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第5章 終わらない夜
愛を求める少年・1
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乾いた風が崩れかけた家を弄んで、かたかたと虚しい音を響かせていた。枯れ果て干乾びた茶色い大地に、決して風化する事のないどす黒い跡が点々と染み付いている。恨めしい憎悪に囚われたそれはまるで、許されない永遠の罪を象ったかのようにも見えた。
そこに、彼はいた。幼い少年の姿で立ち尽くしていた。
「……――お母さん?」
不安げな声に答える者は、どこにもいない。零れ落ちた声は生気のない風に攫われて、成す術もなくぼろぼろに崩れ去ってしまった。女神の恩恵を失った寂れた村は少年の鼓動音さえ瞬時に枯らし、生命あるものを元から拒絶する。
「お母さん。……どこ?」
怯えた声すら、小さな村に取り残される。大きな瞳に、少年が求める影はない。
不快な吐息を吹きかけた風は、どこか血の匂いがした。
泣き喚く氷刃の渦。氷の白と闇の黒が織り成す凍った空間に、色鮮やかな鮮血の薔薇が咲き乱れる。氷刃の枷に囚われて空中で時を止めた灰青の影は、そこにひときわ大きな真紅の花を飾り立てていた。
『我にお前は必要ない』
耳の奥に冷たく触れたルシエルの声音が、ディランの中で木霊する。
一瞬何が起こったのか理解できず、胸から突き出た氷刃を凝視していたディランは、そこから急速に熱が奪われていくのを感じてびくんと体を震わせた。その拍子に信じられないほど大量の血を吐き出したディランは、鮮血に埋め尽くされた視界の隅に自分を見上げている金色の影を見つけて緩く首を傾ける。
自分は確か、あの忌々しい女神の使いを相手にしていたはずだ。主を守るべく、その前に盾として飛び込んだはず。それなのに、この胸を貫く氷の刃は一体何を意味していると言うのか。
戦うべき相手は目の前で驚愕に打ち震えている。ディランが守るべきルシエルはその力を必要とせず、情け容赦なく彼そのものを排除しようとしていた。血を求めた氷の魔剣フロスティアによって。
「……ル、シエ……」
吐息にも似たか細い声はかすかな絶望を含み、流れ出る血と共に空に投げ出される。大きく見開かれた瞳は己の胸を貫いた魔剣の刃を映し出し、ディランにとってもっとも残酷な現実を生々しく見せ付けていた。
『お前を捨てる事などないと誓おう』
あの日、孤独に死に逝くはずだったディランに、救いの手を差し伸べてくれた唯一の存在。同じ孤独に囚われ、その痛みを分かち合ってきたはずだったルシエルは、同胞であるディランの胸に躊躇う事なく剣を突き刺した。そこに、ディランの知る彼の優しさは微塵もなかった。
「…………う……そだっ」
魔剣を認めたディランの中で、今まで彼を支えてきた絶対の存在が崩れ落ちる。それを失えばディランの中にはもう何も残らない。願う事すら拒否された少年時代に引き戻される。ディランは自分を救ってくれたルシエルの手によって、再び己の存在を否定されたのだ。
「嘘だっ。……嘘だっ! ルシエル様は、僕を救ってくれた。あいつらのように裏切る事はないと……約束してくれたんだ! 僕を……必要だとっ」
崩れゆく心の悲鳴に耳を塞いで、ディランが胸から突き出した魔剣の刃を両手でぎゅっと握りしめた。手のひらに熱い痛みを感じながら、それでもディランは剣の存在を覆い隠すかのようにもっと強く魔剣の刃に両手を食い込ませる。
『……どうして……お母さん』
記憶の片隅で震えて泣く少年は、残酷に狂った小さな村では生きていく事が出来なかった。闇に生きる、同じ孤独に囚われた紫銀の影だけがディランを理解し認めてくれた。女神にすら翻弄された幼い命が初めて出会った真実の温もりは光ではなく闇の中に存在し、けれど光よりはるかにディランを優しく迎え入れてくれたのだった。
ここでなら生きていける。もう誰にも咎められず、ディランはディランとして自由に生きていく事が出来ると、そう信じて疑わなかったのに。
「……僕は……――――ここですら不必要だったと言うのか」
最後の最後でディランを完全に否定したのは、他の誰でもない彼の光ルシエル自身だった。
「お前は闇で生きるには優しすぎた」
ディランの求める声音で冷たく言い捨てたルシエルが、そのままディランの体を抱き締めるように身を寄せた。その腕にかつての温もりを感じた気がしてはっと顔を上げたディランの口元が、真後ろから伸びたルシエルの手によって完全に塞がれる。
「……ルシエル様っ!」
「泣き喚くな。お前の悲鳴は、我が身に辛い」
『我と共に闇に生きるか』
『お前は生まれてきてはいけなかったのよ』
『……いやだっ! 死にたくないよ!』
『殺せっ! あの化け物を殺すのだっ!』
記憶の果てで甦る、彼に近しい亜麻色の影。その白く華奢な手に握られた銀色のナイフが、彼の瞳の奥で音もなく残酷に振り下ろされた。
『お前は要らない子』
ディランの過去を殺した冷たいナイフは、彼の胸で動きを止めた氷の魔剣と重なり合い共鳴し、ひとつになる。そしてそれは、ディランのすべてを否定する凶器であるという事に何ら変わりはなかった。
『我はルシエル。お前は?』
『……ディラン』
走馬灯のように浮かんでは消えていく過去の記憶にディランがそっと目を伏せた瞬間、彼の体を貫いた氷の魔剣が一気に真上へと引き抜かれた。
「いやああっ!」
魔剣によって染め上げられた鮮血の帯にくるまれて、ゆっくりと傾いたディランの体が暗い空に投げ出される。彼を手放したフロスティアは存分に血を吸ったその刃から真紅の涙を滴らせ、歓喜するように辺り一面に凍った冷気の衝撃派を解き放った。その波に翻弄されるがまま緩やかな弧を描いて落下していくディランの瞳に、悲痛な叫び声を上げて空を凝視するシェリルの姿が浮かび上がった。
己の無力さと残酷な運命を呪い泣き叫ぶその姿は、あの日幼い我が子を必死に求めて叫び続けた悲しき亜麻色の影と重なり合う。閉ざされた記憶の中で甦る彼を求める亜麻色は、ディランが何よりも手にしたかった温もりそのものだった。闇に堕ちてまでルシエルが光を望んだように、ディランは自分を何からも守ってくれる母親の愛を望んでいた。
「…………――――母……さん」
自分が今まで何を求めていたのかを知り、それを認めたディランの口元から吐息よりも小さな音が零れ落ちる。消えそうに儚い言葉は、彼の中でとっくに棄てられたはずの熱い涙を呼び戻し、硬い殻に閉じこもる傷だらけの少年にまで静かに手を伸ばし始めた。その指先を心の奥底に感じながらゆっくりと瞳を閉じたディランの頬を、幾つもの雫が滑り落ちていく。
震える唇が、最後の呪文を繰り返した。
「お母さん。……どこにいるの?」
薄く消えた言葉は、彼にかけられた暗黒の魔法を解く呪文となる。
空に抱かれたディランの体は端からぼろぼろと崩れ出し、そこから溢れ出した黒い瘴気はそれよりも鮮やかな真紅の雨によってかき消され、その中に取り込まれていた幼い少年の姿を完全に曝け出した。
そこにいたのは、シェリルが幻で見たフィネス村の少年だった。
涙のかけらを体に宿し、狂った村人たちによって幼い命を刈り取られてしまった異端の子ディラン。生きながらにして殺された、夢も希望も未来もない悲しき少年は、長い時を経てもなお彼だけに注がれる無償の愛を求めて泣き続けていたのだ。今はもういるはずのない、亜麻色の影に小さな手を伸ばしながら。
「――――また……僕を殺すの?」
シェリルに重ねた亜麻色の幻に手を伸ばし、怯えた子供のように切なく泣いたディランの体が空に溶けてその色をなくし始めた。
彼をこの地に留めていた闇の魔法は、それをかけたルシエル本人の手で解かれ、ディランはこの時代において存在する術をひとつ残らず奪われる。時の流れは容赦なくディランに降りかかり、偽りの体を目にも止まらぬ速さで風化させ塵へと変えていった。
愛を求めて伸ばされた指先は何ひとつ望んだものを掴めずに、彼はまたひとりで逝こうとしていた。
――――お母さん。
少年の悲しみに満ちた声が木霊する。
――――お母さん。僕を……愛して。
切ない願いは暗い空に飲み込まれ、それと同時に崩れながら落ちていくディランの体が原形を失うほどに解けて溶ける。そして――――ディランと言う存在そのものが、この世界から完全に消滅した。
そこに、彼はいた。幼い少年の姿で立ち尽くしていた。
「……――お母さん?」
不安げな声に答える者は、どこにもいない。零れ落ちた声は生気のない風に攫われて、成す術もなくぼろぼろに崩れ去ってしまった。女神の恩恵を失った寂れた村は少年の鼓動音さえ瞬時に枯らし、生命あるものを元から拒絶する。
「お母さん。……どこ?」
怯えた声すら、小さな村に取り残される。大きな瞳に、少年が求める影はない。
不快な吐息を吹きかけた風は、どこか血の匂いがした。
泣き喚く氷刃の渦。氷の白と闇の黒が織り成す凍った空間に、色鮮やかな鮮血の薔薇が咲き乱れる。氷刃の枷に囚われて空中で時を止めた灰青の影は、そこにひときわ大きな真紅の花を飾り立てていた。
『我にお前は必要ない』
耳の奥に冷たく触れたルシエルの声音が、ディランの中で木霊する。
一瞬何が起こったのか理解できず、胸から突き出た氷刃を凝視していたディランは、そこから急速に熱が奪われていくのを感じてびくんと体を震わせた。その拍子に信じられないほど大量の血を吐き出したディランは、鮮血に埋め尽くされた視界の隅に自分を見上げている金色の影を見つけて緩く首を傾ける。
自分は確か、あの忌々しい女神の使いを相手にしていたはずだ。主を守るべく、その前に盾として飛び込んだはず。それなのに、この胸を貫く氷の刃は一体何を意味していると言うのか。
戦うべき相手は目の前で驚愕に打ち震えている。ディランが守るべきルシエルはその力を必要とせず、情け容赦なく彼そのものを排除しようとしていた。血を求めた氷の魔剣フロスティアによって。
「……ル、シエ……」
吐息にも似たか細い声はかすかな絶望を含み、流れ出る血と共に空に投げ出される。大きく見開かれた瞳は己の胸を貫いた魔剣の刃を映し出し、ディランにとってもっとも残酷な現実を生々しく見せ付けていた。
『お前を捨てる事などないと誓おう』
あの日、孤独に死に逝くはずだったディランに、救いの手を差し伸べてくれた唯一の存在。同じ孤独に囚われ、その痛みを分かち合ってきたはずだったルシエルは、同胞であるディランの胸に躊躇う事なく剣を突き刺した。そこに、ディランの知る彼の優しさは微塵もなかった。
「…………う……そだっ」
魔剣を認めたディランの中で、今まで彼を支えてきた絶対の存在が崩れ落ちる。それを失えばディランの中にはもう何も残らない。願う事すら拒否された少年時代に引き戻される。ディランは自分を救ってくれたルシエルの手によって、再び己の存在を否定されたのだ。
「嘘だっ。……嘘だっ! ルシエル様は、僕を救ってくれた。あいつらのように裏切る事はないと……約束してくれたんだ! 僕を……必要だとっ」
崩れゆく心の悲鳴に耳を塞いで、ディランが胸から突き出した魔剣の刃を両手でぎゅっと握りしめた。手のひらに熱い痛みを感じながら、それでもディランは剣の存在を覆い隠すかのようにもっと強く魔剣の刃に両手を食い込ませる。
『……どうして……お母さん』
記憶の片隅で震えて泣く少年は、残酷に狂った小さな村では生きていく事が出来なかった。闇に生きる、同じ孤独に囚われた紫銀の影だけがディランを理解し認めてくれた。女神にすら翻弄された幼い命が初めて出会った真実の温もりは光ではなく闇の中に存在し、けれど光よりはるかにディランを優しく迎え入れてくれたのだった。
ここでなら生きていける。もう誰にも咎められず、ディランはディランとして自由に生きていく事が出来ると、そう信じて疑わなかったのに。
「……僕は……――――ここですら不必要だったと言うのか」
最後の最後でディランを完全に否定したのは、他の誰でもない彼の光ルシエル自身だった。
「お前は闇で生きるには優しすぎた」
ディランの求める声音で冷たく言い捨てたルシエルが、そのままディランの体を抱き締めるように身を寄せた。その腕にかつての温もりを感じた気がしてはっと顔を上げたディランの口元が、真後ろから伸びたルシエルの手によって完全に塞がれる。
「……ルシエル様っ!」
「泣き喚くな。お前の悲鳴は、我が身に辛い」
『我と共に闇に生きるか』
『お前は生まれてきてはいけなかったのよ』
『……いやだっ! 死にたくないよ!』
『殺せっ! あの化け物を殺すのだっ!』
記憶の果てで甦る、彼に近しい亜麻色の影。その白く華奢な手に握られた銀色のナイフが、彼の瞳の奥で音もなく残酷に振り下ろされた。
『お前は要らない子』
ディランの過去を殺した冷たいナイフは、彼の胸で動きを止めた氷の魔剣と重なり合い共鳴し、ひとつになる。そしてそれは、ディランのすべてを否定する凶器であるという事に何ら変わりはなかった。
『我はルシエル。お前は?』
『……ディラン』
走馬灯のように浮かんでは消えていく過去の記憶にディランがそっと目を伏せた瞬間、彼の体を貫いた氷の魔剣が一気に真上へと引き抜かれた。
「いやああっ!」
魔剣によって染め上げられた鮮血の帯にくるまれて、ゆっくりと傾いたディランの体が暗い空に投げ出される。彼を手放したフロスティアは存分に血を吸ったその刃から真紅の涙を滴らせ、歓喜するように辺り一面に凍った冷気の衝撃派を解き放った。その波に翻弄されるがまま緩やかな弧を描いて落下していくディランの瞳に、悲痛な叫び声を上げて空を凝視するシェリルの姿が浮かび上がった。
己の無力さと残酷な運命を呪い泣き叫ぶその姿は、あの日幼い我が子を必死に求めて叫び続けた悲しき亜麻色の影と重なり合う。閉ざされた記憶の中で甦る彼を求める亜麻色は、ディランが何よりも手にしたかった温もりそのものだった。闇に堕ちてまでルシエルが光を望んだように、ディランは自分を何からも守ってくれる母親の愛を望んでいた。
「…………――――母……さん」
自分が今まで何を求めていたのかを知り、それを認めたディランの口元から吐息よりも小さな音が零れ落ちる。消えそうに儚い言葉は、彼の中でとっくに棄てられたはずの熱い涙を呼び戻し、硬い殻に閉じこもる傷だらけの少年にまで静かに手を伸ばし始めた。その指先を心の奥底に感じながらゆっくりと瞳を閉じたディランの頬を、幾つもの雫が滑り落ちていく。
震える唇が、最後の呪文を繰り返した。
「お母さん。……どこにいるの?」
薄く消えた言葉は、彼にかけられた暗黒の魔法を解く呪文となる。
空に抱かれたディランの体は端からぼろぼろと崩れ出し、そこから溢れ出した黒い瘴気はそれよりも鮮やかな真紅の雨によってかき消され、その中に取り込まれていた幼い少年の姿を完全に曝け出した。
そこにいたのは、シェリルが幻で見たフィネス村の少年だった。
涙のかけらを体に宿し、狂った村人たちによって幼い命を刈り取られてしまった異端の子ディラン。生きながらにして殺された、夢も希望も未来もない悲しき少年は、長い時を経てもなお彼だけに注がれる無償の愛を求めて泣き続けていたのだ。今はもういるはずのない、亜麻色の影に小さな手を伸ばしながら。
「――――また……僕を殺すの?」
シェリルに重ねた亜麻色の幻に手を伸ばし、怯えた子供のように切なく泣いたディランの体が空に溶けてその色をなくし始めた。
彼をこの地に留めていた闇の魔法は、それをかけたルシエル本人の手で解かれ、ディランはこの時代において存在する術をひとつ残らず奪われる。時の流れは容赦なくディランに降りかかり、偽りの体を目にも止まらぬ速さで風化させ塵へと変えていった。
愛を求めて伸ばされた指先は何ひとつ望んだものを掴めずに、彼はまたひとりで逝こうとしていた。
――――お母さん。
少年の悲しみに満ちた声が木霊する。
――――お母さん。僕を……愛して。
切ない願いは暗い空に飲み込まれ、それと同時に崩れながら落ちていくディランの体が原形を失うほどに解けて溶ける。そして――――ディランと言う存在そのものが、この世界から完全に消滅した。
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