようにして、完全な家が闇の中から這い出した。扉からはオレンジ色の光がかすかに漏れていたが、家の中に人がいる気配はまったくない。その無気味な静けさにシェリルは一瞬だけ嫌な考えを巡らせたが、すぐにそれを追い払い、自分の中にある確かな真実に目を向ける。
 夢のように曖昧で、幻のように触れる事も叶わないそれは、けれどいつでもシェリルのすぐ側で囁きかけていた。エリザの思いはシェリルの中に偽りのない、かすかな言葉を残していた。

「ディラン。扉を開けて」

 シェリルの言葉にディランが小さく体を震わせる。

「……で、でも……中には誰もいないみたいだよ」

「大丈夫よ。あなたが呼べば、きっと来てくれる。だってあなたのお母さんは、ここでずっとあなたを待っていたんだもの」

 淡い微笑みを向けながら、シェリルは繋いでいたディランの手をゆっくりと扉へ導いていく。小さな手のひらに伝わった冷たい感触が、再度ディランの体を震わせた。

「私が手伝えるのはここまでよ。ディラン、この扉はあなた自身が開けなくちゃいけないわ」

「……怖いよ。僕、やっぱりまだ」

「勇気を出して。お母さんに、会いにいこう?」

 離れていくシェリルの温もりに何か言いかけた唇をきゅっと噛み締めたディランが、言葉を押し留めてその場にじっと立ち尽くす。
 ディランがずっと欲しかったもの。何度も殺されながら、切に願った救いの手。自分を守ってくれると言ったその言葉だけを信じて、その時だけを待って、ディランは今日この日まで終わる事のない悪夢に身を委ねていた。
 見覚えのある木の扉の向こう、そこには彼が心の底から願った光があるはずだった。躊躇う必要などどこにもない。けれどディランの中には、幾度となく裏切られた傷跡が未だ癒える事なく根付いている。その恐怖が枷となり、ディランはなかなか扉を開ける事が出来ないでいた。

「……また、ひとりにならないよね?」

 かすかに震える両肩に手を置いて、シェリルが後ろからディランの体をふわりと優しく抱きしめた。

「私はここにいるわ、ディラン。あなたを置いて行ったりしないから」

 偽りのない言葉は、怯えたディランの心を優しい光で包み込んでいく。決して消える事のないシェリルの光は、これから先をひとりで進まなければならないディランの傍らにいつでも灯りをともし、彼がひとりではない事を静かに告げているようだった。
 暗黒の闇の中、少年を救う為だけに現れた真白き光が、彼をひとり置いて消滅する事は絶対にない。体に、心にシェリルの温もりを感じて、ディランが深く静かに息を吸う。
 そして、ゆっくりと扉を押し開いた。

 ディランとエリザを隔てていた大きな扉は、意外なほど容易く開け放たれた。
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