飛べない天使

紫月音湖(旧HN/月音)

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第3章 涙のかけら

キスの予約・4

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 天界と下界を繋ぐ風の回廊へと続く魔法陣。長い階段の上にあるその場所を見上げて、リリスが苛々したようにぎりっと爪を噛んだ。さっきまでそこにいたカインの姿は既になく、彼の後を追うように浮遊する光の粒がリリスの瞳にはっきりと映る。

「あんな女っ……」

 闇に溶けて消えていく光の粒を睨みつけながら、リリスが低く押し殺した声で呻くように呟いた。
 夜にまた来ると言う約束を、カインが破った事に対して怒っているのではない。向かった先があのシェリルの元だと言う事が、リリスには許せなかったのだ。突然現れ、落し子と言うだけでカインを独り占めし、女としての魅力もリリスより劣っているシェリル。そんなシェリルに少しでも負けたと言う現実はリリスのプライドを容赦なく傷つけたが、それよりもカインを奪われた事の方がリリスの心に激しい憎悪の炎を燃え上がらせる。

「たかが人間のくせにっ!」

 吐き捨てるように言ってくるりと身を翻したリリスの前に――黒い闇の塊があった。

「ひっ!」

 いつからそこにいたのか、気配をまったく感じさせなかったそれに驚いて後退する。見開かれた瞳の奥で、黒い闇が妖しく揺らめきながら近付いた。
 辺りを包む夜の闇とは明らかに違うねっとりとした闇の塊、それから漂う恐ろしく邪悪な気配を感じただけで体中から冷や汗がどっと溢れ出す。こんな不気味なものに真後ろから今までずっと見つめられていた事に気付けず、リリスは今更ながら恐怖を覚えた。

『ここにも黒い天使がいるのだな』

 二重になった低い声と共に闇が細長く伸び、その先がリリスの頬に触れた。頬にべたりと張り付いた濡れた手のような感触に、リリスが短い悲鳴を上げて目を閉じる。

『何を恐れる? 同じ闇でありながら、お前は我を拒むのか?』

「私はっ……闇なんかじゃないわ!」

 からからになった喉に力を込めて叫んだリリスに、闇の塊がくっくっと声を漏らして笑った。

『その心に渦巻く憎悪を剥き出しにしてもか? 憎しみや妬みは闇の一部』

「そんな感情、誰だって持ってる!」

『あぁ、そうだ。――だから我が生まれた』

 その言葉にリリスが顔を上げた。大きく見開かれた瞳はかすかに震え、そこに映る黒い影を歪ませる。
 肌に直接感じるとてつもない魔力と、心を押し潰されそうになる激しい黒の感情。ただの魔物にしては魔力が桁外れに大きすぎる。
 そこまで考えたリリスの体から、一気に力が失われた。抵抗する気も、逃げる気も失せる。彼の前ではそのどれもが無意味なのだから。

「……――――まさか」

 辿り着いた答えを否定するように緩く首を振ったリリスの目の前で、闇の塊がぶわりと大きく広がった。

『お前の望みを叶えてやろう、黒き天使リリス。我らはもう同胞なのだ』

 闇を切り裂く鋭い悲鳴は誰にも気付かれる事なく、天界に広がる静かな闇に飲み込まれていった。

『この体など欲しければくれてやる。我の肉体は既に意味を持たぬ。存在の意味のない体など、我には要らぬ』





 びくんっと大きく震え、シェリルが弾かれたようにベッドから飛び起きた。空中に伸ばされた手が何を求めていたのかを知り、シェリルは頬を染めながらその手を引き戻す。
 夢の中で何度も名前を呼んでいた。そしてその相手が今ここにいない事に気付いていても、シェリルは淡い期待を抱きながら部屋の中をぐるりと見回してみる。やっぱり部屋には自分しかいない事を再確認して俯いたシェリルは、諦めたようにずるずるとベッドから抜け出して窓を全開にした。
 冬の冷たい風に翻弄されて、白い雪がちらついている。火照った体を一気に冷ましたシェリルは、目覚めた時に感じた淋しさを思い出して緩く首を左右に振った。

「……馬鹿みたい」

 ぽつりと呟いた言葉に、シェリルの胸が淋しく痛む。
 昨夜カインが来た事も、少し意地悪なキスを鼻と額にした事も……本当は嬉しかったのだ。そして目覚めた時、この前のようにカインが側にいてくれる事を心の奥で願い、それをかすかに認めていたシェリルは、いつもの冗談に自分だけが振り回されていた事を知り、どうしようもなく空しい気持ちになる。

「カインが……本気であんな事するなんてありえないもの」

 歪み始めた視界に慌てて顔を上げたシェリルの目の前に、雪と同じ白く軽い一枚の羽根がふわりと舞い落ちた。

「俺が何だって?」

 真上から聞こえた声にシェリルが驚くより早く、屋根の上から飛び降りたカインが背中の翼を大きく羽ばたかせながら窓の向こうに現れた。

「カインっ? いっ、いつからそこに?」

「いつから? ずっとここで寝てた」

 思ってもみなかったカインの登場と言葉に、シェリルが唖然と口を開く。

「どうして? 何も屋根の上で寝なくたって」

「お前と一緒じゃ俺の理性が持ちそうになかったからな。それでもいいってんなら、今度からはそうさせてもらうが?」

「誰が部屋に来いって言ったのよ! 天界に戻ればよかったじゃない」

 心とは正反対の事を口にしながら、シェリルは窓から身を乗り出して空の上を指差した。その手を掴んですいっと顔を寄せたカインが、いつもとは違う真剣な瞳をシェリルへと向ける。そのあまりのまっすぐさに、シェリルの胸がどくんと鳴った。

「お前……昨夜俺が何しに来たのかも分かってねーな?」

 カインは根っからの女好きである。今まで多くの女性と関係を持ち、いくつかの修羅場もさらりとかわして来たカインが、ひとりの女性に執着した事はただの一度もない。様々な誤解を解く事も、約束を破った時の言い訳も今まで一回もした事はなかったし、する必要もないと思っていた。
 そんな殴りたくなるような恋愛感を持っていたカインが、リリスの香りに気付いて下界へ帰っていったシェリルに、多少なりとも罪悪感を感じてわざわざ天界から降りてきたのである。カインにしてみればとても大きな変化だったが、シェリルはいまいちカインが何を言いたいのかが理解出来ず、首をかすかに傾げるだけだった。

「私を、からかいに来たんでしょ?」

 何となく予想していた答えに、カインがわざとらしく溜息をつく。

「……予約しに来たんだよ」

「予約って何を……」

「お前の唇だ」

 思わず叫びそうになったシェリルへもっと顔を近付けて、赤面させる事でシェリルの声を奪ったカインが、見惚れるくらいの笑みを浮かべて囁くように呟いた。

「何なら今でもいい」

 空いた片手でシェリルの顎を支え、静かに目を閉じかけたカインの背後で――ふいにもうひとつ別の羽音がした。かと思うと、カインのひとつに纏めた長い髪の束が無遠慮にぐいっと後ろへ引っ張られ、カインは無理矢理シェリルから引き剥がされた形となる。

「同情したくなるほどついてませんね、あなたは」

 雰囲気に流され目を閉じかけていたシェリルは、聞き覚えのある声にぱっと目を開くとほぼ同時に、カインの体を思い切り突き飛ばしてその場にしゃがみ込んだ。

「きゃあっ!」

「おや? 嫌われたようですよ、カイン」

「……お前がそうさせてるんだろ。ルーヴァ、頼むから俺の邪魔をしないでくれ」

「邪魔とは心外ですね。私はただ姉からの伝言を届けに来たんですよ?」

「セシリアから?」

 握っていたカインの髪から手を離して、ルーヴァがこくりと頷いてみせる。

「呪われた地へ通じるゲートが、何者かによって閉ざされようとしているみたいです。今は姉が何とかゲートを維持していますが、急いで向かった方がいいでしょうね」

「休む暇もないのかよ」

「ああ言う事する暇もないですからね。早くシェリルを連れて天界へ行って下さい」

 相変わらずの毒舌に「はいはい」と小さく頷いて、カインは窓の下で蹲ったまま二人の視界から完全に姿を隠しているシェリルへと声をかけた。

「そういう事だ。シェリル、天界へ戻るぞ」

 おずおずと窓の下から現れた手を掴んで、カインがシェリルの体を部屋から引きずり出した。

「神官長には私から説明しておきます。良いですか?」

 さっきの恥ずかしさが尾を引いているのか、シェリルはルーヴァをちらりと見ただけで数回頷くだけだった。
 エレナの元へ飛んで行ったルーヴァを見送ってから、背中の羽を羽ばたかせたカインがシェリルの体を慣れた手つきで抱え直す。驚異的な速さで鳴り続ける鼓動を聞かれまいと、カインと自分の間にシェリルが腕を割り込ませた瞬間、二人の体が風に取り巻かれた。
 冷たい風も、雪の粒も、熱くなったシェリルの頬を覚ます事は出来なかった。

 ゲートを閉ざそうとしている者について何も考える余裕がなかったシェリルは、呪われた地で二人を待ち構える悲しい運命を知る由もなく、今はただ自分の中に芽生えた感情に激しく動揺し、胸の鼓動を高鳴らせるだけだった。
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