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第4章 光と闇の復活
女神の目覚め・2
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罅割れた水晶球。
赤黒い色をした丸い球体の表面にびっしりと敷き詰められていた鋭い亀裂は、慈愛に満ちた女性の声音に形成された癒しの呪文によって徐々にその傷跡を消していく。リリスによって傷付けられた水晶球は、空から光が消え夜が訪れた頃にやっと元の姿を取り戻した。
一度に大量の闇を吸収した水晶球の穢れは、簡単に浄化できるものではない。しかし今のこの状況で、セシリアに残された時間はほとんどなかった。普通なら徹夜、あるいは丸一日かけてゆっくりと行う浄化魔法。それを短時間で完成させたセシリアは、辛うじて残った力でもってしても己の体すら支える事が出来ず、その場に倒れるように崩れ落ちた。
深く何度息を吸い込んでも体がまともに反応せず、朦朧とした意識の中で視界がぐにゃりと変形する。異常なほど速く大きく鳴り響く鼓動は耳のすぐ側で聞こえ、それ以外の音をセシリアに届ける事はなかった。
気を失ってしまえればどんなに良いだろうか。しかしセシリアは自分の意思で必死に意識を引き留め、水晶球に向かってなおも呪文を唱えようとする。震え出した指では印も組めず、乾ききった喉からは十分な声すら出ない。けれど、ここで止めるわけにはいかなかった。元に戻った水晶球を核として、新たに天界を包む結界を張り直す事がセシリアの使命なのだ。
疲れきったこの体で結界を張るという大掛かりな魔法を行う事が何を意味するのか、分からない訳ではない。きゅっときつく唇を噛み締めながらやっとの思いで立ち上がったセシリアは、別れ際にシェリルが言った言葉を思い出す。
『犠牲になんかならないで』
翡翠色の瞳に涙を溜めて、今にも泣きそうな顔をセシリアに向けたシェリル。苛酷な使命を最後まで果たそうとする、強い意思を持った運命の落し子。
――――多分、もう二度と会う事はないだろう。
血で赤く滲んだセシリアの唇が、震えるように小さく動く。込み上げてくる吐き気は、血の匂いがした。
「……犠牲ではないわ、シェリル」
――――私は天界を守る事が使命。あなたたちを守りたいの。
水晶球がセシリアの音にならない呪文を受け取って、自ら青白い光を放ち始めた。水晶球を核として結界の再生が始まると同時に、乾ききったセシリアの喉が生温かい液体によって一気に潤う。
濃い、血の味がした。
冷たい空気に包まれた青白い空間が、彼女の訪れを待ちわびたようにざわめいていた。
壁に刻まれた不思議な模様は自ら白く輝き始め、空間自体が神聖で神々しい光に包まれる。その光に導かれるようにして、石造りの床に光の線が流れ出した。水の上を軽やかに滑るようにして素早く現れた光の魔法陣は、その中心にひとつの影を召喚して緩やかに消滅する。
青白く光る空間が、再度大きく空気を震わせた。
「……ここは」
光の魔法陣によって召喚されたシェリルは、自分が現れ出た場所をぐるりと見回して、意を決したように唇をきゅっと噛み締めた。天界へ戻り、女神の目覚めを強く望んだシェリルは、下界で自分を取り巻いた光がその願いを叶えてくれた事を知る。
シェリルが真っ直ぐ見つめた視線の先、その壁に刻まれた三日月の窪み。眠りについたアルディナの元へ、シェリルを導く唯一の扉。
「アルディナ様」
壁に向かって小さく呟いたシェリルの胸元で、三つのかけらを取り込んだ紫銀の首飾りが淡く点滅を始めた。息詰まりそうな威圧感と心に流れ込んでくる強く切ない真摯な願いは、シェリルを使命の重さと運命の過酷さでぐしゃぐしゃに押し潰そうとしてくる。威嚇にも似た空気の重さに拳をぎゅっと強く握りしめて、シェリルは自分の胸にあるたったひとつの思いを確認するようにすうっと静かに瞳を閉じた。
(怖くない。恐れてなんかないわ。私は……救うの)
心の奥に囁いた言葉はシェリルの唇を割って、確かな誓いとして空間全体に響き渡った。
「私は、カインを救うの」
それを合図にシェリルの胸元で淡く点滅していた光が、誓いを認めたかのように勢いよく弾け飛んだ。青白い空間に飛び散った光のかけらはそれぞれ赤と白と青に輝きながら、まるで引き合うかのように空中で再びひとつに纏まってその形を三日月へと変え始める。
徐々に変形していく光はやがて完全な三日月形の水晶へと変化し、シェリルの目の前で壁に刻まれた三日月の窪みにぴったりと嵌まり込んだ。そして次の瞬間。
『目覚めの時が来た』
どこからともなく聞こえてきた声と共に、シェリルを囲む青白い空間がぐにゃりと歪み出した。水中に潜ってしまったかのようにゆらゆら揺れ動く壁を見回したシェリルの目の前に、今度は淡い金色の光がぼんやりと浮かび上がる。
『待ちわびた、私の半身。私たちの力を受け継ぐ、たったひとりの落し子』
金色の光がふわりと膨らんで、水中を漂う人の影に姿を変えた。不思議なほど優しい光を放つ金色の影に自然と手を伸ばしたシェリルのその指先に、光の糸がするすると絡み付いてくる。指先から感じる温かい何かに誘われて瞳を閉じたシェリルは、そのまま眠るようにゆっくりと光の中へ倒れ込んだ。
『もうひとりの私。……名は?』
「……シェリル」
シェリルの名を認め、辺りを取り巻く空気が大きく波打った。
喜びと悲しみ、そして苛立ちや憎悪。ありとあらゆる感情が津波のように押し寄せて、シェリルの中を所狭しと駆け巡る。息も出来ないほど多くの感情を取り込んだシェリルは、耳の奥で切ない女の声を聞きながら最後の感情を自分の中に招き入れた。
それは、希望。
どんな事があっても、決して見失う事のなかった真摯なる願い。
『私は……女神としてではなく、姉としてルシエルを救いたかった』
自分の体を包みこむ金色の光を抱きしめるように腕を広げて、シェリルが小さくけれど強く確かに頷いた。
「――――私もです」
その瞬間、シェリルを包んでいた金色の光が辺り一面に勢いよく弾け飛んだ。そしてシェリルは優しく揺れる水の揺り籠に捕われたまま、静かな眠りへと落ちていった。
赤黒い色をした丸い球体の表面にびっしりと敷き詰められていた鋭い亀裂は、慈愛に満ちた女性の声音に形成された癒しの呪文によって徐々にその傷跡を消していく。リリスによって傷付けられた水晶球は、空から光が消え夜が訪れた頃にやっと元の姿を取り戻した。
一度に大量の闇を吸収した水晶球の穢れは、簡単に浄化できるものではない。しかし今のこの状況で、セシリアに残された時間はほとんどなかった。普通なら徹夜、あるいは丸一日かけてゆっくりと行う浄化魔法。それを短時間で完成させたセシリアは、辛うじて残った力でもってしても己の体すら支える事が出来ず、その場に倒れるように崩れ落ちた。
深く何度息を吸い込んでも体がまともに反応せず、朦朧とした意識の中で視界がぐにゃりと変形する。異常なほど速く大きく鳴り響く鼓動は耳のすぐ側で聞こえ、それ以外の音をセシリアに届ける事はなかった。
気を失ってしまえればどんなに良いだろうか。しかしセシリアは自分の意思で必死に意識を引き留め、水晶球に向かってなおも呪文を唱えようとする。震え出した指では印も組めず、乾ききった喉からは十分な声すら出ない。けれど、ここで止めるわけにはいかなかった。元に戻った水晶球を核として、新たに天界を包む結界を張り直す事がセシリアの使命なのだ。
疲れきったこの体で結界を張るという大掛かりな魔法を行う事が何を意味するのか、分からない訳ではない。きゅっときつく唇を噛み締めながらやっとの思いで立ち上がったセシリアは、別れ際にシェリルが言った言葉を思い出す。
『犠牲になんかならないで』
翡翠色の瞳に涙を溜めて、今にも泣きそうな顔をセシリアに向けたシェリル。苛酷な使命を最後まで果たそうとする、強い意思を持った運命の落し子。
――――多分、もう二度と会う事はないだろう。
血で赤く滲んだセシリアの唇が、震えるように小さく動く。込み上げてくる吐き気は、血の匂いがした。
「……犠牲ではないわ、シェリル」
――――私は天界を守る事が使命。あなたたちを守りたいの。
水晶球がセシリアの音にならない呪文を受け取って、自ら青白い光を放ち始めた。水晶球を核として結界の再生が始まると同時に、乾ききったセシリアの喉が生温かい液体によって一気に潤う。
濃い、血の味がした。
冷たい空気に包まれた青白い空間が、彼女の訪れを待ちわびたようにざわめいていた。
壁に刻まれた不思議な模様は自ら白く輝き始め、空間自体が神聖で神々しい光に包まれる。その光に導かれるようにして、石造りの床に光の線が流れ出した。水の上を軽やかに滑るようにして素早く現れた光の魔法陣は、その中心にひとつの影を召喚して緩やかに消滅する。
青白く光る空間が、再度大きく空気を震わせた。
「……ここは」
光の魔法陣によって召喚されたシェリルは、自分が現れ出た場所をぐるりと見回して、意を決したように唇をきゅっと噛み締めた。天界へ戻り、女神の目覚めを強く望んだシェリルは、下界で自分を取り巻いた光がその願いを叶えてくれた事を知る。
シェリルが真っ直ぐ見つめた視線の先、その壁に刻まれた三日月の窪み。眠りについたアルディナの元へ、シェリルを導く唯一の扉。
「アルディナ様」
壁に向かって小さく呟いたシェリルの胸元で、三つのかけらを取り込んだ紫銀の首飾りが淡く点滅を始めた。息詰まりそうな威圧感と心に流れ込んでくる強く切ない真摯な願いは、シェリルを使命の重さと運命の過酷さでぐしゃぐしゃに押し潰そうとしてくる。威嚇にも似た空気の重さに拳をぎゅっと強く握りしめて、シェリルは自分の胸にあるたったひとつの思いを確認するようにすうっと静かに瞳を閉じた。
(怖くない。恐れてなんかないわ。私は……救うの)
心の奥に囁いた言葉はシェリルの唇を割って、確かな誓いとして空間全体に響き渡った。
「私は、カインを救うの」
それを合図にシェリルの胸元で淡く点滅していた光が、誓いを認めたかのように勢いよく弾け飛んだ。青白い空間に飛び散った光のかけらはそれぞれ赤と白と青に輝きながら、まるで引き合うかのように空中で再びひとつに纏まってその形を三日月へと変え始める。
徐々に変形していく光はやがて完全な三日月形の水晶へと変化し、シェリルの目の前で壁に刻まれた三日月の窪みにぴったりと嵌まり込んだ。そして次の瞬間。
『目覚めの時が来た』
どこからともなく聞こえてきた声と共に、シェリルを囲む青白い空間がぐにゃりと歪み出した。水中に潜ってしまったかのようにゆらゆら揺れ動く壁を見回したシェリルの目の前に、今度は淡い金色の光がぼんやりと浮かび上がる。
『待ちわびた、私の半身。私たちの力を受け継ぐ、たったひとりの落し子』
金色の光がふわりと膨らんで、水中を漂う人の影に姿を変えた。不思議なほど優しい光を放つ金色の影に自然と手を伸ばしたシェリルのその指先に、光の糸がするすると絡み付いてくる。指先から感じる温かい何かに誘われて瞳を閉じたシェリルは、そのまま眠るようにゆっくりと光の中へ倒れ込んだ。
『もうひとりの私。……名は?』
「……シェリル」
シェリルの名を認め、辺りを取り巻く空気が大きく波打った。
喜びと悲しみ、そして苛立ちや憎悪。ありとあらゆる感情が津波のように押し寄せて、シェリルの中を所狭しと駆け巡る。息も出来ないほど多くの感情を取り込んだシェリルは、耳の奥で切ない女の声を聞きながら最後の感情を自分の中に招き入れた。
それは、希望。
どんな事があっても、決して見失う事のなかった真摯なる願い。
『私は……女神としてではなく、姉としてルシエルを救いたかった』
自分の体を包みこむ金色の光を抱きしめるように腕を広げて、シェリルが小さくけれど強く確かに頷いた。
「――――私もです」
その瞬間、シェリルを包んでいた金色の光が辺り一面に勢いよく弾け飛んだ。そしてシェリルは優しく揺れる水の揺り籠に捕われたまま、静かな眠りへと落ちていった。
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