飛べない天使

紫月音湖(旧HN/月音)

文字の大きさ
上 下
77 / 114
第5章 終わらない夜

すれ違う心・1

しおりを挟む
 渦巻く瘴気に絡み付く愛憎。
 絶叫に似た風のうねりは大地を激しく揺り動かし、その震動に耐え切れず、乾ききった砂漠が轟音を上げて縦にばっくりと引き裂かれた。そこからずるりと這い出した新たな闇は再び砂漠を飲み込んで、邪悪な勢力を天界全土にまで伸ばすようにじわりと広がり始める。砂漠をすっぽりと覆い隠した闇は、枯れ果てたその土地から更に生気を奪い取り、荒野そのものを巨大な砂漠へと変えていった。

 目に映るものを忌み嫌い、触れるものをすべて破壊していくその闇の圧倒的な黒い力は、悲運がもたらした天地大戦の惨劇を思い出させる。
 焦がれたものを拒み、癒える事のない悲しみに捕われた孤独な神の絶叫のように、止まる術を知らないまま延々と膨れ上がった暗黒の闇。それはあの日と同じ姿のままで、思い焦がれた光の前に立ちはだかっていた。
 闇よりも深い漆黒の翼。白い手に握られた氷の魔剣フロスティア。毒々しい赤に煌く双眸がゆっくりと動き、虚ろな視界に狂おしく求めたアルディナの姿を捉えたその瞬間。

「――――アルディナ」

 ぴたりと風が止んだ。我先にと天界を蝕んでいた黒い触手は凍ったように動きを止め、それまで辺りに木霊していた闇の騒音までもが幻聴であったかのように、静寂を超えて沈黙にひれ伏している。
 恐ろしいまでの静けさ。激しく打ち付ける鼓動音さえ掻き消され一切の音を拾えない鼓膜は、完全に麻痺してしまったようだった。

 永遠にも近い時の中で互いを愛し、そして激しく憎しみ続けてきた者たちの再会は異様なほどに静かで、かえってそれがルーヴァたちに不気味さを与えている。無音の空間を支配するルシエルの存在に、心臓を鷲掴みにされているような痛みを感じて、ルーヴァが思わず顔を歪ませた。
 ルシエルから放たれる気は、少しの乱れも感じさせない。しかしその静の中に潜む邪悪さは更に力を増し、ルーヴァたちの心の奥にまで襲いかかって来る。
 熱のない闇。その魔手の黒。戦士の頃から友として親しんできた彼が振るうには、あまりにもかけ離れてしまった暗黒の力。アルディナからすべてを聞き真実を知っても、未だ半信半疑だったルーヴァは、暗黒に染まってしまった友の姿を瞳に映して絶句する。

「ああ、何て事。……カイン」

 真後ろにセシリアの声を聞きながら、ルーヴァは目の前に立ちはだかる闇の王の姿を打ち消すように、ぎゅっときつく瞼を閉じた。

(カイン。……貴方はそこで何をしているんですかっ)

 瞼の裏にくっきりと焼き付いたルシエルの姿に耐え切れず、ルーヴァは叫び出してしまいそうになる衝動を必死に堪えて、唇を強く噛み締める。乾いた口の中に、血の匂いが充満した。

「愚かだな」

 静寂を少しも乱す事なく響いた声に、ルーヴァがぎくんと震えて顔を上げた。

「たかが人間の小娘に、何を期待したのだ? 我をこの体から追い出す事が出来るとでも?」

 嘲るようにそう言ったルシエルがぱちんっと指を鳴らすと同時に、彼の真後ろで音もなく蠢いていた瘴気がぶわりと辺りに弾け飛んだ。その中からぐらりと傾いて現れ出た人影にルーヴァが声を上げるより早く、ルシエルの不気味な声音が再度闇に木霊した。

「落し子は我が闇に貪られた。もうお前たちの元に戻る事はあるまい」

 瘴気の枷を無くし、暗い空に投げ出されたシェリルの体が、砂漠を覆う闇の海めがけて真っ逆さまに落下した。

「シェリルっ!」

 弾かれたように空へ駆け上がったルーヴァを、そのはるか上空で無感情に見下ろしていたルシエルが、やがて興味を無くしたように彼からアルディナへと視線を移した。砂漠を支配していた沈黙が、僅かに揺らぎ始める。

「アルディナ」

 その音に導かれ、闇が妖しく踊り出す。

「長き眠りの中で、我はずっとお前の事を考えていた。憎悪、嫉妬、渇望。それは、我の中で燃え上がる狂おしい愛に似ていたのかも知れぬ。……アルディナよ、我を感じるか? その心に、肌に、我の存在を感じているか? ――――我には遠い。指先に佇むはずのお前が、我にはまだ感じられぬ。夢の中だけでなく……アルディナ、お前をもっと近くに感じさせてくれ」

 ごうっと激しく闇がうねり始めた。それまでの静寂を打ち消すように勢いよく跳ね上がった闇の触手は、上空に浮かぶルシエルの体を飲み込みながら、そのまま眼下のアルディナをめがけて一気に崩れ落ちた。



 落下したシェリルを空中で抱き止め、アルディナたちから少し離れた場所へ着地したルーヴァは、消えたルシエルと襲い来る暗黒の闇に一瞬躊躇し、焦ったように周囲を見回した。
 意識のまったくないシェリルを守りながら戦う事は、非常に危険で難しい。かと言って、シェリルをこのままここへ置き去りにするなどもってのほかだ。
 闇から感じる邪気はたったひとつで、しかしそれはかつて天界をも恐怖に陥れた邪悪な闇の王ルシエルの力。女神の力を受け継いだシェリルが闇に捕われ、アルディナも本領を発揮できないこの状況では、闇を迎え撃つ事など到底出来ない。ありとあらゆる可能性は、ルシエルによってそのすべてを否定されていった。
 勝機の見えない戦い。けれど逃げる事は許されず、ルーヴァはほとんど無意識に唯一の武器であるサファイア色の短剣を自分の右手に召喚していた。

「武器をっ!」

 迫り来る闇の邪悪な魔力を引き裂いて、アルディナの凛とした声音が闇に強く木霊した。暗黒の触手に蝕まれる事なく毅然と輝くアルディナの姿は、闇に覆われた空間に何者にも堕とす事の出来ない絶対の存在を浮き彫りにさせる。
 闇に侵され漆黒と化した視界の片隅に創世神の姿を垣間見たルーヴァが、右手に召喚していたサファイア色の短剣を半ば反射的に空中のアルディナへと投げ飛ばした。薄青の軌跡を一直線に伸ばして闇を切るサファイア色の短剣は、引き寄せられるのようにアルディナの右手へ導かれ、神聖な熱を受け取りながらその形を一本の長剣へと変形させた。

 高く鋭い音と共に、アルディナを中心にして闇がぶわりと左右に弾け飛んだ。波紋のようにざあっと広がる光と闇の衝撃波は、触れた者の意識をあっという間に奪うほど激しく入り乱れた力の渦で、それをまともにくらったルーヴァとセシリアは力任せに剥がされそうになる意識を寸前のところで何とか必死に引き止めた。
 透き通った薄青の刃に十字に重なった白い魔剣の向こう側で、闇から現れ出たルシエルが真紅の瞳を妖しく揺らめかせて、にいっと不気味に微笑んだ。

「間に合わせの剣では、我が積年の憎悪を受け止める事など出来ぬ」

 剣を合わせたままで、残った左手をアルディナへ伸ばしたルシエルが、その冷たい指先に求めた熱を感じて愛しそうにすうっと目を細めた。

「あの忌々しい聖杖はどうした? 翼と共に力なき落し子へ貸し与えたのか?」

 愛しい表情は一転して嘲笑に変わり、そのまま唇を寄せるようにゆっくりと顔を近付けたルシエルを、アルディナは退く事もせず落ち着いた静かな瞳で見つめ返していた。

「シェリルは負けない」

 迷う事なくきっぱりと返された言葉に、ルシエルがふんっと鼻で嘲笑う。

「お前の望みは我がすべて壊してやろう」

 脳裏に描く理想郷に酔いしれながら、ルシエルがアルディナから引き戻した手に赤黒い瘴気の塊を作り上げた。

「我の世界に、光はいらぬ」

 凍って落ちたルシエルの言葉にアルディナがはっと目を見開いたその先で、細い稲妻を幾つも絡ませた赤黒い邪気の塊がルシエルに命じられるまま勢いよく爆発した。その場で粉々に弾け飛んだ邪気の破片はアルディナの白い柔肌を容赦なく切り裂いて砂漠へ落下し、砂に埋もれる前に醜悪な姿を象った忌むべき魔物へと変化していく。突如現れた魔物に応戦する二人の天使の姿を視界の端に捉えたアルディナが、小さく声を漏らして表情を曇らせた。
 今のアルディナに、ルシエルと互角に戦えるだけの力はない。天使の象徴とも言える翼も、女神としての力も聖杖も、唯一の希望と共にすべてシェリルへと受け継いだ。闇を打ち負かす事が出来るのも、ルシエルを救う事が出来るのも、今となってはシェリル以外に誰ひとりとしていない。天界の、世界の希望であるシェリルが闇に捕われた今、アルディナたちに勝機はまったくなかった。

『シェリルは負けない』

 それはアルディナ自身が信じたかった言葉だったのかもしれない。

「忌むべきものこそ光だ」

 ふっと頭上に影が落ちたかと思うと、見上げたアルディナの視界が黒い闇を割る白の軌跡に埋め尽くされた。

「くっ!」

 脳天めがけて振り下ろされた魔剣を間一髪で右に避けたアルディナの真横を、白い軌跡が素通りする。と同時に素早く身を翻したルシエルが空中で急停止し、瞬きする暇も与えず再度アルディナへと切りかかった。

「お前も、あの落し子も排除する。――――そして、ルシエルもな」

 真横になぎ払われた魔剣の刃から溢れ出した氷の衝撃波に体当たりされ、遠くへ吹き飛ばされたアルディナが視界を確保するより先に、ルシエルの冷たい声が間近で静かに囁かれた。

「お前の負けだ」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

旦那様には愛人がいますが気にしません。

りつ
恋愛
 イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。 ※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。

今更気付いてももう遅い。

ユウキ
恋愛
ある晴れた日、卒業の季節に集まる面々は、一様に暗く。 今更真相に気付いても、後悔してももう遅い。何もかも、取り戻せないのです。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます

結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】 ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~

おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。 どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。 そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。 その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。 その結果、様々な女性に迫られることになる。 元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。 「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」 今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。

病弱少年が怪我した小鳥を偶然テイムして、冒険者ギルドの採取系クエストをやらせていたら、知らないうちにLV99になってました。

もう書かないって言ったよね?
ファンタジー
 ベッドで寝たきりだった少年が、ある日、家の外で怪我している青い小鳥『ピーちゃん』を助けたことから二人の大冒険の日々が始まった。

処理中です...