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第3章 涙のかけら
望まれぬ子・4
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荒い呼吸を整える間もなく走り続けていた。
立ち止まる事は出来ない。それは即ち、ディランの死を意味していたから。
心臓が壊れてしまったかのように鳴り響いて、その煩い鐘の音にも似た鼓動音をディランは耳のすぐ側で聞く。
(……どうして? 僕、何もしてないっ。何もしてないのにっ!)
震える足では上手く走る事さえ出来ず、ディランは何度も転びながらやっと井戸の影に身を隠す事が出来た。
さっき洗い流したシャウルの血の臭いがまだかすかに残っていて、ディランは咳き込むのを堪えるように口元を両手できつく押さえ込む。咳の代わりに瞳から零れ落ちた大粒の涙は滑らかな頬を伝って、ディランの膝を冷たく濡らしていった。
「……殺したのは僕じゃないよっ! 何にも悪いことしてないのに……どうしてみんな僕のこと嫌うの」
物心ついた時から、ディランはいつもひとりだった。誰も一緒に遊んではくれなかったし、大人たちもディランを怯えたような、あるいは憎しみに近い目で見つめていた。楽しかった記憶はひとつもなく、心の底から笑った事もない。母親の優しい笑顔も腕に抱かれた思い出も、ディランにはなかった。彼の存在を認め愛された過去が、ディランには何ひとつなかったのだ。
体がぎくんと震えた。
心のどこかでとっくの昔に気付いていたそれを改めて知らされたような気がして、ディランが涙の止まらない目をぎゅっときつく閉じる。
――僕は要らない子供。嫌われた子供。呪われた子供。
――誰も僕を必要としない。この世界にすら見捨てられた存在。
――受け入れてくれるのは、闇だけだ。
「違う! 僕はっ……僕は魔物なんかじゃないっ!」
心に響く認めたくなかった本当の声を振り払うように、ディランが強く首を振る。その真後ろで、血も凍る冷たい声がした。
「お前は魔物だ、ディラン。村を脅かす魔物と同じなんだよ」
振り返った先に鈍く光る、大きな斧。
頭めがけて振り下ろされた斧を間一髪で避けたディランの右腕に、ずしりっ……と鈍い痛みが走った。
「ぐあっ!」
小さな腕にはあまりにも負担の大きかった斧の衝撃は、そのままディランの体を遠くへと吹き飛ばした。一瞬にして鉛のように重くなった右腕は絶対に気を失わせてはくれない激しい痛みをディランに与え、それだけで彼の呼吸は止まってしまいそうになる。腕がまだついているのかどうかさえ確かめる事も出来ず、ディランはその場にがくんと膝をついて倒れこんだ。
(い……嫌だ。死にたくないっ)
溢れ出す血と一緒に熱まで急速に奪われ、「死」と言う言葉に恐怖を覚えたディランが、涙に濡れた瞳をゆっくりと閉じかけたその時。
『ディラン! ディランっ!』
遠い記憶の片隅で彼の名を呼び、腕を伸ばして泣き叫ぶエリザの姿を見た気がした。
「……か……さん」
『母さんがお前を助けてあげるから』
消えようとしていた意識を傷付いた手で引き戻したディランの瞳が、かすかに生気を取り戻す。ぎゅっと強く握りしめた左手で体を支え、何とか顔を上げる事に成功したディランの視界が真っ白な優しい光に包まれた。かと思うと、ディランはいつのまにか自分の家の前に立ち尽くしていた。斧を振り下ろしたあの男の姿は見当たらず、深く切り付けられた右腕も、それがまるで夢だったかのように綺麗さっぱり元通りに戻っている。
痛みこそなかったが体から失われた力は戻っておらず、一歩前に進み出たディランはそのままがくんと地面に座り込んでしまった。その拍子に自分の胸元へ吸い込まれるように消えていった白い光を目にしたディランが、さっき脳裏に浮かんだ覚えのない記憶をぼんやりとした頭の中に思い出す。
空へ手を伸ばし、必死にディランの名を呼ぶ母エリザの姿を見下ろしていた事。
出せない声で泣き喚いていた事。
胸を埋め尽くす恐怖と不安と淋しさ。
そして右腕から全身、小さな心臓にまで届いた死を意味する激痛と熱い涙の雨。
その時自分を包み込んだ光と今さっきの光から同じ温もりを感じ取ったディランは、己の中に確かに存在するかけらが命を救ってくれたのだと言う事を知った。それと同時にかけらが自分の運命を狂わせていた事も。
「……こんなのいらないよ」
力の入らない手でごしごしっと目を擦って、重い体を引きずりながら立ち上がったディランは、母の待つ家の扉をゆっくりと開いた。
立ち止まる事は出来ない。それは即ち、ディランの死を意味していたから。
心臓が壊れてしまったかのように鳴り響いて、その煩い鐘の音にも似た鼓動音をディランは耳のすぐ側で聞く。
(……どうして? 僕、何もしてないっ。何もしてないのにっ!)
震える足では上手く走る事さえ出来ず、ディランは何度も転びながらやっと井戸の影に身を隠す事が出来た。
さっき洗い流したシャウルの血の臭いがまだかすかに残っていて、ディランは咳き込むのを堪えるように口元を両手できつく押さえ込む。咳の代わりに瞳から零れ落ちた大粒の涙は滑らかな頬を伝って、ディランの膝を冷たく濡らしていった。
「……殺したのは僕じゃないよっ! 何にも悪いことしてないのに……どうしてみんな僕のこと嫌うの」
物心ついた時から、ディランはいつもひとりだった。誰も一緒に遊んではくれなかったし、大人たちもディランを怯えたような、あるいは憎しみに近い目で見つめていた。楽しかった記憶はひとつもなく、心の底から笑った事もない。母親の優しい笑顔も腕に抱かれた思い出も、ディランにはなかった。彼の存在を認め愛された過去が、ディランには何ひとつなかったのだ。
体がぎくんと震えた。
心のどこかでとっくの昔に気付いていたそれを改めて知らされたような気がして、ディランが涙の止まらない目をぎゅっときつく閉じる。
――僕は要らない子供。嫌われた子供。呪われた子供。
――誰も僕を必要としない。この世界にすら見捨てられた存在。
――受け入れてくれるのは、闇だけだ。
「違う! 僕はっ……僕は魔物なんかじゃないっ!」
心に響く認めたくなかった本当の声を振り払うように、ディランが強く首を振る。その真後ろで、血も凍る冷たい声がした。
「お前は魔物だ、ディラン。村を脅かす魔物と同じなんだよ」
振り返った先に鈍く光る、大きな斧。
頭めがけて振り下ろされた斧を間一髪で避けたディランの右腕に、ずしりっ……と鈍い痛みが走った。
「ぐあっ!」
小さな腕にはあまりにも負担の大きかった斧の衝撃は、そのままディランの体を遠くへと吹き飛ばした。一瞬にして鉛のように重くなった右腕は絶対に気を失わせてはくれない激しい痛みをディランに与え、それだけで彼の呼吸は止まってしまいそうになる。腕がまだついているのかどうかさえ確かめる事も出来ず、ディランはその場にがくんと膝をついて倒れこんだ。
(い……嫌だ。死にたくないっ)
溢れ出す血と一緒に熱まで急速に奪われ、「死」と言う言葉に恐怖を覚えたディランが、涙に濡れた瞳をゆっくりと閉じかけたその時。
『ディラン! ディランっ!』
遠い記憶の片隅で彼の名を呼び、腕を伸ばして泣き叫ぶエリザの姿を見た気がした。
「……か……さん」
『母さんがお前を助けてあげるから』
消えようとしていた意識を傷付いた手で引き戻したディランの瞳が、かすかに生気を取り戻す。ぎゅっと強く握りしめた左手で体を支え、何とか顔を上げる事に成功したディランの視界が真っ白な優しい光に包まれた。かと思うと、ディランはいつのまにか自分の家の前に立ち尽くしていた。斧を振り下ろしたあの男の姿は見当たらず、深く切り付けられた右腕も、それがまるで夢だったかのように綺麗さっぱり元通りに戻っている。
痛みこそなかったが体から失われた力は戻っておらず、一歩前に進み出たディランはそのままがくんと地面に座り込んでしまった。その拍子に自分の胸元へ吸い込まれるように消えていった白い光を目にしたディランが、さっき脳裏に浮かんだ覚えのない記憶をぼんやりとした頭の中に思い出す。
空へ手を伸ばし、必死にディランの名を呼ぶ母エリザの姿を見下ろしていた事。
出せない声で泣き喚いていた事。
胸を埋め尽くす恐怖と不安と淋しさ。
そして右腕から全身、小さな心臓にまで届いた死を意味する激痛と熱い涙の雨。
その時自分を包み込んだ光と今さっきの光から同じ温もりを感じ取ったディランは、己の中に確かに存在するかけらが命を救ってくれたのだと言う事を知った。それと同時にかけらが自分の運命を狂わせていた事も。
「……こんなのいらないよ」
力の入らない手でごしごしっと目を擦って、重い体を引きずりながら立ち上がったディランは、母の待つ家の扉をゆっくりと開いた。
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