飛べない天使

紫月音湖(旧HN/月音)

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第3章 涙のかけら

地界ガルディオス・3

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 黒い海を彷徨うありとあらゆる負の感情。
 夜よりも暗く、ナイフよりも鋭く、氷よりも冷たい闇に埋め尽くされた地界ガルディオス。
 闇だけが存在する事を許された空間。他には何もなかった。
 目に見えるものもない。肌に感じるものもない。すべてが凍って死んだ世界。

 息をする度体に入り込んでくる闇の空気は、それだけでシェリルの体を冷たく凍り付かせてしまう。立ち止まるだけで意識を奪われそうになるくらい強烈な黒い感情の集合体は、確かに神をも狂わせてしまう力を持っていたのかもしれない。そう感じながら闇の中をただひたすら走り続けていたシェリルの前に、彼はやっと姿を現した。

「カインっ!」

 慌ててカインへと駆け寄ったシェリルは、彼の左耳についたピアスを目にしてはっと息を呑んだ。聖地で十字傷をつけた紫銀のピアスが、今ではもう新たに傷を作る事さえ出来ないほど細い亀裂に埋め尽くされている。

「……どうして。これは一体」

 かすかに震え出した体を両腕できつく抱きしめながら、シェリルは胸に湧き上がったとてつもない不安を追い払うように強く首を振る。聖地で感じたカインを失うかもしれないという気持ちを思い出して、シェリルが慌てたようにカインへと手を伸ばした。

「カイン! お願い、目を覚ましてっ」

「シェリル。……カインから離れるんだ」

 突然、真後ろで声がした。感情のない冷たいだけの声にぎくんとしたシェリルが彼の名を口にするより先に、再度凍った声音がシェリルの背中に突き刺さった。

「聞こえなかったのかい?」

「……ディランっ!」

 からからに干上がった喉から彼の名前を引きずり出して後ろを振り返ったシェリルの前に、子供の姿ではなくカザールで会った時と同様、大人の姿をしたディランが立っていた。

「まったく君にはいつも驚かされる。よくここまで辿り着いたね、シェリル。ここは君の力を憎む闇が集まる場所だっていうのに」

「あなたに会ったわ。涙のかけらを持ったもうひとりのあなたが、私をここに連れてきてくれた。……あの夜、あなたが殺された夜に切り離された心を、忘れたの?」

 無感情にシェリルを見つめていた瞳がかすかに動揺し、ディランがむっと眉を顰めた。観察するようにじぃっとシェリルを見つめたディランは、彼女から忘れてしまいたい過去を思い出させる悲しみに満ちた気を感じて、はっと鋭く目を開く。

「君は……僕にとって、本当に苛立つ存在だよ。ルシエル様の目覚めを邪魔し、僕にまで嫌な過去を思い出させる」

 ディランの声音が急変した。
 冷たい声には変わりなかったが、その音に含まれた強く激しい憎悪をびりびりと肌に感じたシェリルが、恐怖のあまりディランから顔を背けてカインの腕を強く掴む。

「それで? 涙のかけらを手に入れた君が、僕の何を救えるというの? ルシエル様の事も僕の事も、何も知らない君が世界を救うとでも? ……笑わせるね」

 怒鳴りつけるように激しい口調で言ったディランが、シェリルを見て嘲るようにふんっと鼻で笑う。妖しく揺らめき出した灰青の髪に誘われるようにして、ゆっくりと右手を真上に上げたディランの瞳が血のように赤く煌いた。

「カインは返してもらう。僕には彼の目覚めが必要だ」

「……カインに何をしたの?」

「心外だね。何かしたのは女神の方だろう? シェリル、君は何も知らないようだから僕がひとつ良い事を教えてあげようか」

 凍った瞳でシェリルを見つめたまま、ディランが唇をにぃっと引いて、その端整な顔に妖しい笑みを貼り付けた。

「君を襲い、君の両親を殺したあの闇は他の誰でもないルシエル様だ。君に眠る女神の力を奪おうとしたのは、解かれようとしている封印から抜け出したルシエル様の精神体なんだよ、シェリル。覚えておくんだね」

「……どういう事? 封印が解かれる?」

「話は終わりだ」

 シェリルの言葉を遮って顔から笑みを消したディランがそう言ったのと同時に、真上に上げていた彼の右手にゆらりと赤紫色の靄がかかり始めた。それは暗闇の彼方から同色の小さな稲妻を呼び寄せ、ディランの右手に集まった赤紫色の靄にばちばちっと激しい音を響かせながら絡み付いていく。

「せっかく手に入れた力も上手く扱えない君に本気を出すのは心苦しいけれど、……カインを返してもらう為にはそれも仕方ない。シェリル、僕は本気だ。死にたくなかったらカインから離れなよ」

 ディランの言葉に相槌でも打つように、右手に集まった稲妻の光弾が更に大きく膨れ上がる。それは脅しの道具ではなく確実にシェリルを傷付け、最悪の場合命さえ奪ってしまう邪悪な力の塊だった。
 今まで一度も戦った事がなく、いつもカインに守られていたシェリルに、これほどの強力な黒い魔力を撃退する力があるとは思えない。けれど、シェリルは逃げるわけにはいかなかった。今まで守られていた分、今度は自分がカインを守ると、そう強く心に誓いをたてる。

「どかないわ」

「手加減はしない。本当に死ぬよ」

「絶対にどかない! カインは私が守るんだからっ」

「……なら、死ぬんだね」

 表情も口調も変えずにさらりと言ったディランが、右手に集まった稲妻の光弾をシェリルに向かって勢いよく投げつけた。闇を巻き取り、更に大きく膨らみながら稲妻のように弾けた触手をシェリルへ伸ばした光弾が、鋭い牙をむき出しにして大口を開けた髑髏の姿へと形を変える。恐ろしい亡者の顔をした光弾にシェリルが思わず目を閉じて、カインの手をぎゅっと強く握りしめた。

(カインは守る。絶対に……救ってみせるっ!)


 ――――私は愚かだろうか。……それでもお前を救いたいと思っている。


 記憶のはるか遠くで、ルーテリーヴェの鈴の音を聞いたような気がする。
 その物悲しい音色に紛れてかすかに、けれどはっきりと聞こえたアルディナの声にはっと目を開いたシェリルの体から、途端満月にも似た柔らかな光が溢れ出した。

「私は、カインを救うの!」

 シェリルの体を包み大きく膨張した光は、暗いだけのガルディオスから一気に闇を追い払う。その光から分裂した幾つもの粒子が三日月の刃に姿を変えながら、シェリルに襲いかかろうとしていた光弾めがけて一斉に飛びかかった。

「何っ?」

 地界ガルディオスの闇の力を借りて普段の数倍もの力を秘めていたはずの光弾は、しかしシェリルに少しも触れる事なく三日月の刃によって粉々に切り刻まれ消滅していった。

「馬鹿なっ!」

 跡形もなく消し去られた光弾に目を大きく見開いたまま首を振ったディランが、シェリルを見つめて悔しそうにぎりっと強く唇を噛む。
 力では圧倒的にディランの方が勝っていた。それなのに、かけらがなければ何の力もないただの人間に、その力の使い道さえ知らないシェリルに攻撃を跳ね返されたのだ。信じられないと言うより、ディランはシェリルの中にある涙のかけらに激しい怒りを覚える。

「……君は……何度僕から奪えば気がすむんだっ!」

『嫌だっ、死にたくないよっ! ……殺さないで……お母さんっ!』

 ぎろりとシェリルを睨みつけた瞳の奥に、無償の愛を求め続けた愚かな自分を鮮明に映し出して、ディランが拳を強く握りしめた。
 魔物に奪われた幼い命を救った涙のかけらは結果的にディランの運命を狂わせ、心を壊し、魂を分裂させてしまった。そして今度は、ディランから唯一の支えさえ奪おうとしている。
 シェリルとカインを包み込んだ柔らかな光にかつて自分も包まれていた事を思い出したディランが、記憶に残る光の温かさを体から追い出すように、冷たく黒い瘴気を一気に爆発させた。

「カインはもう渡さないっ!」

 ディランから溢れ出した瘴気が獣の爪のように鋭く尖りながら、シェリルめがけて勢いよく飛びかかった。シェリルを包む光に弾かれ四方へ散りながらも、それは砕けた分だけ数を増し、今度はシェリルを取り囲むように周りから一斉に襲いかかる。

「そのまま闇に喰われるがいいっ!」

 黒い瘴気に覆われてかすかに見え隠れする光を忌々しげに睨みつけたディランが、シェリルに向けていた右手をぎゅっと握りしめると同時に、シェリルを光ごと飲みこもうと蠢いていた瘴気の群れがディランの手に操られるようにしてぐしゃりと潰れた。
 この場に不似合いな光は完全に消え、辺りは再び狂気の闇と静寂に包まれる。
 何事もなかったかのような空間。ただ静かに流れる闇。周りをぐるりと見回してむっと表情を歪めたディランが、悔しそうに舌打ちした。

「……逃がしたかっ」

 今さっきまでそこに確かに存在していた光はかけらさえ残さずに消滅し、それと同時にディランの前からシェリルたち二人をガルディオスから連れ去っていた。





 いつもひとりだった。孤独を感じるのは当然で、それから逃げる事は許されなかった。誰からも忌み嫌われた場所に佇む影はいつしか誰からも忘れ去られ、不必要な存在へと変わり果てる。
 それが、運命だった。彼に定められた悲しき運命だったはず。
 彼を慈しみ愛する者などいない。姉である女神にさえ捨てられたのだと、そう信じてきたのだから。

『絶対にどかない! カインは私が守るんだからっ』

 体に響く強く温かい声は、彼に唯一の光を与えた。
 彼を裏切る事のない心と同じように、決して途切れない柔らかな一筋の光。
 戸惑いながらそれでもその光に触れた彼の指先が、温かな熱と純粋な想いを心の奥にまで響かせて、彼の体をかすかに震わせる。

『絶対にあなたを救ってみせるっ!』

 ――なぜだ。なぜお前が我を救う?

『目を覚まして』

 ――お前は誰だ? …………我は、誰なんだ?

 光に触れていた指先を優しく包み込んだ手のひらの感触に驚いて、彼がはっと顔を上げると同時に、周りを取り囲んでいた漆黒の闇がはらはらと崩れるようにはがれ落ちていった。
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