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第3章 涙のかけら
死んだ村・1
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冷たく静かな空間に、消えかける蝋燭の炎のような弱々しい光を放つ白い魔法陣があった。時々完全に色を失いそうになる光は、セシリアの魔法によって辛うじてそこに存在し続けていた。
魔法陣から放たれている白い光が黒く濁り始めている事から、闇の力が関与している事は間違いない。下界から急いで月の宮殿の地下へと駆け付けたシェリルは、今にも消えてしまいそうに薄く揺らめいた魔法陣を見てはっと息を飲んだ。
「私の力も限界よ。二人とも、早く魔法陣の中へ!」
普段ならこれくらいの妨害に手を焼く事もないのだが、昨夜からずっと魔力を使い続けて来たせいもあってか、セシリアの顔には見て分かるほどはっきりと疲労の色が現れていた。杖を握る手もかすかに震え、額からは幾つもの汗が珠を結んですべり落ちている。
「セシリア、大丈夫か!」
「私は大丈夫よ。それよりも早く」
「ああ。シェリル、行くぞ!」
セシリアの様子からあまり時間が残されていない事を知り、慌てたようにカインがシェリルの体を引き寄せる。
「二人とも気をつけて。……きっと闇があなたたちを待ち構えているわ」
「俺を誰だと思ってるんだ? 余計な心配するな」
余裕の笑みを浮かべるカインとは反対に、シェリルは終始不安げな表情を浮かべている。
「大丈夫だ」
腕の中に引き寄せたシェリルの耳元へ唇を寄せて、カインが安心させるように小さく、けれどしっかりとした口調で囁いた。
二人が魔法陣の中へ足を踏み入れた瞬間、弱々しかった光が炎のようにうねりをあげて伸び上がった。目を突く光ではなかったが、それでもセシリアの視界は一瞬色を奪われて白に埋め尽くされる。その光の下、足下の魔法陣から、不意にじわりと染み出した黒い靄が光を侵食するように広がったのを見て、セシリアが閉じかけていた瞼を慌てて開いた。
セシリアが言葉を発するよりも先に、それは一瞬のうちに白い光もろともシェリルたちを遠く離れた地へ連れ去ってしまった。床の魔法陣は、既に効力を失って沈黙している。ひとり残ったセシリアは、シェリルたちを呼び寄せたような黒い力に言いようのない不安を覚え、それをいつまでも消し去る事が出来なかった。
『お前の声など、聞きたくない』
凍った声音に凍えるような冷気が纏わりつく。
『姿を見るのでさえ虫酸が走る。それがなぜ、ここでお前と向き合っているのか分かるか?』
声に絡むのは激しい憎しみだけ。それ以外にはもう何もない。
『闇の王となった我が望むのは、お前の死だ。支配などは余興にすぎぬ。――――おかしいものだな。あんなにも焦がれていたお前を、天界を滅ぼす事で、我の存在を確かめられるのだから』
その手に握られた、白い冷気を放つ氷の剣。それは冷たく閉ざされた心が作り出した魔剣フロスティア。
『この魔剣フロスティアが、お前の温かい血に染まるのを待ち続けてきた。……姉弟の情などとっくに捨てた。お前も我を、弟ルシエルと思わぬ事だ』
びゅうっと強く吹いた冷たい風が、灰色の空に現れたカインとシェリルをそこから追い出すように勢いよく体当たりした。
聖地へ赴いた時も空中に出た事を思い出し、予め空を飛ぶ準備をしていたカインだったが、突風のあまりの激しさに遠く吹き飛ばされそうになる。ぐるりと空中で一回転してから体勢を整えたカインは、真下に広がった生気のない荒れた黒い大地に息を飲んで言葉を失った。
遠く、見渡せる限りまで広がる大地は、多くの血を吸ってどす黒く色を変えていた。大きく幹を曲げて、枝を逆さにしたままで枯れている木々は、まるで背中を丸めて嘆く亡者のようにも見える。
からからと乾いた音に目を向けてみれば、何のものかもわからない骨の残骸が風に弄ばれながら空しい悲鳴を響かせていた。黒い大地に唯一の色として白い影を浮き上がらせた骨の残骸。その影を弔うように突き刺さった何本もの錆びた剣は、さながら風化した墓標のようだ。
行きた者が降り立つのでさえ躊躇われる、呪われた地。その全貌を前にして、シェリルの体が大きく震えた。
『我を捨てたアルディナ。……お前は躊躇う事なく、我を斬る事が出来るのだろうな』
止むことのない乾いた骨の慟哭に混じって、冷たく悲しい声を聞いたような気がする。
紫銀に輝くルーテリーヴェを握る、細く長い指。聖杖に軽く頭を傾けて、アルディナが小さく息を吐いた。
「地界へ送って、どれくらい経つ?」
瞳を閉じたままそう尋ねた声に、後方から静かに答えが返ってくる。
「二千年くらいになります」
「……闇が誘い込むには十分過ぎるな。神とて完全ではない。二千年という時間は、人が狂ってもまだ余る」
「アルディナ様」
金色の髪がアルディナの肩から滑り落ち、手に持っていた聖杖ルーテリーヴェをすっぽりと覆い隠した。
「お前は私を恨んでいるか? 二千年もの長い間、ルシエルをひとりきりにした私を。ルシエルの強さに甘え、その本当の姿を……ルシエルが何を望んでいたのかを知ろうとはしなかった私を……憎んでいるか?」
「いいえ。……アルディナ様、あまりご自分を責めないで下さい。私たちにとってアルディナ様もルシエル様も、誇り高き神なのですから」
きっぱりと言い切ってみせた天使に振り返る事もなく、アルディナは開きかけていた瞳を再び閉じて緩く首を振った。
「私は恨んでいる。ただの一度もルシエルに会いに行かなかった自分自身を憎んでいる。闇の恐ろしさを一番よく知っていたのは、私だけしかいなかったのに」
静寂の空間に慌ただしく駆けて来る足音が響いた。
近付いてくる足音を聞きながら、アルディナはこれから聞く事になるであろう言葉に対して気持ちをしっかり保つ為に、深く深く息を吸い込んだ。
「大変です! ルシエル様が結界を破って現れました。突然の襲撃に戦士たちの大半が重傷を……っ」
すうっと静かにアルディナの瞳が開いた。さっきまでの憂いの表情はなく、毅然とした女神の姿がそこにあった。戦いを悲しむ女でもなく、弟を思う姉でもない。世界に害をなす存在を滅ぼそうと、戦いを挑む創世神。
「行くぞ。奴の好きにはさせない」
きっぱりと言い切って立ち上がったアルディナの心のように、ルーテリーヴェについた鈴が物悲しい音をいつまでも響かせていた。
魔法陣から放たれている白い光が黒く濁り始めている事から、闇の力が関与している事は間違いない。下界から急いで月の宮殿の地下へと駆け付けたシェリルは、今にも消えてしまいそうに薄く揺らめいた魔法陣を見てはっと息を飲んだ。
「私の力も限界よ。二人とも、早く魔法陣の中へ!」
普段ならこれくらいの妨害に手を焼く事もないのだが、昨夜からずっと魔力を使い続けて来たせいもあってか、セシリアの顔には見て分かるほどはっきりと疲労の色が現れていた。杖を握る手もかすかに震え、額からは幾つもの汗が珠を結んですべり落ちている。
「セシリア、大丈夫か!」
「私は大丈夫よ。それよりも早く」
「ああ。シェリル、行くぞ!」
セシリアの様子からあまり時間が残されていない事を知り、慌てたようにカインがシェリルの体を引き寄せる。
「二人とも気をつけて。……きっと闇があなたたちを待ち構えているわ」
「俺を誰だと思ってるんだ? 余計な心配するな」
余裕の笑みを浮かべるカインとは反対に、シェリルは終始不安げな表情を浮かべている。
「大丈夫だ」
腕の中に引き寄せたシェリルの耳元へ唇を寄せて、カインが安心させるように小さく、けれどしっかりとした口調で囁いた。
二人が魔法陣の中へ足を踏み入れた瞬間、弱々しかった光が炎のようにうねりをあげて伸び上がった。目を突く光ではなかったが、それでもセシリアの視界は一瞬色を奪われて白に埋め尽くされる。その光の下、足下の魔法陣から、不意にじわりと染み出した黒い靄が光を侵食するように広がったのを見て、セシリアが閉じかけていた瞼を慌てて開いた。
セシリアが言葉を発するよりも先に、それは一瞬のうちに白い光もろともシェリルたちを遠く離れた地へ連れ去ってしまった。床の魔法陣は、既に効力を失って沈黙している。ひとり残ったセシリアは、シェリルたちを呼び寄せたような黒い力に言いようのない不安を覚え、それをいつまでも消し去る事が出来なかった。
『お前の声など、聞きたくない』
凍った声音に凍えるような冷気が纏わりつく。
『姿を見るのでさえ虫酸が走る。それがなぜ、ここでお前と向き合っているのか分かるか?』
声に絡むのは激しい憎しみだけ。それ以外にはもう何もない。
『闇の王となった我が望むのは、お前の死だ。支配などは余興にすぎぬ。――――おかしいものだな。あんなにも焦がれていたお前を、天界を滅ぼす事で、我の存在を確かめられるのだから』
その手に握られた、白い冷気を放つ氷の剣。それは冷たく閉ざされた心が作り出した魔剣フロスティア。
『この魔剣フロスティアが、お前の温かい血に染まるのを待ち続けてきた。……姉弟の情などとっくに捨てた。お前も我を、弟ルシエルと思わぬ事だ』
びゅうっと強く吹いた冷たい風が、灰色の空に現れたカインとシェリルをそこから追い出すように勢いよく体当たりした。
聖地へ赴いた時も空中に出た事を思い出し、予め空を飛ぶ準備をしていたカインだったが、突風のあまりの激しさに遠く吹き飛ばされそうになる。ぐるりと空中で一回転してから体勢を整えたカインは、真下に広がった生気のない荒れた黒い大地に息を飲んで言葉を失った。
遠く、見渡せる限りまで広がる大地は、多くの血を吸ってどす黒く色を変えていた。大きく幹を曲げて、枝を逆さにしたままで枯れている木々は、まるで背中を丸めて嘆く亡者のようにも見える。
からからと乾いた音に目を向けてみれば、何のものかもわからない骨の残骸が風に弄ばれながら空しい悲鳴を響かせていた。黒い大地に唯一の色として白い影を浮き上がらせた骨の残骸。その影を弔うように突き刺さった何本もの錆びた剣は、さながら風化した墓標のようだ。
行きた者が降り立つのでさえ躊躇われる、呪われた地。その全貌を前にして、シェリルの体が大きく震えた。
『我を捨てたアルディナ。……お前は躊躇う事なく、我を斬る事が出来るのだろうな』
止むことのない乾いた骨の慟哭に混じって、冷たく悲しい声を聞いたような気がする。
紫銀に輝くルーテリーヴェを握る、細く長い指。聖杖に軽く頭を傾けて、アルディナが小さく息を吐いた。
「地界へ送って、どれくらい経つ?」
瞳を閉じたままそう尋ねた声に、後方から静かに答えが返ってくる。
「二千年くらいになります」
「……闇が誘い込むには十分過ぎるな。神とて完全ではない。二千年という時間は、人が狂ってもまだ余る」
「アルディナ様」
金色の髪がアルディナの肩から滑り落ち、手に持っていた聖杖ルーテリーヴェをすっぽりと覆い隠した。
「お前は私を恨んでいるか? 二千年もの長い間、ルシエルをひとりきりにした私を。ルシエルの強さに甘え、その本当の姿を……ルシエルが何を望んでいたのかを知ろうとはしなかった私を……憎んでいるか?」
「いいえ。……アルディナ様、あまりご自分を責めないで下さい。私たちにとってアルディナ様もルシエル様も、誇り高き神なのですから」
きっぱりと言い切ってみせた天使に振り返る事もなく、アルディナは開きかけていた瞳を再び閉じて緩く首を振った。
「私は恨んでいる。ただの一度もルシエルに会いに行かなかった自分自身を憎んでいる。闇の恐ろしさを一番よく知っていたのは、私だけしかいなかったのに」
静寂の空間に慌ただしく駆けて来る足音が響いた。
近付いてくる足音を聞きながら、アルディナはこれから聞く事になるであろう言葉に対して気持ちをしっかり保つ為に、深く深く息を吸い込んだ。
「大変です! ルシエル様が結界を破って現れました。突然の襲撃に戦士たちの大半が重傷を……っ」
すうっと静かにアルディナの瞳が開いた。さっきまでの憂いの表情はなく、毅然とした女神の姿がそこにあった。戦いを悲しむ女でもなく、弟を思う姉でもない。世界に害をなす存在を滅ぼそうと、戦いを挑む創世神。
「行くぞ。奴の好きにはさせない」
きっぱりと言い切って立ち上がったアルディナの心のように、ルーテリーヴェについた鈴が物悲しい音をいつまでも響かせていた。
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