飛べない天使

紫月音湖(旧HN/月音)

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第5章 終わらない夜

愛を求める少年・3

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 生きていく事すら許されなかった狂気の世界。
 孤独と絶望に取り巻かれた村は女神の恩恵を多大に受けながらも、数千年その地を貪り続けてきた暗黒の闇に耐える事が出来ず、端から徐々に崩壊を始めていた。大地にじわりと染み込む雨水のように人々の心を浸食し、やがてそれはすべてを奈落に突き落とす勢いで村全体を歪んだ空間へと変えていく。
 その中で、彼は死んだ。幾度となく刃を突き立てられ、誰にも救われる事なく、彼はひとりで死んで逝った。

『……ディラン』

 真夜中の深海を漂うように漆黒の空間に身を委ねていたシェリルは、どこからともなく聞こえてくる悲しみに染まった女の声に誘われてゆっくりと意識を覚まし始めた。

『あなたは何も悪くない。愛していると告げられなかった私が……私がすべての罪を背負うはずだったのに』

 視界の片隅でぼんやりと浮かび上がったかすかな亜麻色に、シェリルがはっと目を見開いた瞬間。

『お母さん。……お母さん、僕ここにいるよ。ずっとずっと……ここにいるんだよ』





 何かに急かされたように目を覚ましたシェリルは、自分が今いる場所を瞳に映すなりぎくんと体を震わせた。
 見覚えのある風景。増殖する狂気と、翻弄され荒廃していった村の異様なまでに荒れ果てたその姿を、シェリルは忘れるはずがなかった。
 生気なく枯れ果てた大地は水に代わるものを求めて鋭い亀裂の口を開け、主を失った家々は亡者の嘆きにも似た声をあげて軋み始める。外界から切り離されたその不気味な静寂を破ったのは、少年の甲高い悲鳴だった。

「……っ!」

 少年の絶叫に飛び上がって驚いたシェリルが顔を向けたその先で、狂い咲いた花弁のように乱れ散った真紅の飛沫が、少年の小さな体を乾いた地面へとなぎ倒した。
 渇きを癒す為に捧げられた血を飲み干して赤く染まった大地の上に、力なく横たわった少年の塊。その小さな体には無慈悲な刃が休みなく突き立てられ、肉を裂き深く抉る音だけが枯れた空気に飲み込まれて消えていく。

(……な、何っ? 何が起こってるの?)

 目の前でなおも続けられる壮絶な行為に目を逸らす事も出来ず、シェリルは小刻みに震え始めた体を両腕で押えながらそれらを否定するように緩く首を横に降る。そんなシェリルを嘲笑うかのように、最後の刃が動かない少年の体へ勢いよく振り下ろされた。

「やめ……っ」

 弾かれたように手を伸ばしたシェリルの耳に。

『……――――お母さん、どこ?』

 鮮血に染まった少年が、弱く小さく、けれど確かにそう呟いた。
 その途端、獲物に群がり狂気を貪り合う村人たちと、彼らに容赦なく斬り付けられていた少年の体が、まるで見えない手によって覆い隠されたようにシェリルの前から忽然と姿を消した。おびただしい量の血痕すら跡形もなく消え、さっきまでの光景が幻であったかのようにそこには静寂が舞い戻る。
 何が起こったのかまったく理解出来ず、ただ呆然と立ち尽くしていたシェリルが瞬きするより先に、先ほどと同じ少年の鋭い悲鳴が、再び静寂を切り裂きながら辺りに木霊した。

「かけらを! 涙のかけらを取り戻せっ!」

 狂った村人たちの声と共に、再度繰り広げられる惨劇。振り下ろされたおぞましい刃の群れと、抵抗する間もなくそれを受け止めた柔な体。
 彼らを止めようとして伸ばされたシェリルの指先で、介入される事を嫌うようにまたも掻き消えた幻は、間を空けずに再び彼女の目の前に現れ出る。肉を裂く音と少年の悲鳴、そして村人たちの狂った絶叫は耳を強く塞いでもシェリルの頭に深く響き、閉じた瞼の裏側に生々しい鮮血の光景を浮かび上がらせていく。

(どうしてっ。あれは何なの? ここは一体どこなの!)

 剣を振りかざし、ルシエルに向かって攻撃を仕掛けた事ははっきりと覚えている。それはシェリルの手に未だ残る、痺れた感覚が証明していた。
 では、ここは一体どこだというのか。
 終わる事なく繰り返されるフィネス村の惨劇を永遠に見続けるこの世界は、一体誰の……。

「――ディラン」

 答えは考える間もなく、シェリルの唇を割って零れ出た。
 ルシエルの闇に引きずり込まれたシェリルはどういうわけかディランの夢に迷い込み、彼が永遠に見続けていた光景を現実のように体験していた。
 それに対して疑う余地はどこにもない。自ら闇に身を委ね、長い時間をルシエルと共に歩んできた彼がずっと求めていたもの、その思いとここで幾度となく殺されていた少年が望んだものはまったく同じものだったのだから。
 鋭い刃に我が身を切り裂かれ、終わる事のない苦痛に耐えながら、幼い少年ははるか昔からずっとただひとつのものを求め続けてきた。自分を守ってくれると言った母親の温かい腕に包まれる事を夢見ながら、彼はただそれだけを待ち望んでいたのだ。

「ディラン。……もう、いいの」

 静かに呟かれた声は、シェリルの瞳に涙を誘う。白い頬を撫でるように滑り落ちた涙の粒はシェリルの足元で硝子のように砕け、そのまま光を纏いながらシェリルの体を包み込んで膨張した。

「もうひとりで泣かなくてもいいのよ」

 シェリルを包んだ光は大きく羽ばたいた翼によってふわりと空へ舞い上がり、そして少年を刃物で追い立て惨殺しようとする村人たちの真上に鋭い豪雨として降りかかった。光の雨は夢に潜む闇の破片を浄化するように降り注ぎ、村人たちの体はその一粒に触れただけで悲鳴を上げる間もなく弾け飛び、そのまま瘴気の塊と化していく。
 熱い血潮を望んだ大地は変わりに慈愛に満ちた光の雨を思う存分吸収し、幾分潤ったその両腕に初めて無傷の少年を抱きとめていた。

「……ディラン」

 数回目でやっとディランを救う事ができ安堵の溜息を漏らしたシェリルの前で、初めて訪れた静寂に呆けたような表情を浮かべた少年が、周りを確認するとゆっくりとシェリルの方へ顔を向けた。一瞬だけ重なり合った生気のない虚ろな瞳はすぐに逸らされ、ディランは何かに怯えるようにかたかたと体を震わせ始める。

「駄目、だよ。お姉ちゃん……僕の邪魔、しないで」

 唇のすぐ先で紡がれた音は吐息のように儚い。

「お姉ちゃんに助けられると、来てくれない」

「誰を待ってるの?」

 その質問に戸惑いながらシェリルを見つめたものの、すぐに視線を自分の足元に戻したディランが、ゆっくり時間をかけて小さな唇を動かし始めた。

「……お母さん。僕を、守ってくれるって言ったんだ」


 ――――母さんが、お前を守ってあげるから。


 壊れそうなほど純粋なディランの思いに、シェリルの胸が切なく締め付けられる。
 遠い昔も悪夢に捕われた今も、ディランの願いは叶わなかった。彼に残された唯一の希望は最後の最後でその思いを裏切り、ディランはたったひとりの味方さえ失ってしまった。
 少年が望む救いの手は差し伸べられず、永遠に殺され続ける終わりのない夢。
 彼は救われない。
 優しさも愛も知らず、闇に朽ち果てては意味を成さない生を与えられる。それはまるで少年を捕えて離さない、冷たい檻のようだった。
 けれど。

「ディラン。家へ帰りましょう」

「帰れないよ。僕はここで、待ってなくちゃいけない」

「大丈夫。あなたのお母さんも、きっと家であなたを待ってる。私がついて行ってあげるから……一緒に帰ろう?」

 淡く微笑んでディランに手を差し伸べたシェリルには、ひとつだけはっきりと解る事があった。それはこの世界に迷い込んだ時、かすかに聞こえた女性の声がディランの母エリザの心の声だったという事。
 闇に飲まれ愛しい我が子を救う事も出来ず、挙句その手で殺してしまったエリザの悲しい思いは、ディランと同じように長い時を彷徨い歩き彼を求めて生き続けてきた。二つの思いは深い悲しみに阻まれて、何よりも近くにいたと言うのに重なり合う事はなかった。それをシェリルが変えられるとしたのなら、ここに留まるディランとエリザの魂を長い時の呪縛から解き放つ事が出来るかもしれない。

「ね? ディラン」

「……でも」

 自分に差し出された白い手を見つめながら曖昧に返事をしたディランに、シェリルが再度優しい声音で語りかける。

「お母さんに、会いたいでしょう?」

 その言葉を確かめるようにシェリルを真っ直ぐ見つめたディランの瞳が、生気のない死んだ色から本来の輝きを取り戻していく。押し寄せてくる感情の波を素直に受け止めて大きな瞳を潤ませたディランが、滑らかな頬にぼろぼろと涙を零しながらこくん、と一度だけ小さく頷いた。

「……家に、帰りたい。お母さんの所に帰りたいよ。でも僕は魔物だからここで罪を償わなくちゃいけないって、皆がっ。……お母さんが来てくれたら、僕は許されると思ったんだ。でもっ」

 泣き出してしまわないように嗚咽を堪えてそう言ったディランが、溢れ続ける涙を止めようとぎゅっときつく瞼を閉じた。

「でもっ……もう、こんな場所嫌だよっ。家に帰りたいのに……本当は、ずっと怖くて動けなかった」

 幼い少年が声を殺して泣く姿はあまりに痛々しく、シェリルは込み上げてくる切なさを胸一杯に感じながら戸惑うように両手をきつく握りしめた。目覚めてしまった悲しみにそれ以上耐える事が出来ず、ディランは震える体を小さく丸めてシェリルの足元に崩れるようにしゃがみ込む。

「ディラン」

「…………怖いよ。僕は、許される? それを望んでも……いいの?」

 弱々しく震えるディランの姿に大人だった彼の面影を重ねて見たシェリルが、ほとんど無意識に腕を伸ばしてディランの小さな体を抱き締めた。狂気の世界で初めて触れた確かな温もりに、ディランの震えがぴたりと止まる。

「お、姉ちゃん……?」

「ディラン、もう傷付かないで。怖いのなら、私が手を繋いでいてあげるから。見捨てたりしないからっ。……ここから抜けて、あなたの帰りたかった場所へ行きましょう」

 じわりと歪んだシェリルの視界の片隅に、ここにいるはずのない孤独の闇が揺らめいた。

『傷付かないで』

 それはシェリルが何よりも伝えたかった言葉。
 この腕の中で泣く少年に、そしてはるか彼方で今も苦しんでいる愛しき人へ。

 偽りのない澄んだ翡翠色の瞳に永遠の温もりを感じたディランが、その身に纏わり付いた悪夢を全部脱ぎ捨てて、シェリルの手のひらに自分の小さな手を静かにゆっくりと重ね合わせた。

 幼い少年を蝕む悪夢が終わろうとしていた。
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