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第3章 涙のかけら
ルシエルの影・1
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――――僕の罪は何? 僕が殺されなければならなかった理由は何だったの?
蹲り、震えて泣くひとりの少年が、シェリルの前にいた。小さな手足には生々しい傷跡が浮き出ていて、首には絞められた跡さえ見える。背中の刀傷は今しがた切られたばかりだと言う事を物語るようにだらだらと血を流し、少年の背中を真紅に染め上げていた。
「いたぞっ! こっちだ!」
鬼気迫る声に、怯えた少年が顔を上げる。その視線を辿って振り返ると、武器を持って走ってくる大人たちの姿が見えた。
シェリルの前で震える少年と、彼に向けられた剥き出しの殺意。彼らの狙いに気付いたシェリルが少年へ目を向けると、震えて泣いていた少年がシェリルの体を通り抜けて、大人たちから逃げるように走り出した。
「待て、ディラン! 逃げられると思っているのか!」
少年を追うように伸ばしていたシェリルの手が、びくんと震えてそこで止まる。そのシェリルの手を少年と同じようにすり抜けた一本の斧が、ディランと呼ばれた少年の背中めがけて勢いよく投げつけられた。
「駄目っ!」
少年の名前に気を取られていたシェリルの目の前で、止める事の出来なかった凶器が小さな背中に深く食い込もうとしたその時。
少年の命を奪う為に投げられた斧が、その寸前で突然真っ二つに切り裂かれ、目的を遂げる事なく地面に崩れ落ちた。
「……っ!」
――――僕の真実。僕の希望。……僕の唯一の光。
斧を切り裂いた一本の剣。少年を守るようにして現れた人影に、シェリルは驚きと混乱で一瞬言葉を失った。
真っ白な翼の羽ばたきによって揺れる紫銀の髪。
少年を助け、少年が光と慕うその人は……他の誰でもないカインだった。
『すべてに見放された僕の唯一の支え。あの方こそが僕のすべて』
ディランの声がシェリルに届く頃には既に、辺りは真っ暗な闇に包まれていた。
「ウオォォォッ!」
恨めしい悲鳴を上げて消し飛んだ死者が、怨念の塊のような真っ黒い瘴気を辺りに撒き散らす。少し毒気のある瘴気に取り巻かれ、カインがむっと顔を顰めて空高く上昇した。
死者を倒す度にその体から弾け出す黒い瘴気は、まるでカインに引き寄せられるかのように絡みつき、そのまま体に染み込もうとしてくる。強い暗黒の瘴気を吸いすぎたのか、時々意識を失いそうになる自分にカインはぎりっと歯を食いしばった。
「何なんだ、こいつらはっ」
空に上がったカインを追うようにぼこぼこと体を変形させ、背中から皮で出来た漆黒の翼を引きずり出した死者を忌々しく見下ろしながら、カインが剣を握りしめた手に力を込めた。
死者を倒せば、その体から溢れ出した瘴気がカインの意識と遠くへ奪い去ってしまう。しかし死者を倒さなければカインは一向にここから動けず、シェリルの元へ行く事すら出来ない。
『無駄だよ、カイン。君はシェリルを助ける事など出来やしない』
耳元でディランの勝ち誇った高笑いが聞こえた気がした。そして、その声に重なるようにして響いたもうひとつの声音。
『最後まで……我はひとりで逝くのだな』
『お前をどうやって許せと言うのだ? お前を許したところで、今更何も変わらぬ。お前は我を許せるか? 天界を襲撃し、多くの命を奪った我を……お前は許せると言うのか?』
憎しみと悲しみに満ちた冷たい声。カインはそれを自分の記憶の中から聞いたような気がして、無意識のうちに体を震わせていた。
求め、焦がれていた光だからこそ、激しい憎悪を剥き出しにする。届かないと分かっているから、光を消す事で救われようとしていた。光がなければ闇の中でそれを求める事もない。泣き叫び、狂う事もない。
『誰に何と言われようと構わぬ。我は我の求めたものすべてを破壊するまで、決して止まる事はない。ルシエルであろうと闇を纏う者であろうと、我を受け入れてくれる者はどこにもいないのだから。ルシエルに戻ったところで、我の罪は変わらぬ。心の弱さも変わらぬ。……ならばいっそすべてを破壊し、我を破壊し、消えてしまう事が我の唯一の望みだ。……それすらも、お前は奪うと言うのか?』
カインの中に響いていた声が勢いを増して渦を巻き、それはそのままカインと言う存在そのものを食い尽くすかのように膨張し始めた。
(この声……。これはっ?)
『我をルシエルと思うか? お前は気付き始めているんだろう? ――――我が、誰なのかを』
「黙れっ!」
怒号のような声と共に、カインが勢いよく剣を振り下ろした。耳を突く鋭い轟音を辺りに響かせて刃から溢れ出した力が、真下で蠢く黒い死者の群れを両断しようと、獣の爪へと形を変えながら真っ逆さまに降下する。
巻き上がる風の衝撃だけで遠く離れた死者さえ巻き込み、力の刃が幾つかに分かれながら黒い死者の群れを一瞬にして吹き飛ばした。それと同時に死者の体から弾き出された瘴気が渦を巻きながら、今度はカインを逃さないよう上空まで一気に跳ね上がる。
「くっ!」
頭に響く声を消し去りたい一心で剣を振るってしまい、判断の遅れたカインが瘴気から逃げようと翼を羽ばたかせた。けれども逃げ遅れた獲物を捕らえるのは簡単で、カインよりも高く伸びあがった瘴気がそこから覆い被さるようになだれ込む。逃げ場を完全に失ったカインは、抵抗する間もなく瘴気の中へ飲み込まれていった。
『我は闇を纏う者。闇を纏う者は我。ルシエルであり、ルシエルを捨てた者。闇を纏う者の監視者である我は、闇を纏う者に負けた我である。我の名はルシエル。――――それは、お前の名だ』
耳元で、何かが割れる音を聞いた。
体を通り過ぎた瘴気の波はその姿を完全に消し、カインはひとり寂れた村の中に膝を突いてしゃがみ込んでいた。呼吸は荒く、その額に滲み出た幾つもの汗は珠を結んでカインの頬を伝い、零れ落ちていく。
闇の瘴気が心の奥に触れた事は嫌と言うほど感じた。それによって自分の中で何かがかすかに変わり始めている事を感じ取ったカインが、胸に湧き上がる得体の知れない不安を追い出すように頭を強く振った。
「……シェリル」
自分が何の為にあの死者たちと戦っていたかを思い出して、カインはまだふらりとよろめく体にぐっと力を込めた。剣を地面に突き刺し、それに寄りかかるようにして立ち上がったカインは、奪われた力を取り戻そうと柄に置いた手を強く握り締めた。
死者の気配はどこにもない。それとは逆に、さっきまでまったく感じる事の出来なかったシェリルの気配が、微弱ではあるが風に乗ってカインの心に伝わってくる。その気の流れを見失わないよう静かに目を閉じて場所を辿ったカインは、シェリルの居場所を確認すると同時に、村の一番奥へと弾かれたように駆け出して行った。
その左耳に光る紫銀のピアスは、新たに数本の亀裂を走らせていた。
蹲り、震えて泣くひとりの少年が、シェリルの前にいた。小さな手足には生々しい傷跡が浮き出ていて、首には絞められた跡さえ見える。背中の刀傷は今しがた切られたばかりだと言う事を物語るようにだらだらと血を流し、少年の背中を真紅に染め上げていた。
「いたぞっ! こっちだ!」
鬼気迫る声に、怯えた少年が顔を上げる。その視線を辿って振り返ると、武器を持って走ってくる大人たちの姿が見えた。
シェリルの前で震える少年と、彼に向けられた剥き出しの殺意。彼らの狙いに気付いたシェリルが少年へ目を向けると、震えて泣いていた少年がシェリルの体を通り抜けて、大人たちから逃げるように走り出した。
「待て、ディラン! 逃げられると思っているのか!」
少年を追うように伸ばしていたシェリルの手が、びくんと震えてそこで止まる。そのシェリルの手を少年と同じようにすり抜けた一本の斧が、ディランと呼ばれた少年の背中めがけて勢いよく投げつけられた。
「駄目っ!」
少年の名前に気を取られていたシェリルの目の前で、止める事の出来なかった凶器が小さな背中に深く食い込もうとしたその時。
少年の命を奪う為に投げられた斧が、その寸前で突然真っ二つに切り裂かれ、目的を遂げる事なく地面に崩れ落ちた。
「……っ!」
――――僕の真実。僕の希望。……僕の唯一の光。
斧を切り裂いた一本の剣。少年を守るようにして現れた人影に、シェリルは驚きと混乱で一瞬言葉を失った。
真っ白な翼の羽ばたきによって揺れる紫銀の髪。
少年を助け、少年が光と慕うその人は……他の誰でもないカインだった。
『すべてに見放された僕の唯一の支え。あの方こそが僕のすべて』
ディランの声がシェリルに届く頃には既に、辺りは真っ暗な闇に包まれていた。
「ウオォォォッ!」
恨めしい悲鳴を上げて消し飛んだ死者が、怨念の塊のような真っ黒い瘴気を辺りに撒き散らす。少し毒気のある瘴気に取り巻かれ、カインがむっと顔を顰めて空高く上昇した。
死者を倒す度にその体から弾け出す黒い瘴気は、まるでカインに引き寄せられるかのように絡みつき、そのまま体に染み込もうとしてくる。強い暗黒の瘴気を吸いすぎたのか、時々意識を失いそうになる自分にカインはぎりっと歯を食いしばった。
「何なんだ、こいつらはっ」
空に上がったカインを追うようにぼこぼこと体を変形させ、背中から皮で出来た漆黒の翼を引きずり出した死者を忌々しく見下ろしながら、カインが剣を握りしめた手に力を込めた。
死者を倒せば、その体から溢れ出した瘴気がカインの意識と遠くへ奪い去ってしまう。しかし死者を倒さなければカインは一向にここから動けず、シェリルの元へ行く事すら出来ない。
『無駄だよ、カイン。君はシェリルを助ける事など出来やしない』
耳元でディランの勝ち誇った高笑いが聞こえた気がした。そして、その声に重なるようにして響いたもうひとつの声音。
『最後まで……我はひとりで逝くのだな』
『お前をどうやって許せと言うのだ? お前を許したところで、今更何も変わらぬ。お前は我を許せるか? 天界を襲撃し、多くの命を奪った我を……お前は許せると言うのか?』
憎しみと悲しみに満ちた冷たい声。カインはそれを自分の記憶の中から聞いたような気がして、無意識のうちに体を震わせていた。
求め、焦がれていた光だからこそ、激しい憎悪を剥き出しにする。届かないと分かっているから、光を消す事で救われようとしていた。光がなければ闇の中でそれを求める事もない。泣き叫び、狂う事もない。
『誰に何と言われようと構わぬ。我は我の求めたものすべてを破壊するまで、決して止まる事はない。ルシエルであろうと闇を纏う者であろうと、我を受け入れてくれる者はどこにもいないのだから。ルシエルに戻ったところで、我の罪は変わらぬ。心の弱さも変わらぬ。……ならばいっそすべてを破壊し、我を破壊し、消えてしまう事が我の唯一の望みだ。……それすらも、お前は奪うと言うのか?』
カインの中に響いていた声が勢いを増して渦を巻き、それはそのままカインと言う存在そのものを食い尽くすかのように膨張し始めた。
(この声……。これはっ?)
『我をルシエルと思うか? お前は気付き始めているんだろう? ――――我が、誰なのかを』
「黙れっ!」
怒号のような声と共に、カインが勢いよく剣を振り下ろした。耳を突く鋭い轟音を辺りに響かせて刃から溢れ出した力が、真下で蠢く黒い死者の群れを両断しようと、獣の爪へと形を変えながら真っ逆さまに降下する。
巻き上がる風の衝撃だけで遠く離れた死者さえ巻き込み、力の刃が幾つかに分かれながら黒い死者の群れを一瞬にして吹き飛ばした。それと同時に死者の体から弾き出された瘴気が渦を巻きながら、今度はカインを逃さないよう上空まで一気に跳ね上がる。
「くっ!」
頭に響く声を消し去りたい一心で剣を振るってしまい、判断の遅れたカインが瘴気から逃げようと翼を羽ばたかせた。けれども逃げ遅れた獲物を捕らえるのは簡単で、カインよりも高く伸びあがった瘴気がそこから覆い被さるようになだれ込む。逃げ場を完全に失ったカインは、抵抗する間もなく瘴気の中へ飲み込まれていった。
『我は闇を纏う者。闇を纏う者は我。ルシエルであり、ルシエルを捨てた者。闇を纏う者の監視者である我は、闇を纏う者に負けた我である。我の名はルシエル。――――それは、お前の名だ』
耳元で、何かが割れる音を聞いた。
体を通り過ぎた瘴気の波はその姿を完全に消し、カインはひとり寂れた村の中に膝を突いてしゃがみ込んでいた。呼吸は荒く、その額に滲み出た幾つもの汗は珠を結んでカインの頬を伝い、零れ落ちていく。
闇の瘴気が心の奥に触れた事は嫌と言うほど感じた。それによって自分の中で何かがかすかに変わり始めている事を感じ取ったカインが、胸に湧き上がる得体の知れない不安を追い出すように頭を強く振った。
「……シェリル」
自分が何の為にあの死者たちと戦っていたかを思い出して、カインはまだふらりとよろめく体にぐっと力を込めた。剣を地面に突き刺し、それに寄りかかるようにして立ち上がったカインは、奪われた力を取り戻そうと柄に置いた手を強く握り締めた。
死者の気配はどこにもない。それとは逆に、さっきまでまったく感じる事の出来なかったシェリルの気配が、微弱ではあるが風に乗ってカインの心に伝わってくる。その気の流れを見失わないよう静かに目を閉じて場所を辿ったカインは、シェリルの居場所を確認すると同時に、村の一番奥へと弾かれたように駆け出して行った。
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