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第3章 涙のかけら
ルシエルの影・3
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「やめろおぉぉぉっ!」
空を震わせる激しい轟音と共に、辺りを覆っていたディランの黒い魔力が真っ白な霧にも似た強い魔力に切り刻まれた。獣の爪跡のように地面を削りながら走る白い力は触れるものすべてを瞬時に凍らせながら、目の前のディランへと勢いよく飛びかかる。その迫り来る魔力の刃を前に、少年のディランが幼い顔に狡猾な笑みを浮かべた。
「これで、おしまい」
にやりと笑ったディランにカインがはっと目を見開いたその先で、ディランの小さな体が真っ二つに切り裂かれた。途端、ディランの中に詰め込まれていた暗黒の瘴気が辺りに弾け飛び、それは死者を倒した時と同様にカインへ吸い寄せられるように絡みついた。
「これはっ!」
ディランの体から溢れ出した瘴気は今までとは比べ物にならないくらいに濃く、少し触れただけでカインは意識を奪われそうになる。あの力に切り裂かれ消滅したディランは、おそらく彼が作った分身なのだろう。その分身である少年ディランを使ってまで彼がやりたかった事を、カインは今までの出来事と少年が最後に見せたあの笑みから知った。
「くっ!」
瘴気は計画通りにカインの体をいとも簡単に捕え、すっぽりと覆い隠す。ただでさえ意識を失いそうになっていたカインは瘴気の波から逃れる事も出来ず、抵抗する力さえあっという間に奪われ、そのまま何かに誘われるようにゆっくりと瞼を閉じ息さえも止めていった。
『最後までお前はルシエルに戻らないのだな。……私を拒んで、消えていくのだな』
消えゆく魂を愛しく抱きしめた華奢な腕を覚えている。
白い頬を伝い、滑り落ちた熱い雫を覚えている。
体を包む温かい光を求めていたはずなのに、心はひどく乱れて幾つもの影に分裂していく。
アルディナを望み、アルディナの死を望み、己の消滅を願う――悲しき神ルシエル。何よりも激しくそれを求めていながら、彼らの思いは最後まで重なり合う事はなかった。
『なぜ我を殺さない。お前は我の、最後の自由まで奪うと言うのかっ。――望まぬ! 我は封印など望まぬっ! この苦しみを続けるくらいなら……いっそひと思いに殺せっ!』
それは確かに自分の記憶だったはずだと、カインはおぼろげな意識の中でそう感じていた。
体は動かない。目も開かない。けれどカインは、自分が深い悲しみに満ちた、光も届かない闇に包まれている事を知っていた。
不思議と、不快感はない。
「…………アルディナ?」
闇のはるか彼方から、悲しげな男の声がした。
「どうかしてる。姉を恋しがる年でもないのに。……ここにいると、自分の弱さを浮き彫りにされるようだ。己の意思を持つまでに成長し増幅した闇、闇を纏う者。アルディナもよくこれを封じる事が出来たものだな」
硝子張りのような空間を作り出した結界、その向こう側に閉じ込められた闇を纏う者は隙あらばそこから逃げ出そうと妖しくざわめいている。ただ真っ暗なだけに見える結界の向こうから、ルシエルはいつも自分に纏わり付く視線を感じていた。
『女神はお前を捨てた』
自分でも驚くほど脆く、心が崩れ始める。たった一言で自分を失うとは、思ってもみなかった。自分が監視してきた闇を纏う者に、創世神の弟である神が負けるとは。
(……本当は、それを望んでいたのかもしれない)
体中に流れ込んでくる声を素直に受け止めながら、カインが小さく呟いた。
カインしか存在しない闇の中で誰にも届くはずのない言葉、しかしそれは幻聴とは思えないほどはっきりとした答えを闇の中から連れて来る。
「あぁ、そうだ。俺はここから抜け出せるのならどうなってもよかった。俺は俺自身に負け、闇を纏う者を取り込み――我となった。闇を纏う者を受け入れる事で多くの犠牲が出る事も構わなかった。……我は狂っていたのかもしれぬ。そしてそんな我を、闇を纏う者は赤子の手を捻るように容易く手に入れたのだ」
――ルシエルであろうと闇を纏う者であろうと、我は誰からも愛されぬ。得られぬものを追い求め、孤独と言う枷に縛られるより、我は狂気を選んだのだ。ルシエル自身の、その手で。
辺りを覆う闇が、カインを抱くようにゆっくりと腕を伸ばした。闇はカインの肌に溶け込むように消え、触れた部分からずるずるとカインの中へ染み込んでいく。闇の侵食に抵抗する気配すら見せず冷静にそれを受け止めたカインが、無意識にゆっくりと手を前に伸ばした。その指先が何か冷たいものに触れた瞬間、カインの脳裏に見た事もない過去の情景が浮かび上がった。
漆黒の翼と舞い散った鮮血。魔法の匂いと、それを覆い隠す暗黒の瘴気。青白い右手にしっかりと握られた、冷気を吐き出す氷の魔剣。
何かを求め、激しく拒み、分裂した二つの心に狂い叫びながら、空をも凍りつかせた冷たい空間に――――心そのものを表す透明で純粋な一粒の涙が零れ落ちた。
『我を……愛してくれ。――――そして、殺してくれ』
闇を纏う者に捕われてしまったルシエルの、本当の声を聞いたような気がする。そしてその瞬間、辛うじて留めていたカインの意識が、冷たく凍った氷の手のひらによって完全に奪い去られた。
「ここは地界ガルディオス。君にとってもっとも関わりの深い場所だよ、カイン」
声と共にディランが姿を現した。倒れたまま少しも動かないカインは、死んでしまったかのように色をなくしている。
「おかえり」
静かに呟いてカインの傍らに膝をついて屈み込んだディランが、そのまま細い指をカインの髪へと伸ばす。まるで恋人に触れるように優しく紫銀の髪を撫で下ろしたディランが、無表情だったその顔に淡く確かな笑みを浮かべた。
「――――ルシエル様」
囁くように零れた声に反応して、カインのピアスが妖しく赤く煌いた。
後は砕け落ちるだけとなった紫銀の石。
その石に新しい亀裂が入る場所など、もうどこにもなかった。
空を震わせる激しい轟音と共に、辺りを覆っていたディランの黒い魔力が真っ白な霧にも似た強い魔力に切り刻まれた。獣の爪跡のように地面を削りながら走る白い力は触れるものすべてを瞬時に凍らせながら、目の前のディランへと勢いよく飛びかかる。その迫り来る魔力の刃を前に、少年のディランが幼い顔に狡猾な笑みを浮かべた。
「これで、おしまい」
にやりと笑ったディランにカインがはっと目を見開いたその先で、ディランの小さな体が真っ二つに切り裂かれた。途端、ディランの中に詰め込まれていた暗黒の瘴気が辺りに弾け飛び、それは死者を倒した時と同様にカインへ吸い寄せられるように絡みついた。
「これはっ!」
ディランの体から溢れ出した瘴気は今までとは比べ物にならないくらいに濃く、少し触れただけでカインは意識を奪われそうになる。あの力に切り裂かれ消滅したディランは、おそらく彼が作った分身なのだろう。その分身である少年ディランを使ってまで彼がやりたかった事を、カインは今までの出来事と少年が最後に見せたあの笑みから知った。
「くっ!」
瘴気は計画通りにカインの体をいとも簡単に捕え、すっぽりと覆い隠す。ただでさえ意識を失いそうになっていたカインは瘴気の波から逃れる事も出来ず、抵抗する力さえあっという間に奪われ、そのまま何かに誘われるようにゆっくりと瞼を閉じ息さえも止めていった。
『最後までお前はルシエルに戻らないのだな。……私を拒んで、消えていくのだな』
消えゆく魂を愛しく抱きしめた華奢な腕を覚えている。
白い頬を伝い、滑り落ちた熱い雫を覚えている。
体を包む温かい光を求めていたはずなのに、心はひどく乱れて幾つもの影に分裂していく。
アルディナを望み、アルディナの死を望み、己の消滅を願う――悲しき神ルシエル。何よりも激しくそれを求めていながら、彼らの思いは最後まで重なり合う事はなかった。
『なぜ我を殺さない。お前は我の、最後の自由まで奪うと言うのかっ。――望まぬ! 我は封印など望まぬっ! この苦しみを続けるくらいなら……いっそひと思いに殺せっ!』
それは確かに自分の記憶だったはずだと、カインはおぼろげな意識の中でそう感じていた。
体は動かない。目も開かない。けれどカインは、自分が深い悲しみに満ちた、光も届かない闇に包まれている事を知っていた。
不思議と、不快感はない。
「…………アルディナ?」
闇のはるか彼方から、悲しげな男の声がした。
「どうかしてる。姉を恋しがる年でもないのに。……ここにいると、自分の弱さを浮き彫りにされるようだ。己の意思を持つまでに成長し増幅した闇、闇を纏う者。アルディナもよくこれを封じる事が出来たものだな」
硝子張りのような空間を作り出した結界、その向こう側に閉じ込められた闇を纏う者は隙あらばそこから逃げ出そうと妖しくざわめいている。ただ真っ暗なだけに見える結界の向こうから、ルシエルはいつも自分に纏わり付く視線を感じていた。
『女神はお前を捨てた』
自分でも驚くほど脆く、心が崩れ始める。たった一言で自分を失うとは、思ってもみなかった。自分が監視してきた闇を纏う者に、創世神の弟である神が負けるとは。
(……本当は、それを望んでいたのかもしれない)
体中に流れ込んでくる声を素直に受け止めながら、カインが小さく呟いた。
カインしか存在しない闇の中で誰にも届くはずのない言葉、しかしそれは幻聴とは思えないほどはっきりとした答えを闇の中から連れて来る。
「あぁ、そうだ。俺はここから抜け出せるのならどうなってもよかった。俺は俺自身に負け、闇を纏う者を取り込み――我となった。闇を纏う者を受け入れる事で多くの犠牲が出る事も構わなかった。……我は狂っていたのかもしれぬ。そしてそんな我を、闇を纏う者は赤子の手を捻るように容易く手に入れたのだ」
――ルシエルであろうと闇を纏う者であろうと、我は誰からも愛されぬ。得られぬものを追い求め、孤独と言う枷に縛られるより、我は狂気を選んだのだ。ルシエル自身の、その手で。
辺りを覆う闇が、カインを抱くようにゆっくりと腕を伸ばした。闇はカインの肌に溶け込むように消え、触れた部分からずるずるとカインの中へ染み込んでいく。闇の侵食に抵抗する気配すら見せず冷静にそれを受け止めたカインが、無意識にゆっくりと手を前に伸ばした。その指先が何か冷たいものに触れた瞬間、カインの脳裏に見た事もない過去の情景が浮かび上がった。
漆黒の翼と舞い散った鮮血。魔法の匂いと、それを覆い隠す暗黒の瘴気。青白い右手にしっかりと握られた、冷気を吐き出す氷の魔剣。
何かを求め、激しく拒み、分裂した二つの心に狂い叫びながら、空をも凍りつかせた冷たい空間に――――心そのものを表す透明で純粋な一粒の涙が零れ落ちた。
『我を……愛してくれ。――――そして、殺してくれ』
闇を纏う者に捕われてしまったルシエルの、本当の声を聞いたような気がする。そしてその瞬間、辛うじて留めていたカインの意識が、冷たく凍った氷の手のひらによって完全に奪い去られた。
「ここは地界ガルディオス。君にとってもっとも関わりの深い場所だよ、カイン」
声と共にディランが姿を現した。倒れたまま少しも動かないカインは、死んでしまったかのように色をなくしている。
「おかえり」
静かに呟いてカインの傍らに膝をついて屈み込んだディランが、そのまま細い指をカインの髪へと伸ばす。まるで恋人に触れるように優しく紫銀の髪を撫で下ろしたディランが、無表情だったその顔に淡く確かな笑みを浮かべた。
「――――ルシエル様」
囁くように零れた声に反応して、カインのピアスが妖しく赤く煌いた。
後は砕け落ちるだけとなった紫銀の石。
その石に新しい亀裂が入る場所など、もうどこにもなかった。
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