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第5章 終わらない夜
すれ違う心・2
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その音は、断末魔の絶叫に似ていた。
『…………――――のか?』
体の全神経を震わせる耳障りな金属音。暗い空に弧を描く、青の軌跡。間近で重なり合った赤と青の瞳。その奥で揺らめいた過去の残像に、アルディナがぎくんと体を震わせる。
『お前は我の赦しを得たいのか?』
悲鳴を上げて真っ二つに折れたサファイア色の剣が、役目を果たせないままアルディナの手を離れ、砂に飲み込まれて消えていった。
「アルディナ様っ!」
意識のはるか遠くでその声を聞きながら、アルディナはルシエルから逸らせないその瞳に、忘れる事の出来ない天地大戦の光景を浮かび上がらせた。
姉としての自分を棄て、創世神である事を認めなければならなかったあの夜。世界を守護する女神としての責任に押し潰され、破裂しそうになる悲鳴を必死に堪えた辛い日々。
迎え撃つ敵が、なぜルシエルでなければならなかったのか。
なぜたったひとりの弟を、この手で殺めねばならないのか。
――――なぜ、ルシエルを手放してしまったのか。
すべては創世神である自分に非があった。闇の邪悪さを知りながら、ルシエルをたったひとりで地界へ送り、天地大戦の発端を作り上げてしまった事。ルシエルを救う事ばかり考え、悪の根源である闇を滅ぼせなかった事。
アルディナとして進みたい道は創世神の影によってすべて塞がれ、彼女には選択の余地すらなかった。アルディナの思いは、創世神である彼女にとって邪魔なもの以外の何でもない。己の罪と運命と非力さに嘆き悲しみながら、それでもアルディナは創世神として聖杖ルーテリーヴェを手に取ったのだ。世界に害を成す闇の王ルシエルを倒す為に。
『お前は躊躇う事なく、我を斬る事が出来るのだろうな』
瘴気の影に垣間見たルシエルとしての最後の表情は、アルディナの心に深く鋭い傷跡を残して消えていった。
「我が闇で永久に眠れ」
呪いのように告げられた忌まわしいその声音を合図にして、ルシエルの体の中からおびただしい量の瘴気が勢いよく弾け飛んだ。それは大気に溶け込むより早く、アルディナとルシエルの間に禍々しい気を放つ漆黒の魔法陣を完成させる。敵を威嚇するかのように絡み付いた髑髏の幻影に重なって、漆黒の魔法陣の向こう……そこに魔剣を突き立てようとしていたルシエルが、アルディナを見つめてにやりと冷たい笑みを浮かべた。
「我は……――――」
その先を、アルディナが耳にする事はなかった。
凍った魔剣を受け入れた漆黒の魔法陣は、絶叫に似た轟音を上げながら無数の亡者を暗い空いっぱいに召喚し、それとほぼ同時に力を失い風化するように崩れ落ちた。魔法陣の悲鳴はそこにいた光あるものすべてを呪い、皮膚の内側にまでその魔手を伸ばし、体の全神経を麻痺させていく。
『我はお前を赦しはせぬ』
唯一残された視覚の自由すら奪われようとする中で、アルディナは自分が何よりも望んでいた者の声によって告げられた憎しみの言葉を、心のはるか奥底で聞いたような気がした。
「ルシエルっ!」
アルディナの叫びは、悲しき神に届くものではなかった。闇に堕ち、『自分』を失った時から彼はルシエルである事を棄て、弱き心を己が手で破壊したのだ。ルシエルの存在を放棄した肉体に、彼の魂が戻る場所はもうどこにもない。希望の光シェリルが闇に捕われ彼を救う事が出来ない今、ルシエルは果て無き闇でたったひとり朽ち果てていくはずだった。
けれど。
空間を引き裂く鋭い音と共に、アルディナを飲み込もうとしていた亡者の群れが両端に勢いよく弾き飛ばされた。動けないアルディナを確実に捕えるはずだった闇の触手は、まるで聖なる光を浴びてしまったかのように恐れおののき、そこへ留まる事すら許されず粉々に粉砕されていく。
空を覆い尽くす勢いで膨張していた亡者の群れが一瞬にして消滅し、辺りは再び何もない暗い闇の静寂に包まれる。それを破ったのは、驚きに満ちたルシエルの声音だった。
「何だとっ!」
余裕に満ちたいつもの彼からは考えられないほど激しく動揺したその声に、アルディナがぎくんと震えて閉じていた目をぱっと開いた。
青い瞳に、そこにあるはずのない色彩が弱々しく揺らめいていた。
「――――ルシエル……?」
アルディナを闇の魔手から救ったのは、他の誰でもないルシエル自身の幻影だった。
目の前に突如現れた紫銀の幻影をすぐには信じられず、見開かれた青い瞳が困惑に揺れる。闇に飲まれ、その意識すらもう二度と戻る事はないだろうと思われていたルシエル。その彼が今この窮地において、何よりも憎んでいたはずのアルディナを救った。天地大戦ではただの一度も姿を現す事のなかった彼が。
「……ルシエル……お前は」
震える唇からやっとそれだけを口にしたアルディナの言葉を掻き消して、闇を纏う者の荒々しい怒号が空をも撃ち落す勢いで辺りに激しく木霊した。
「……なぜだっ! なぜお前がそこにいるっ。お前は我が……お前のすべては、我が残らず食い尽くしたはずだっ!」
魔剣の切っ先を向けて狂ったように叫ぶ闇を纏う者の前で、儚く揺れるルシエルの幻影が黙したまま静かに瞳を閉じた。途端その姿を崩し、ひとつの丸い光球となったルシエルが、目にも止まらぬ速さで闇を纏う者に向かい一直線に飛び掛った。
「まだ足掻き続けると言うのかっ」
思ってもみない事態の変化に一足出遅れた闇を纏う者の攻撃を潜り抜け、淡い紫銀の光球が闇を纏う者に奪われたルシエルの体、その胸元を鋭く一気に貫いた。
「ぐあっ!」
胸を貫いた光球は貫通する事なく体の中へ引き込まれ、その衝撃だけが背中から外へ吐き出されていく。漆黒のマントが激しくあおられ、そこから溢れ出した大量の瘴気が、ルシエルの体をそのまま闇の深淵へ連れ去ろうとしていた。
「待てっ、ルシエル! お前は……」
徐々に薄れていくルシエルへ手を伸ばしたアルディナの視線の先で、灰色の髪を振り乱したルシエルがその隙間から鋭い瞳をのぞかせて、彼女をぎろりと睨みつける。凍った光を残す、血のように赤い瞳。それはルシエルが闇に堕ちた証。
かつて全世界を震え上がらせた恐るべし邪眼は、しかし闇に消えるその前に、かすかな熱を持つ淡いブルーへと色を変えた。
その色は、アルディナに似て非なるもの。彼女と同じ力を持ち、闇に分かれたもうひとりの創世神。
「ルシエル。……――――カイン?」
指先で消えたルシエルを思い、静かに零れたアルディナの音は、憎むべき敵のいない砂漠に少しだけ悲しく響いていった。
『…………――――のか?』
体の全神経を震わせる耳障りな金属音。暗い空に弧を描く、青の軌跡。間近で重なり合った赤と青の瞳。その奥で揺らめいた過去の残像に、アルディナがぎくんと体を震わせる。
『お前は我の赦しを得たいのか?』
悲鳴を上げて真っ二つに折れたサファイア色の剣が、役目を果たせないままアルディナの手を離れ、砂に飲み込まれて消えていった。
「アルディナ様っ!」
意識のはるか遠くでその声を聞きながら、アルディナはルシエルから逸らせないその瞳に、忘れる事の出来ない天地大戦の光景を浮かび上がらせた。
姉としての自分を棄て、創世神である事を認めなければならなかったあの夜。世界を守護する女神としての責任に押し潰され、破裂しそうになる悲鳴を必死に堪えた辛い日々。
迎え撃つ敵が、なぜルシエルでなければならなかったのか。
なぜたったひとりの弟を、この手で殺めねばならないのか。
――――なぜ、ルシエルを手放してしまったのか。
すべては創世神である自分に非があった。闇の邪悪さを知りながら、ルシエルをたったひとりで地界へ送り、天地大戦の発端を作り上げてしまった事。ルシエルを救う事ばかり考え、悪の根源である闇を滅ぼせなかった事。
アルディナとして進みたい道は創世神の影によってすべて塞がれ、彼女には選択の余地すらなかった。アルディナの思いは、創世神である彼女にとって邪魔なもの以外の何でもない。己の罪と運命と非力さに嘆き悲しみながら、それでもアルディナは創世神として聖杖ルーテリーヴェを手に取ったのだ。世界に害を成す闇の王ルシエルを倒す為に。
『お前は躊躇う事なく、我を斬る事が出来るのだろうな』
瘴気の影に垣間見たルシエルとしての最後の表情は、アルディナの心に深く鋭い傷跡を残して消えていった。
「我が闇で永久に眠れ」
呪いのように告げられた忌まわしいその声音を合図にして、ルシエルの体の中からおびただしい量の瘴気が勢いよく弾け飛んだ。それは大気に溶け込むより早く、アルディナとルシエルの間に禍々しい気を放つ漆黒の魔法陣を完成させる。敵を威嚇するかのように絡み付いた髑髏の幻影に重なって、漆黒の魔法陣の向こう……そこに魔剣を突き立てようとしていたルシエルが、アルディナを見つめてにやりと冷たい笑みを浮かべた。
「我は……――――」
その先を、アルディナが耳にする事はなかった。
凍った魔剣を受け入れた漆黒の魔法陣は、絶叫に似た轟音を上げながら無数の亡者を暗い空いっぱいに召喚し、それとほぼ同時に力を失い風化するように崩れ落ちた。魔法陣の悲鳴はそこにいた光あるものすべてを呪い、皮膚の内側にまでその魔手を伸ばし、体の全神経を麻痺させていく。
『我はお前を赦しはせぬ』
唯一残された視覚の自由すら奪われようとする中で、アルディナは自分が何よりも望んでいた者の声によって告げられた憎しみの言葉を、心のはるか奥底で聞いたような気がした。
「ルシエルっ!」
アルディナの叫びは、悲しき神に届くものではなかった。闇に堕ち、『自分』を失った時から彼はルシエルである事を棄て、弱き心を己が手で破壊したのだ。ルシエルの存在を放棄した肉体に、彼の魂が戻る場所はもうどこにもない。希望の光シェリルが闇に捕われ彼を救う事が出来ない今、ルシエルは果て無き闇でたったひとり朽ち果てていくはずだった。
けれど。
空間を引き裂く鋭い音と共に、アルディナを飲み込もうとしていた亡者の群れが両端に勢いよく弾き飛ばされた。動けないアルディナを確実に捕えるはずだった闇の触手は、まるで聖なる光を浴びてしまったかのように恐れおののき、そこへ留まる事すら許されず粉々に粉砕されていく。
空を覆い尽くす勢いで膨張していた亡者の群れが一瞬にして消滅し、辺りは再び何もない暗い闇の静寂に包まれる。それを破ったのは、驚きに満ちたルシエルの声音だった。
「何だとっ!」
余裕に満ちたいつもの彼からは考えられないほど激しく動揺したその声に、アルディナがぎくんと震えて閉じていた目をぱっと開いた。
青い瞳に、そこにあるはずのない色彩が弱々しく揺らめいていた。
「――――ルシエル……?」
アルディナを闇の魔手から救ったのは、他の誰でもないルシエル自身の幻影だった。
目の前に突如現れた紫銀の幻影をすぐには信じられず、見開かれた青い瞳が困惑に揺れる。闇に飲まれ、その意識すらもう二度と戻る事はないだろうと思われていたルシエル。その彼が今この窮地において、何よりも憎んでいたはずのアルディナを救った。天地大戦ではただの一度も姿を現す事のなかった彼が。
「……ルシエル……お前は」
震える唇からやっとそれだけを口にしたアルディナの言葉を掻き消して、闇を纏う者の荒々しい怒号が空をも撃ち落す勢いで辺りに激しく木霊した。
「……なぜだっ! なぜお前がそこにいるっ。お前は我が……お前のすべては、我が残らず食い尽くしたはずだっ!」
魔剣の切っ先を向けて狂ったように叫ぶ闇を纏う者の前で、儚く揺れるルシエルの幻影が黙したまま静かに瞳を閉じた。途端その姿を崩し、ひとつの丸い光球となったルシエルが、目にも止まらぬ速さで闇を纏う者に向かい一直線に飛び掛った。
「まだ足掻き続けると言うのかっ」
思ってもみない事態の変化に一足出遅れた闇を纏う者の攻撃を潜り抜け、淡い紫銀の光球が闇を纏う者に奪われたルシエルの体、その胸元を鋭く一気に貫いた。
「ぐあっ!」
胸を貫いた光球は貫通する事なく体の中へ引き込まれ、その衝撃だけが背中から外へ吐き出されていく。漆黒のマントが激しくあおられ、そこから溢れ出した大量の瘴気が、ルシエルの体をそのまま闇の深淵へ連れ去ろうとしていた。
「待てっ、ルシエル! お前は……」
徐々に薄れていくルシエルへ手を伸ばしたアルディナの視線の先で、灰色の髪を振り乱したルシエルがその隙間から鋭い瞳をのぞかせて、彼女をぎろりと睨みつける。凍った光を残す、血のように赤い瞳。それはルシエルが闇に堕ちた証。
かつて全世界を震え上がらせた恐るべし邪眼は、しかし闇に消えるその前に、かすかな熱を持つ淡いブルーへと色を変えた。
その色は、アルディナに似て非なるもの。彼女と同じ力を持ち、闇に分かれたもうひとりの創世神。
「ルシエル。……――――カイン?」
指先で消えたルシエルを思い、静かに零れたアルディナの音は、憎むべき敵のいない砂漠に少しだけ悲しく響いていった。
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