飛べない天使

紫月音湖(旧HN/月音)

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第3章 涙のかけら

キスの予約・1

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「カイン。……カイン」

 耳元で囁くように名前を呼ばれ、微睡む意識のままカインは声のする方へ手を伸ばした。曖昧な視界にぼやけた青い影が映っている。その影を引き寄せようとした手が、ぴしゃりっと軽く叩き返された。

「男同士に興味はありません。それに、私はシェリルじゃありませんよ」

 溜息と共に零れた声が、カインの意識を一気に現実へと引き戻す。テーブルに突っ伏していた上半身を勢いよく起こすと、目の前に呆れた顔で自分を見下ろすルーヴァが立っていた。

「思ったより随分と疲れていたみたいですね。あなたが他人の家で無防備に眠るのは珍しい」

 ルーヴァの言葉を聞き流しながら、カインが椅子の背もたれに思いっきり体を傾けて大きく伸びをした。気だるげな欠伸をすると、ふわりと何か花のような甘すぎない匂いが鼻腔をくすぐった。

「治癒魔法なんて慣れない事したからな。今日はもう帰って寝るか」

 椅子から立ち上がって首を回してみると、思いのほか強張っていたのかごきっと鈍い音がする。

「俺はどれくらい寝てた?」

「そうですね……七時間くらいでしょうか。テーブルに突っ伏していたので、体が変に痛いでしょう?」

 どうりで肩や腕が変に凝っている訳だ。分かっているならさっさと起こすか、ベッドに移動してくれればいいものを……と、カインはどこか不満げな表情を浮かべてルーヴァを見つめた。けれど敢えて文句は言わない。言っても無駄だと言う事を、カインは長年の付き合いから嫌と言うほど学んでいた。

「七時間ってまた、随分寝たもんだな」

「レダルの花の香りは安眠に良く効くようですね」

 言いながら何かメモを取っているルーヴァを見て、カインが何かを察知したようにがっくりと肩を落とした。部屋の中を見回してみると、窓辺に置かれた白い香炉に明かりが灯っているのが見える。さっきから薄く香る花のような匂いは、どうやらこの香炉から漂っているらしい。そしてそれはおそらく、レダルという名の花から抽出したものなのだろう。

「ルーヴァ。お前、また俺を勝手に実験台にしたな?」

「人聞きの悪い事を言わないで下さい。疲れているあなたを労っての事ですよ。少し効き過ぎるようなので、量を調整しないといけませんが……でもおかげで疲労感はほぼ解消されたと思いますよ?」

 言われてみれば、確かに感じていた疲れはもうない。だからといって素直に感謝の気持ちを述べる気にはならないのだが。

「どうかしました?」

「どうかしてるんだろうが、お前相手に言っても時間の無駄だしな。もう帰って寝る」

「何だか酷い言い草ですね」

「お前がそれを言うか?」

 扉を開けると、外はもうすっかり暗くなっている。冷たい外気にぶるっと体を震わせながら、カインは明かりの付いていない自宅を想像して、ふっと何か理解しがたい気持ちを覚えた。いつもと同じ変わらない日常のはずなのに、なぜか暗い部屋を想像したカインの脳裏にシェリルの姿が浮かび上がる。

「あ、そうそう。シェリルは無事に送り届けてきたので安心して下さいね」

 想像していたところに名前を出され、どきりとして思わず足を止めてしまう。その不自然さを悟られないように、カインは深く息を吸って気持ちを落ち着けると、頭の後ろを掻きながら面倒くさそうにルーヴァを振り返った。

「何でいちいち俺に報告するんだよ」

「特に意味はありませんよ。あなたはシェリルの守護天使な訳ですし、一応報告しておこうと思っただけです。……あ、それからシェリルに会いに行くのは構いませんけど、アルディナ神殿の神官長は私たちの姿を見る事が出来るのであまり変な事は出来ませんからね」

「変って……お前」

 言い返そうとしたカインの前で、ルーヴァがにっこり笑う。それに反応するように扉が魔法で勢いよく閉じられ、カインは危うく顔面を扉にぶつけるところだった。窓の方へ目を向けると魔法で扉を閉めたルーヴァが、何事もなかったような笑顔を浮かべてひらひらと手を振っている。

「……あいつ、絶対俺を馬鹿にしてるな」

 ぽつりと呟きながら歩き出したカインの耳に。

「シェリルの所へ行くのなら、あと一本くらいは煙草を吸った方がよさそうですよ」

 と言うルーヴァの声が届き、カインの背中を後押しする。その言葉に思わず転びそうになったカインだったが、後ろを振り向き言い返す事を止め、少し重い足取りで闇に沈んだ街中へと歩いて行った。
 その手には煙草が一本、握られていた。





 月の宮殿の屋上に、太く白い線で描かれた大きな魔法陣。その中央に鉛色の鈍い輝きを放つ水晶球が浮かんでいた。水晶球と魔法陣の周りには透明で硝子に似た結界が張り巡らされ、時々滑るように光を反射させている。

「闇の力が強まってきてる?」

 セシリアの目線より少し上に浮かぶ水晶球は、天界周辺の闇の力を吸収しその色を鉛色に変えただけでなく、細い亀裂を幾つも走らせていた。

「こんな事、初めてだわ」

 唇から零れた言葉にセシリア自身が不安を覚える。
 闇を吸収し、今にも割れてしまいそうな水晶球へそっと手を伸ばしたセシリアのその指先で、鉛色の水晶球が新たに数本の亀裂を走らせた。びきびきっと響く鈍い音は、セシリアの指先にまでその震動を伝えてくる。

「一体何が起ころうとしているの?」

 小さな声は闇に溶け、答えはどこからも返っては来ない。
 伸ばしていた手を戻して瑠璃色の杖を握りしめたセシリアは、深く吸った息を吐き出しながら呪文を唱え始めた。流れる空気に絡み合った呪文は床に描かれていた魔法陣を呼び起こし、屋上全体が白く神聖な光で満たされる。その中で亀裂を走らせ鉛色に輝いていた水晶球が、ゆっくりと元の姿に戻り始めた。戻る速度は非常に遅かったが、何とか結界を修復出来そうだと安心したセシリアは、呪文を唱え続けながら心の奥で潔く徹夜を覚悟した。
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