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第4章 光と闇の復活
愛のかけら・1
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『俺はこれから先、何があってもお前を裏切るような事はしない』
壊れた硝子は、二度と元には戻らない。
遠い昔アルディナの手のひらから零れ落ちた光と同じように、運命はシェリルのすべてをも粉々に砕いてしまった。
信じあう心も、重ね合わせた幾つもの言葉も、肌に触れた温もりも、冷たい輝きを放つ紫銀の闇の前ではそのどれもが意味をなくしていく。美しい銀色の光にも似た気高さと冷たさを併せ持つ闇は、ただそこにいるだけで人々の目を奪うほど妖しい魅力を持っていた。彼のかつての地位を物語るように。
『そう、我が名はルシエル』
その名は、隠された神の名前。創世神と同等の力を持つ、闇に支配された地界神。そしてそれは、シェリルが憎むべき闇の名前だった。
「…………」
目の前に立ちはだかった闇を凝視したまま、シェリルが何か言おうと唇を動かした。が、かすかに震えただけで何の音も紡げなかった唇は、代わりに声とも吐息ともつかない嗚咽を短く漏らしただけで、それ以上の言葉を発する事は出来なかった。
小刻みに震え出す体と、短く途切れ途切れになる呼吸。体はそれを「闇」として嫌と言うほど認識しているのに、心がついていかない。
悪い夢を見ているようだった。腕を伸ばし、指先に彼の確かな体温を感じて、早く夢から目を覚ましたかった。何度も何度も呼び続けたその名を、大声で叫びたかった。
――――それなのに。
その名を呼ぶと言う事は即ち、彼の存在を認めると言う事。
暗黒を纏い、光を汚し、シェリルからすべてを奪った邪悪な闇が、――――カインであると言う事を。
「…………――――うそ……」
吐息に絡まった弱々しい声が、冷たい闇に触れて崩れ落ちた。そのかすかな震動は闇を伝い、シェリルの声をルシエルに届けるのに十分だった。
「お前の真実は何だ? 偽りの我か? ――――くだらぬ。昔も今も、お前は哀れな弟のことしか頭にないと言うわけか」
何の前触れもなく、ルシエルの中から凄まじい量の瘴気が溢れ出した。それは突風のように大聖堂の中を激しく駆け巡り、触れるものすべてを瞬時に砂よりも小さな塵へと変えていく。破壊された扉の残骸も、アルディナの白い石像も、大聖堂の中にあるものすべてが見えない手によって握り潰されたように崩れ落ちる。その光景を愕然と見ていたシェリルが、目の前の空間に走った鋭い亀裂に気付いてはっと息を飲んだ。ルシエルの圧倒的な力に耐え切れず次々と亀裂を走らせていくエレナの結界の向こうで、シェリルをじいっと見つめたままのルシエルがその顔に妖しい笑みを浮かべた。
「やめて! 皆を巻き込まないでっ!」
シェリルの叫びに、ルシエルの攻撃がぴたりと止まった。大聖堂の中を激しくうねっていた瘴気も闇に溶け合うように消滅し、辺りは恐ろしいまでの静寂に包まれる。
「目の前で血を見るのはたくさんか?」
楽しげに言ったルシエルを、シェリルが涙ぐんだ瞳で思い切り睨みつけた。
「お前を産んだ人間の血は、我が目を奪うほど美しかった。その四肢を引き裂く音は、耳障りな絶叫よりも心地良かった。お前を逃がすほど我を虜にしたあの光景を、……今度はお前の体で見せてくれ」
息が止まるほど、恐ろしい声音だった。体中の血を凍らせ、シェリルを金縛りにしたその声に、カインの影は少しもない。
「誰……なの。なぜ、カインの姿をしているの……」
見慣れた紫銀の髪と、その向こうから自分を見つめる淡いブルーの瞳に、シェリルが知る優しい面影はどこにもなかった。ルシエルでありカインであり、そのどちらでもない暗黒の闇。それは最も愛しい者の姿で、シェリルを冷たく見つめている。
カインの姿でそこにいる。
シェリルは強く頭を振った。目の前にいるのは闇。シェリルの両親を殺した、憎むべきルシエル。それは間違いなかった。しかしその姿は憎むべき敵ではなく、既にかすかな愛しささえ感じたシェリルだけの守護天使。シェリルを守り、シェリルを抱きしめ、離れる事なく側にいると言ってくれたあのカインなのだ。
解けかかった糸が再び絡まりあうように、シェリルの頭の中は手がつけられないほどひどく混乱していく。何もかもが分からなくなって思わず叫びそうになったシェリルは、それを抑える為にぎゅっときつく瞳を閉じて頭を何度も左右に振った。その度に嗚咽は喉でかき消され、代わりにシェリルの視界が涙でぐにゃりと歪んでいく。
「カインは……カインは、どこにいるのっ。なぜあなたがここに。あなたは一体誰なの!」
「お前の目にはどう映る?」
混乱するシェリルを面白そうに見つめたルシエルが、シェリルに向かって右手をすうっと差し出した。
「血と殺戮を好む闇の王か、それとも孤独に泣き喚く地界神か。……その瞳が捉えたものこそ、お前が得た真実だ」
妖しく美しい笑みを浮かべたままシェリルにゆっくり近付いたルシエルが、カインに似た声音で再度同じ言葉を繰り返す。
「お前の目に、我はどう映っている?」
『愛しいシェリル。辛く苦しい運命を背負った、私の娘。お前はこれから多くの仲間と出会い、多くの悲しみを経験するだろう。けれど、希望だけは捨ててはいけない。光はお前の中にある。お前自身が、美しく輝く光の結晶なんだよ』
生まれながらに背負っていた悲しい運命の扉は、ある日何の前触れもなく開け放たれた。
突如現れた漆黒の輝きを放つ風。夜の闇と似て、非なるもの。
『お前は足止めにもならん。……消えろ』
弾け飛んだ父の頭部は、流れ込んできた闇の触手によってぐしゃりと握り潰された。絶叫を上げて噴き出した鮮血は天井にまで跳ね上がり、部屋も闇もそして空気さえ狂気の赤に染め上げていく。血を啜り肉を貪る闇の瘴気がその首から体の中へと滑り込み、死に逝く内臓にまで喰らいついた。頭のない胴体は内側で激しく暴れる瘴気によって、糸の切れた操り人形のようにぐねぐねと動き、耳障りなくぐもった音を外の空気に響かせる。
あまりに突然で、叫ぶ事も出来なかった。
恐怖に竦んだ足では逃げる事も出来ず、幼いシェリルは母の背中に守られながら、その向こうで大きく膨れ上がった父親の体が勢いよく破裂する様を凝視するしか出来なかった。
『お前は、どう殺してほしい?』
短い悲鳴と共に崩れ落ちる母の姿。シェリルの足元にごとりっと落ちた、細く白い左腕。
喉の奥に血の塊が詰まったようだった。息を吸っては小さく咳き込み、胃の中から込み上げてくる甘酸っぱい液体を必死に押し戻して……シェリルが絶叫した。甲高い悲鳴は闇を切り裂く刃のように鋭く響き、ほんの一瞬だけ闇と瘴気の動きを止める。
『お前が落し子か』
恐怖に大きく見開かれた翡翠色の瞳の奥、そこに歪んで映る影が重く響く声で呟いた。
『死んでもらおう。神の落し子、シェリル』
――――驚くほど美しい紫銀の影が、シェリルのすぐ目の目にいた。
シェリルを優しく抱きしめてくれたその腕を鮮血に染め、「それ」はカインの姿で漆黒の闇を纏い、凍った笑みを浮かべていた。
壊れた硝子は、二度と元には戻らない。
遠い昔アルディナの手のひらから零れ落ちた光と同じように、運命はシェリルのすべてをも粉々に砕いてしまった。
信じあう心も、重ね合わせた幾つもの言葉も、肌に触れた温もりも、冷たい輝きを放つ紫銀の闇の前ではそのどれもが意味をなくしていく。美しい銀色の光にも似た気高さと冷たさを併せ持つ闇は、ただそこにいるだけで人々の目を奪うほど妖しい魅力を持っていた。彼のかつての地位を物語るように。
『そう、我が名はルシエル』
その名は、隠された神の名前。創世神と同等の力を持つ、闇に支配された地界神。そしてそれは、シェリルが憎むべき闇の名前だった。
「…………」
目の前に立ちはだかった闇を凝視したまま、シェリルが何か言おうと唇を動かした。が、かすかに震えただけで何の音も紡げなかった唇は、代わりに声とも吐息ともつかない嗚咽を短く漏らしただけで、それ以上の言葉を発する事は出来なかった。
小刻みに震え出す体と、短く途切れ途切れになる呼吸。体はそれを「闇」として嫌と言うほど認識しているのに、心がついていかない。
悪い夢を見ているようだった。腕を伸ばし、指先に彼の確かな体温を感じて、早く夢から目を覚ましたかった。何度も何度も呼び続けたその名を、大声で叫びたかった。
――――それなのに。
その名を呼ぶと言う事は即ち、彼の存在を認めると言う事。
暗黒を纏い、光を汚し、シェリルからすべてを奪った邪悪な闇が、――――カインであると言う事を。
「…………――――うそ……」
吐息に絡まった弱々しい声が、冷たい闇に触れて崩れ落ちた。そのかすかな震動は闇を伝い、シェリルの声をルシエルに届けるのに十分だった。
「お前の真実は何だ? 偽りの我か? ――――くだらぬ。昔も今も、お前は哀れな弟のことしか頭にないと言うわけか」
何の前触れもなく、ルシエルの中から凄まじい量の瘴気が溢れ出した。それは突風のように大聖堂の中を激しく駆け巡り、触れるものすべてを瞬時に砂よりも小さな塵へと変えていく。破壊された扉の残骸も、アルディナの白い石像も、大聖堂の中にあるものすべてが見えない手によって握り潰されたように崩れ落ちる。その光景を愕然と見ていたシェリルが、目の前の空間に走った鋭い亀裂に気付いてはっと息を飲んだ。ルシエルの圧倒的な力に耐え切れず次々と亀裂を走らせていくエレナの結界の向こうで、シェリルをじいっと見つめたままのルシエルがその顔に妖しい笑みを浮かべた。
「やめて! 皆を巻き込まないでっ!」
シェリルの叫びに、ルシエルの攻撃がぴたりと止まった。大聖堂の中を激しくうねっていた瘴気も闇に溶け合うように消滅し、辺りは恐ろしいまでの静寂に包まれる。
「目の前で血を見るのはたくさんか?」
楽しげに言ったルシエルを、シェリルが涙ぐんだ瞳で思い切り睨みつけた。
「お前を産んだ人間の血は、我が目を奪うほど美しかった。その四肢を引き裂く音は、耳障りな絶叫よりも心地良かった。お前を逃がすほど我を虜にしたあの光景を、……今度はお前の体で見せてくれ」
息が止まるほど、恐ろしい声音だった。体中の血を凍らせ、シェリルを金縛りにしたその声に、カインの影は少しもない。
「誰……なの。なぜ、カインの姿をしているの……」
見慣れた紫銀の髪と、その向こうから自分を見つめる淡いブルーの瞳に、シェリルが知る優しい面影はどこにもなかった。ルシエルでありカインであり、そのどちらでもない暗黒の闇。それは最も愛しい者の姿で、シェリルを冷たく見つめている。
カインの姿でそこにいる。
シェリルは強く頭を振った。目の前にいるのは闇。シェリルの両親を殺した、憎むべきルシエル。それは間違いなかった。しかしその姿は憎むべき敵ではなく、既にかすかな愛しささえ感じたシェリルだけの守護天使。シェリルを守り、シェリルを抱きしめ、離れる事なく側にいると言ってくれたあのカインなのだ。
解けかかった糸が再び絡まりあうように、シェリルの頭の中は手がつけられないほどひどく混乱していく。何もかもが分からなくなって思わず叫びそうになったシェリルは、それを抑える為にぎゅっときつく瞳を閉じて頭を何度も左右に振った。その度に嗚咽は喉でかき消され、代わりにシェリルの視界が涙でぐにゃりと歪んでいく。
「カインは……カインは、どこにいるのっ。なぜあなたがここに。あなたは一体誰なの!」
「お前の目にはどう映る?」
混乱するシェリルを面白そうに見つめたルシエルが、シェリルに向かって右手をすうっと差し出した。
「血と殺戮を好む闇の王か、それとも孤独に泣き喚く地界神か。……その瞳が捉えたものこそ、お前が得た真実だ」
妖しく美しい笑みを浮かべたままシェリルにゆっくり近付いたルシエルが、カインに似た声音で再度同じ言葉を繰り返す。
「お前の目に、我はどう映っている?」
『愛しいシェリル。辛く苦しい運命を背負った、私の娘。お前はこれから多くの仲間と出会い、多くの悲しみを経験するだろう。けれど、希望だけは捨ててはいけない。光はお前の中にある。お前自身が、美しく輝く光の結晶なんだよ』
生まれながらに背負っていた悲しい運命の扉は、ある日何の前触れもなく開け放たれた。
突如現れた漆黒の輝きを放つ風。夜の闇と似て、非なるもの。
『お前は足止めにもならん。……消えろ』
弾け飛んだ父の頭部は、流れ込んできた闇の触手によってぐしゃりと握り潰された。絶叫を上げて噴き出した鮮血は天井にまで跳ね上がり、部屋も闇もそして空気さえ狂気の赤に染め上げていく。血を啜り肉を貪る闇の瘴気がその首から体の中へと滑り込み、死に逝く内臓にまで喰らいついた。頭のない胴体は内側で激しく暴れる瘴気によって、糸の切れた操り人形のようにぐねぐねと動き、耳障りなくぐもった音を外の空気に響かせる。
あまりに突然で、叫ぶ事も出来なかった。
恐怖に竦んだ足では逃げる事も出来ず、幼いシェリルは母の背中に守られながら、その向こうで大きく膨れ上がった父親の体が勢いよく破裂する様を凝視するしか出来なかった。
『お前は、どう殺してほしい?』
短い悲鳴と共に崩れ落ちる母の姿。シェリルの足元にごとりっと落ちた、細く白い左腕。
喉の奥に血の塊が詰まったようだった。息を吸っては小さく咳き込み、胃の中から込み上げてくる甘酸っぱい液体を必死に押し戻して……シェリルが絶叫した。甲高い悲鳴は闇を切り裂く刃のように鋭く響き、ほんの一瞬だけ闇と瘴気の動きを止める。
『お前が落し子か』
恐怖に大きく見開かれた翡翠色の瞳の奥、そこに歪んで映る影が重く響く声で呟いた。
『死んでもらおう。神の落し子、シェリル』
――――驚くほど美しい紫銀の影が、シェリルのすぐ目の目にいた。
シェリルを優しく抱きしめてくれたその腕を鮮血に染め、「それ」はカインの姿で漆黒の闇を纏い、凍った笑みを浮かべていた。
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