飛べない天使

紫月音湖(旧HN/月音)

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第4章 光と闇の復活

魔剣フロスティア・2

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 ごうっと激しく風がうねった。

 もっとも嫌う光の刃によって真っ二つに切り裂かれた闇が左右に勢いよく押し流され、激しい風に翻弄されるがまま砂粒が空へ舞い上がる。視界を覆う灰色の砂は後から押し寄せてくる光の粒子に吸収されるように消え、それとほぼ同時に両端へ逃げ去った闇が光に浸食され、はらはらと罅割れて剥がれ落ちた。渦巻いていた闇はあっという間に吹き飛ばされ、そこに本来の砂漠の姿が現れる。その中心に弔われた一本の剣が、シェリルの瞳の中でゆらりと妖しく煌いた。

「……魔剣フロスティア」

 引き寄せられるように砂漠へ足を踏み入れたシェリルを喜んで、硝子にも似た剣がちかちかと光を反射する。近付くにつれてそれは徐々に強くなり、シェリルは何となく背筋が凍る感覚にぞくりと体を震わせた。


 違う。凍っているのは、周りの空気だった。


 吐く息は白く濁り、指先はかたかたと震え出す。血管も筋肉も意識さえ凍ってしまいそうな冷たい空気は体ではなく心を氷付けにし、シェリルの精神を破壊しようとしていた。

 限りない孤独。叶わない想い。歪んだ憎悪。決して報われる事のない願いに悲嘆し絶叫する男の涙が作りあげた、魔剣フロスティア。それは触れるものを瞬時に凍らせ粉砕し、この世で男に希望を抱かせる存在すべてを無に帰していった。

 何もいらない。己のある場所さえないこの世界など、必要ない。透明で脆くも見える魔剣は、しかし想像を絶するほどの破壊力で希望を喰らい尽くしてきたのだ。氷のように透き通ったその刃を幾度となく真紅に染め、多くの命を奪って来たに違いない。


 肉眼ではっきりとその姿を確認できるまでに近付いたシェリルがそこで足を止め、氷の魔剣フロスティアと向かい合う。見ているだけで魂を奪われそうなほど圧倒的な力を放出している魔剣は、この状態で既に女神によって封印されているのだ。それをルシエルが再び解放し手に入れた時、世界はどうなってしまうのか。シェリルにそれが止められると言うのだろうか。

「我が魔剣の贄となりに来たか。それとも我に会いたかったか?」

 冷気を吐き出す魔剣のすぐ後ろに、ふわりと黒い霧が現れた。紫銀の筋を織り混ぜた霧は徐々に大きく膨らんで、そのまま魔剣の白を覆い隠していく。肌にびりびりと伝わってくる恐ろしいほど強大な暗黒の力に、シェリルが今さっき吹き飛ばしたばかりの闇までが引き寄せられていた。

「……ルシエル」

 シェリルが彼の名を呼んだ瞬間、それを待ちわびていたかのように、目の前で蠢く暗黒の霧が勢いよく弾け飛んだ。舞い散る霧の残骸に紛れて、シェリルの足元に漆黒の輝きを放つ一枚の羽根が滑り込む。
 切ない思いと共に、シェリルの手元に残された純白の羽根とは色を違えたカインの羽根。触れようと伸ばしたシェリルの指先を拒んだ砂が、漆黒の羽根をそこから瞬時に連れ去っていった。

「人間とは何とも愚かな生き物だな」

 冷たい声を間近に聞いて、シェリルが顔を上げた。

「運良く二度も我から逃れたと言うのに。よほど死にたいと見える」

 漆黒の翼に重なり溶ける同色のマント。優しさを失った青い瞳はただ冷たく燃え、星の煌きに似た紫銀の髪も、凍った印象しか持ち合わせていない。無感情の白と黒に覆われたその中で、唯一鮮やかに光り輝く色彩を見つけて、シェリルが何かに気付いたように瞳を大きく見開いた。

 そこにあったのは、毒々しい赤。天地大戦でアルディナが闇を纏う者イヴェルスを封印した、あのピアスだった。

闇を纏う者イヴェルスの封印は完全に解けてはいないのね。あなたはまだルシエルの体を乗っ取った訳ではないんだわ」

「ほう。女神に似てただの愚か者だと思っていたが、多少頭は働くようだな」

 薄笑いを浮かべながら馬鹿にした口調でそう言ったルシエルが、ゆったりとした動作で左耳のピアスに触れる。無数の傷に埋め尽くされたピアスは軽く触れるだけで砕けてしまいそうに脆く、けれど妖しく強烈な血色を煌かせていた。

「長い……長い拘束だった。窮屈な空間に閉じ込められ、死ぬ訳でもなくただ長い時を通り過ぎていく。アルディナを愛し、憎み、どうやって苦しめようか、そればかりを考えてきたが……それも、もう終わりだ」

 シェリルから横の魔剣へ視線を映したルシエルが、にやりと笑みを零して左耳にピアスを指先で軽く弾いた。

「我が半身を得て、我は再び甦る。お前に受け継がれたアルディナの力を奪い、新たなる神として生まれ変わるのだ。手始めにあの忌々しい女を始末してやろう」

「そんな事っ」

「させぬか? 無駄な足掻きと言うものだ。お前は我を止める術を知らぬ」

 勝ち誇った笑みを向けて、ルシエルが氷の魔剣へと手を伸ばした。主の気を感じ取ったのか、魔剣を支えた砂の周りから幾つもの水晶に似た氷の刃が勢いよく突き出し、辺りは更なる冷気に包まれる。それと同時に柄に嵌め込まれた血色の宝石が歓喜に打ち震えるようにゆらりと揺らめき、その色を毒々しい赤へと変化させた。

「……っ!」

 魔剣から放たれる白い冷気は差し伸べられたルシエルの手にしゅるしゅると絡み付き、己の身を完全に委ねようとしていた。魔剣の目覚めは闇の解放となり、それは世界の終焉を呼び寄せる合図の鐘となる。

 阻止しなければならない。でも、どうやって。

 ルシエルの言う通り魔剣の復活を止める術もなく混乱する頭を抱えたシェリルは、何ひとつ手立ても見つけられないまま、けれど体だけはルシエルへと足を踏み出していた。
 何も出来ない。けれど、何もせずにはいられなかった。剣を握りしめルシエルから一時も目を逸らさずに、シェリルが背中の翼を大きく羽ばたかせたその瞬間。

「もう邪魔はさせない」

 聞き覚えのある冷ややかな声と共に、前へ踏み出したシェリルの足元に赤黒い光の魔法陣が形を成した。術者の思惑通り体をその場に拘束されたシェリルは、それ以上動く事が出来ずに魔法陣の上へと座り込む。唯一自由の利く目で周りを見回したシェリルの前方、ルシエルを守るように立ちはだかったディランが瘴気の尾を引きながら姿を現した。

「ディランっ!」

「ルシエル様が復活する瞬間を、そこで大人しく見ているんだね」

 ディランがそう言うと同時に、シェリルを捕えた魔法陣が今度は黒く変色し始めた。その色はシェリルを拘束するだけでなく痛みをもたらし、シェリルは翼の羽根一枚一枚が無残に引き裂かれるような激痛に押し殺した悲鳴を上げる。薄い唇を噛み締め、絶え間なく続く激痛に必死で耐えているシェリルを見つめたまま、ディランが面白そうにくっくっと声をあげて笑った。

「いつの時代も、運命と言うものは残酷だね。そう思わないかい? シェリル」

「ディラン! お願い、やめて。そこにいるのはあなたを助けたルシエルじゃないのよっ!」

「何を言って……」

「魔剣を渡しては駄目! ルシエルが……消えてしまうっ」

 表情をかすかに曇らせたまま、何かを言おうと口を開いたディランが後ろを振り返るより先に、ルシエルの声が辺りの空気を凍らせながら冷たく響き渡った。

「もう遅い」

 シェリルの願いとディランの眼差しを嘲笑うかのように響いた冷たい声。それは魔剣フロスティアが長い眠りから解放される瞬間だった。



 鼓膜を突き破る轟音と共に舞い上がった砂が、一瞬にして闇に飲み込まれた。天界は大きく左右に揺れ動き、ぼこぼこと盛り上がった石畳の隙間から黒い触手が侵入を果たす。何が起こったのか理解出来ず、ただうろたえるばかりの天使たちが頭上を覆う暗黒の霧に気付いて、各々に悲鳴を上げ始めた。
 空を見上げた天使たちの瞳にはっきりと映し出されたもの、それは白い妖気を全身に纏い、不気味に光り輝く氷の魔剣フロスティアだった。

 黒い魔力を孕んだ突然の強風に体当たりされ、シェリルを捕えていたディランの魔法陣が効果をなくし消滅する。それによって無防備だったシェリルの体は抵抗する間もなくそこから弾き飛ばされ、長く尾を引く悲鳴だけが触手の蠢く空へと吸い込まれていった。未だにずきずきと痛む翼を広げ、辛うじて触手の波から身を翻したシェリルが、視界の片隅に冷気の白を見つけてはっと体を強張らせる。

 その真横に、黒い影があった。
 ルシエルを近く感じる度に強く煌く魔剣が、彼の体温を求めるように細い柄を差し出した。

「カイン……駄目っ!」

 思わずそう叫んでルシエルへと手を伸ばしたシェリルの瞳に、静かな笑みが揺れ動く。
 運命は悲しみを好み、時は誰にも阻まれる事なく、彼の手に氷の魔剣を手渡した。

「我が果てで目覚めよ、フロスティアっ!」

 その瞬間、大地を引き裂く轟音と共に、ルシエルの左耳で時を待ち望んでいた真紅のピアスが、高い悲鳴を上げて砕け散った。
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