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第2章 夢のかけら
癒しの力・3
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鮮血が散った日の事を覚えている。
『この子だけはっ!』
『その子供を殺しに来たと言うのに、それでは意味がない』
冷たいだけの声。
震えの止まらない体をきつく抱きしめてくれていたのは、母だった。
その肩越しに見えた黒い影がゆらりと動いた瞬間――視界は毒々しい鮮血に染まる。
『シェリル! シェリルっ、逃げなさい! 早くっ!』
ゆらりと影が動く。
――叫んだのは……シェリルだった。
「駄目――っ!」
シェリルの叫び声に共鳴して、三日月の首飾りが眩いほどの光を発した。それとほぼ同時にカインの背中めがけて振り下ろされていた触手が光に拒まれ、勢いよく後ろへ弾き飛ばされる。その衝撃だけで粉々に砕け散った触手が、気味悪くのた打ち回りながら崩れ落ちた。
『グワアアッ!』
思ってもみない攻撃をくらい触手の一本を失った魔物が、空間を振るわせるほどの大声を上げて絶叫した。
何が起こったのかも分からず、砕け散った触手をただ呆然と見つめていたシェリルとは違い、その一瞬の隙を逃さなかったカインがそこから素早く上昇した。
「シェリル、お前一体何やった?」
「な、何もしてないわ。私にそんな力があるわけないじゃない。カインがやったんでしょ?」
「俺はお前を守るだけで精一杯だった。あんな攻撃する暇も……」
言いながらちらりと下の方へ目を向けたカインが、物凄い速さで後を追ってきた魔物の触手を見つけるなり慌てて左へ身をかわす。
「しつこい奴だな」
触手の一本を無残にも粉々に砕かれたと言うのに、どうあっても自分たちを逃がそうとはしない魔物にうんざりして、カインが右手の剣を強く握り直す。その真下で、魔物の体中から現れた何本もの触手がその形を鋭い槍へと変形させ、上空のカインめがけて伸び上がった。
「お前ごときに二度もやられるかよ」
ごうっと溢れ出したカインの気が右手の剣に集中し、辺りに激しい風の渦を発生させる。その風を絡め取って大きく振り上げられたカインの剣と、勢いよく伸び上がった幾つもの触手がぶつかり合おうとしたその瞬間。
カインの目の前で勢いを増していた触手が何の前触れもなく突然ぴたりと動きを止め、ぴしぴしと音を立てながら化石のようにその体を石へと変え始めた。
「何っ?」
既に攻撃態勢に入っていたカインは勢いを止める事が出来ず、振りかざしていた剣を石と化した魔物へ力いっぱい振り下ろした。巨石のような魔物の体は縦に真っ直ぐ切り裂かれ、そこから小さな亀裂があっという間に全体に広がっていく。そして瞬きする暇もなく、魔物の体が一気に崩れ落ちた。
「どうなってんだ?」
崩れ落ちていく魔物を呆然と見ていたカインの視界の端に、蹲ったままぴくりとも動かないロヴァルが映る。魔物の姿はどこにもなかったが、鮮血に濡れた背中はぱっくりと割れたまま床に濃い血溜まりを作っていた。
「ロヴァルっ!」
自分を呼ぶ声を遠くの方に聞きながら、ロヴァルがゆっくりと上を向いた。かと思うとそのままぐらりと後ろに傾き、仰向けに倒れこむ。その胸に柄まで深々と突き立てられた短剣を目にして、シェリルが短い悲鳴を上げた。
「まさかロヴァル……自分でっ」
「あの馬鹿!」
ロヴァルの元まで急降下したカインは床に着くなり素早くロヴァルを抱き起こして、その胸に刺さった短剣を荒々しく引き抜いた。ごぽりと音を立てて吹き出した鮮血が、刃先に吸い付くように後を追う。
「……ぐっ!」
引き抜いた短剣を放り投げ、その手を直接胸の傷に当てたカインの前で、ロヴァルが激しく咳き込みながら吐血した。
「治癒魔法なんて専門外の事させやがって、どういうつもりだっ」
怒鳴りながらもカインはロヴァルの傷口にあてた手に意識を集中させて、必死で治癒魔法の呪文を唱え始める。しかし戦い専門の天使が行える治癒魔法の効力はせいぜい血を止める事ぐらいで、完璧な治療の効果は望めない。ましてや止血するだけでも、普段の倍以上の魔力と時間を要するのだ。ロヴァルに残された時間はカインの魔法が完成するほど残されてはいなかった。
割れた背中と胸の傷口から流れ出す大量の血は、カインの魔法を受けても止まる術を知らない。床の藍晶石は見る見るうちに真紅へと色を変えていく。
ロヴァルは自分を殺す事で、背中に植え付けられていた呪いを断ったのだ。
「ロヴァル、どうしてっ」
ぐったりとしたロヴァルの左手を握り締めたシェリルが、涙を零しながら小さく首を左右に振った。左手の甲に落ちた熱い雫の感触に、ロヴァルがかすかに眉を動かしてゆっくりと目を開く。
「……あいつの、計画通りになるのが……嫌だったんだ。別にお前らを、助けた訳じゃない」
荒々しい呼吸と一緒に言葉を紡いだロヴァルが、シェリルの手の中で左手の拳をぎゅっと強く握りしめた。
「……悪い、セレスティア。本当は死ぬ事で……お前を失った悲しみから、逃げたかったのかもしれない」
そう言って虚ろに天井を見上げたロヴァルが、静かにその目を閉じる。握りしめた手が急速に冷たくなっていくのを感じて、シェリルが涙に濡れた瞳を更に大きく見開いた。
「ロヴァルっ! ロヴァル、駄目よ! セレスティアの思いを無駄にしないでっ」
溢れ出す鮮血を許す傷口に、カインの治癒魔法の効果は一向にその気配を見せない。こうしている間にもロヴァルの死は確実に近付いている。
(どうして……どうして、こんな事になるの)
闇が狙っているのは、落し子であるシェリルだ。闇の従者ディランも、三つのかけらを集めるシェリルとかけら自体を消し去る為、このカザールへ赴いたはず。
(私のせいで関係のない人が死ぬのは嫌。もう人が死ぬところを見るのはたくさんっ!)
白い頬を伝って零れた涙が、シェリルの胸元で揺れる紫銀の三日月に落ちて砕け散った。その瞬間、ロヴァルの手を握りしめていたシェリルの両手が優しい光に包み込まれ、その白い光はシェリルの手を通じてロヴァルの体へさらさらと流れ始めた。
目を刺激する事のない淡く優しい光はロヴァルの体を白く包みながら、やがて何かに引き寄せられるかのように背中と胸の傷口へ集中する。その光は、魔物の触手を弾き飛ばしたものとよく似た気配を放っていた。
「……おい、シェリル」
突然現れた光に目を丸くさせたカインに顔を向けて、シェリルも驚いた表情のまま首を横に振る。
「私にも何が何だか」
そう言って再びロヴァルへ視線を落としたその先で、優しい光に触れた傷が跡形もなくすうっと消えていった。荒く乱れていた呼吸も少しずつ正常に戻り、青かった頬にも赤みが増してくる。
何が起こったのか分からないが、とりあえずロヴァルを死の淵から呼び戻す事が出来て、シェリルがほっと息を吐いた。
「良かった。これで何とか、大丈夫よね?」
確認するようにカインを見つめたシェリルの下で、ロヴァルが小さく体を動かして瞼をゆっくりと開いた。
ぼんやりとした視界に金色の影と白い翼が揺らめいて映る。何度か瞬きをしながらはっきりと視界を確保したロヴァルは、体中を襲っていた激痛がすっかり消えているのを感じて自分が助かった事を知った。
「ロヴァル、大丈夫? 私たちが分かる?」
指先を動かし体の自由を確かめて、ロヴァルはゆっくりと全身に力を入れてみた。傷を負っていた背中と胸はまだ少し痺れてはいるものの、そこにあの耐え難い激痛はなく、ロヴァルは瀕死の重傷を負っていたとは思えないほど簡単に起き上がった。
体中を満たす優しい光はロヴァルの体と心までもを包み込み、そこに刻まれた深い傷跡を温かな光で癒してくれている。
「これは……」
あの傷で助かるとは思わなかった。
死を覚悟していたロヴァルは自分が助かった事に喜ぶよりも、驚きの表情を浮かべてシェリルとカインを交互に見つめた。
「シェリルがいなけりゃ、お前は死んでた。……ロヴァル。死んで、セレスティアに会いに行こうとするな」
怒ったような瞳を向けて冷たく言い放ったカインの言葉に、ロヴァルの胸がずきんと痛む。
カインの言っている事は遠からず当っている。死ぬ事でセレスティアを失った悲しみから逃げようとしていた。死ねばセレスティアに会えると思っていた。あの時のロヴァルは確かに死を望んでいたのだ。
『セレスティアの思いを無駄にしないでっ!』
消えていこうとした意識の中で、ロヴァルに届いたシェリルの言葉。
自ら命を絶つ事を、セレスティアが許すはずもない。
自分の取った行動が愚かだったと言う事を今更ながらに知り、ロヴァルは呆れたようにふっと笑みを零した。
「……どうかしてた」
「当たり前だ。弱音吐いて逃げたお前を、セレスティアが喜んで迎えるわけねーだろ」
「ちょっと、カインっ! 言い過ぎ」
カインの暴言にぎょっとして目を大きく見開いたシェリルの前で、ロヴァルがやっと小さな声をあげて笑った。
「何だかお前に言われたくないな」
「言い返す元気があるならさっさと起きろ。船に戻るぞ」
「そうだな。……あいつら、俺のこの姿を見たらびっくりするだろうな」
そう言って血にぐっしょりと濡れた自分を見たロヴァルが、突然シェリルの目の前で何の遠慮もなくシャツを脱ぎ捨てた。
「きゃあっ!」
シャツの下から現れた逞しい褐色の肌を間近で見てしまったシェリルが、慌てふためきながらそこから突風のように後ずさりする。その様子を面白そうに見ているカインの前で、ロヴァルは何が起こったのか分からずにいつまでも首を傾げていた。
夢のかけらを手に入れたシェリルたちは、洞窟から外に出る途中で多くの人々に出会った。それは藍晶石に閉じ込められていた人たちで、夢のかけらが無事に落し子へ受け継がれ藍晶石の封印が解かれた為、自由の身となったのだ。そしてこの洞窟へ足を踏み入れた時代へと、自動的に送り返されていく。
藍晶石の中に人を閉じ込めた女神の力が人を傷付けるものではない事を知り、シェリルはほっと息を吐いて純粋な結晶へと戻った藍晶石を見回してみた。
埋め込まれた人が元いた時の流れに戻れるように魔法をかけていた女神。その念入りな計画に、シェリルは少しの不安を覚える。
天地大戦で力を使い果たし眠りにつこうとしていた女神は、いつの日か目覚めるその時を待って三つのかけらに魔法をかけていた。それはつまり、落し子がかけらを集めに来る事を確信していた事になる。月の宮殿の壁に刻まれた言葉にも、その確信がありありと見て取れた。
『闇を照らす光となれ』
守護獣の言葉。その声音は闇を憎むのではなく、むしろ深い悲しみと……そして愛に満ちていたような気がする。
「……闇を、救えと言うの?」
唇から零れた言葉を否定するように、シェリルは強く頭を振る。
(アルディナ様が目覚めれば、すべてが分かるわ)
心の奥で自分に言い聞かせるように言って頭を上げたシェリルの瞳に、青い海に浮かぶ海賊船ブルーファングが映った。
「ロヴァル、いろいろ迷惑かけてごめんなさい」
少し冷たい海風を気持ちよさそうに受けているロヴァルを見つめながら、シェリルが謝罪の言葉を口にした。
セレスティアの眠りを妨げ、その命を弄ばれた。ロヴァルは呪いをかけられ、危険な目にあわせてしまった。全部自分たちのせいだと表情を暗くするシェリルに、ロヴァルは気にするなと言うように強く頭を横に振る。
「多分、これでよかったんだ。あいつも本当は望んでいたんだと思う。……時の流れに戻る事を」
落ち着いた声音でそう言って青い空を見上げたロヴァルは、そこに思い浮かべたセレスティアの姿を瞳に焼き付けるようにきつく瞼を閉じた。
失ってしまったものは戻らない。
愛した乙女こそ失ってしまったが、ロヴァルにはまだ自分を信じてついて来てくれる仲間がいる。前に進む事をセレスティアが望むのなら、悲しみを乗り越えて辛い現実と向き合おう。セレスティアの死と思いを無駄にしない為に。
「そろそろ帰るか、シェリル」
頭上から突然降ってきた声に驚いて上を見上げたシェリルは、そこに背中の翼を羽ばたかせて帰る準備万端のカインを見て唖然と口を開いた。
「もう帰るの?」
「当たり前だ。俺たちは観光しに来たんじゃないんだからな。さっさとかけらを集めてこんな面倒臭い事、終わりにしようぜ」
さらりと返された言葉にシェリルの胸がずきんと痛んだ。契約を早く消滅させたいと言っていた事を思い出して、シェリルは少し寂しそうな瞳をカインへ向ける。
「何だ? まだ何かやり残した事でもあるのか?」
「……ううん、何も」
理解し難い感情を深呼吸で抑えながら、シェリルが押し殺した声で短く返事をした。そんなシェリルの様子に気付きもしないカインは、遠慮がちに伸ばされたシェリルの手を掴んで更に高い所へと上昇した。風に流れる紫銀の髪に頬をくすぐられ、かすかに香るカインの匂いにシェリルの胸がどくんと鳴る。
「こっちは急ぎなんでね。悪いな、ロヴァル」
「ああ、気にするな。何やってんのか知らねーが、気をつけろよ」
「ロヴァルも元気で」
シェリルの言葉を合図に、カインが大きく翼を羽ばたかせた。そしてロヴァルの次の言葉を聞く間もなく、あっという間に青空に白い風の軌跡を残しながら飛んで行く。
「あいつら、気付いてねーな」
ぽつりと呟いて空を見上げたロヴァルの目に、二人の姿はもう映らない。彼らが去った後に残った風の軌跡ですら、二人の存在を覆い隠すように青空の中へ溶け込んで消えていく。
「早く気付けよ。失ってからじゃ遅いんだからな」
『この子だけはっ!』
『その子供を殺しに来たと言うのに、それでは意味がない』
冷たいだけの声。
震えの止まらない体をきつく抱きしめてくれていたのは、母だった。
その肩越しに見えた黒い影がゆらりと動いた瞬間――視界は毒々しい鮮血に染まる。
『シェリル! シェリルっ、逃げなさい! 早くっ!』
ゆらりと影が動く。
――叫んだのは……シェリルだった。
「駄目――っ!」
シェリルの叫び声に共鳴して、三日月の首飾りが眩いほどの光を発した。それとほぼ同時にカインの背中めがけて振り下ろされていた触手が光に拒まれ、勢いよく後ろへ弾き飛ばされる。その衝撃だけで粉々に砕け散った触手が、気味悪くのた打ち回りながら崩れ落ちた。
『グワアアッ!』
思ってもみない攻撃をくらい触手の一本を失った魔物が、空間を振るわせるほどの大声を上げて絶叫した。
何が起こったのかも分からず、砕け散った触手をただ呆然と見つめていたシェリルとは違い、その一瞬の隙を逃さなかったカインがそこから素早く上昇した。
「シェリル、お前一体何やった?」
「な、何もしてないわ。私にそんな力があるわけないじゃない。カインがやったんでしょ?」
「俺はお前を守るだけで精一杯だった。あんな攻撃する暇も……」
言いながらちらりと下の方へ目を向けたカインが、物凄い速さで後を追ってきた魔物の触手を見つけるなり慌てて左へ身をかわす。
「しつこい奴だな」
触手の一本を無残にも粉々に砕かれたと言うのに、どうあっても自分たちを逃がそうとはしない魔物にうんざりして、カインが右手の剣を強く握り直す。その真下で、魔物の体中から現れた何本もの触手がその形を鋭い槍へと変形させ、上空のカインめがけて伸び上がった。
「お前ごときに二度もやられるかよ」
ごうっと溢れ出したカインの気が右手の剣に集中し、辺りに激しい風の渦を発生させる。その風を絡め取って大きく振り上げられたカインの剣と、勢いよく伸び上がった幾つもの触手がぶつかり合おうとしたその瞬間。
カインの目の前で勢いを増していた触手が何の前触れもなく突然ぴたりと動きを止め、ぴしぴしと音を立てながら化石のようにその体を石へと変え始めた。
「何っ?」
既に攻撃態勢に入っていたカインは勢いを止める事が出来ず、振りかざしていた剣を石と化した魔物へ力いっぱい振り下ろした。巨石のような魔物の体は縦に真っ直ぐ切り裂かれ、そこから小さな亀裂があっという間に全体に広がっていく。そして瞬きする暇もなく、魔物の体が一気に崩れ落ちた。
「どうなってんだ?」
崩れ落ちていく魔物を呆然と見ていたカインの視界の端に、蹲ったままぴくりとも動かないロヴァルが映る。魔物の姿はどこにもなかったが、鮮血に濡れた背中はぱっくりと割れたまま床に濃い血溜まりを作っていた。
「ロヴァルっ!」
自分を呼ぶ声を遠くの方に聞きながら、ロヴァルがゆっくりと上を向いた。かと思うとそのままぐらりと後ろに傾き、仰向けに倒れこむ。その胸に柄まで深々と突き立てられた短剣を目にして、シェリルが短い悲鳴を上げた。
「まさかロヴァル……自分でっ」
「あの馬鹿!」
ロヴァルの元まで急降下したカインは床に着くなり素早くロヴァルを抱き起こして、その胸に刺さった短剣を荒々しく引き抜いた。ごぽりと音を立てて吹き出した鮮血が、刃先に吸い付くように後を追う。
「……ぐっ!」
引き抜いた短剣を放り投げ、その手を直接胸の傷に当てたカインの前で、ロヴァルが激しく咳き込みながら吐血した。
「治癒魔法なんて専門外の事させやがって、どういうつもりだっ」
怒鳴りながらもカインはロヴァルの傷口にあてた手に意識を集中させて、必死で治癒魔法の呪文を唱え始める。しかし戦い専門の天使が行える治癒魔法の効力はせいぜい血を止める事ぐらいで、完璧な治療の効果は望めない。ましてや止血するだけでも、普段の倍以上の魔力と時間を要するのだ。ロヴァルに残された時間はカインの魔法が完成するほど残されてはいなかった。
割れた背中と胸の傷口から流れ出す大量の血は、カインの魔法を受けても止まる術を知らない。床の藍晶石は見る見るうちに真紅へと色を変えていく。
ロヴァルは自分を殺す事で、背中に植え付けられていた呪いを断ったのだ。
「ロヴァル、どうしてっ」
ぐったりとしたロヴァルの左手を握り締めたシェリルが、涙を零しながら小さく首を左右に振った。左手の甲に落ちた熱い雫の感触に、ロヴァルがかすかに眉を動かしてゆっくりと目を開く。
「……あいつの、計画通りになるのが……嫌だったんだ。別にお前らを、助けた訳じゃない」
荒々しい呼吸と一緒に言葉を紡いだロヴァルが、シェリルの手の中で左手の拳をぎゅっと強く握りしめた。
「……悪い、セレスティア。本当は死ぬ事で……お前を失った悲しみから、逃げたかったのかもしれない」
そう言って虚ろに天井を見上げたロヴァルが、静かにその目を閉じる。握りしめた手が急速に冷たくなっていくのを感じて、シェリルが涙に濡れた瞳を更に大きく見開いた。
「ロヴァルっ! ロヴァル、駄目よ! セレスティアの思いを無駄にしないでっ」
溢れ出す鮮血を許す傷口に、カインの治癒魔法の効果は一向にその気配を見せない。こうしている間にもロヴァルの死は確実に近付いている。
(どうして……どうして、こんな事になるの)
闇が狙っているのは、落し子であるシェリルだ。闇の従者ディランも、三つのかけらを集めるシェリルとかけら自体を消し去る為、このカザールへ赴いたはず。
(私のせいで関係のない人が死ぬのは嫌。もう人が死ぬところを見るのはたくさんっ!)
白い頬を伝って零れた涙が、シェリルの胸元で揺れる紫銀の三日月に落ちて砕け散った。その瞬間、ロヴァルの手を握りしめていたシェリルの両手が優しい光に包み込まれ、その白い光はシェリルの手を通じてロヴァルの体へさらさらと流れ始めた。
目を刺激する事のない淡く優しい光はロヴァルの体を白く包みながら、やがて何かに引き寄せられるかのように背中と胸の傷口へ集中する。その光は、魔物の触手を弾き飛ばしたものとよく似た気配を放っていた。
「……おい、シェリル」
突然現れた光に目を丸くさせたカインに顔を向けて、シェリルも驚いた表情のまま首を横に振る。
「私にも何が何だか」
そう言って再びロヴァルへ視線を落としたその先で、優しい光に触れた傷が跡形もなくすうっと消えていった。荒く乱れていた呼吸も少しずつ正常に戻り、青かった頬にも赤みが増してくる。
何が起こったのか分からないが、とりあえずロヴァルを死の淵から呼び戻す事が出来て、シェリルがほっと息を吐いた。
「良かった。これで何とか、大丈夫よね?」
確認するようにカインを見つめたシェリルの下で、ロヴァルが小さく体を動かして瞼をゆっくりと開いた。
ぼんやりとした視界に金色の影と白い翼が揺らめいて映る。何度か瞬きをしながらはっきりと視界を確保したロヴァルは、体中を襲っていた激痛がすっかり消えているのを感じて自分が助かった事を知った。
「ロヴァル、大丈夫? 私たちが分かる?」
指先を動かし体の自由を確かめて、ロヴァルはゆっくりと全身に力を入れてみた。傷を負っていた背中と胸はまだ少し痺れてはいるものの、そこにあの耐え難い激痛はなく、ロヴァルは瀕死の重傷を負っていたとは思えないほど簡単に起き上がった。
体中を満たす優しい光はロヴァルの体と心までもを包み込み、そこに刻まれた深い傷跡を温かな光で癒してくれている。
「これは……」
あの傷で助かるとは思わなかった。
死を覚悟していたロヴァルは自分が助かった事に喜ぶよりも、驚きの表情を浮かべてシェリルとカインを交互に見つめた。
「シェリルがいなけりゃ、お前は死んでた。……ロヴァル。死んで、セレスティアに会いに行こうとするな」
怒ったような瞳を向けて冷たく言い放ったカインの言葉に、ロヴァルの胸がずきんと痛む。
カインの言っている事は遠からず当っている。死ぬ事でセレスティアを失った悲しみから逃げようとしていた。死ねばセレスティアに会えると思っていた。あの時のロヴァルは確かに死を望んでいたのだ。
『セレスティアの思いを無駄にしないでっ!』
消えていこうとした意識の中で、ロヴァルに届いたシェリルの言葉。
自ら命を絶つ事を、セレスティアが許すはずもない。
自分の取った行動が愚かだったと言う事を今更ながらに知り、ロヴァルは呆れたようにふっと笑みを零した。
「……どうかしてた」
「当たり前だ。弱音吐いて逃げたお前を、セレスティアが喜んで迎えるわけねーだろ」
「ちょっと、カインっ! 言い過ぎ」
カインの暴言にぎょっとして目を大きく見開いたシェリルの前で、ロヴァルがやっと小さな声をあげて笑った。
「何だかお前に言われたくないな」
「言い返す元気があるならさっさと起きろ。船に戻るぞ」
「そうだな。……あいつら、俺のこの姿を見たらびっくりするだろうな」
そう言って血にぐっしょりと濡れた自分を見たロヴァルが、突然シェリルの目の前で何の遠慮もなくシャツを脱ぎ捨てた。
「きゃあっ!」
シャツの下から現れた逞しい褐色の肌を間近で見てしまったシェリルが、慌てふためきながらそこから突風のように後ずさりする。その様子を面白そうに見ているカインの前で、ロヴァルは何が起こったのか分からずにいつまでも首を傾げていた。
夢のかけらを手に入れたシェリルたちは、洞窟から外に出る途中で多くの人々に出会った。それは藍晶石に閉じ込められていた人たちで、夢のかけらが無事に落し子へ受け継がれ藍晶石の封印が解かれた為、自由の身となったのだ。そしてこの洞窟へ足を踏み入れた時代へと、自動的に送り返されていく。
藍晶石の中に人を閉じ込めた女神の力が人を傷付けるものではない事を知り、シェリルはほっと息を吐いて純粋な結晶へと戻った藍晶石を見回してみた。
埋め込まれた人が元いた時の流れに戻れるように魔法をかけていた女神。その念入りな計画に、シェリルは少しの不安を覚える。
天地大戦で力を使い果たし眠りにつこうとしていた女神は、いつの日か目覚めるその時を待って三つのかけらに魔法をかけていた。それはつまり、落し子がかけらを集めに来る事を確信していた事になる。月の宮殿の壁に刻まれた言葉にも、その確信がありありと見て取れた。
『闇を照らす光となれ』
守護獣の言葉。その声音は闇を憎むのではなく、むしろ深い悲しみと……そして愛に満ちていたような気がする。
「……闇を、救えと言うの?」
唇から零れた言葉を否定するように、シェリルは強く頭を振る。
(アルディナ様が目覚めれば、すべてが分かるわ)
心の奥で自分に言い聞かせるように言って頭を上げたシェリルの瞳に、青い海に浮かぶ海賊船ブルーファングが映った。
「ロヴァル、いろいろ迷惑かけてごめんなさい」
少し冷たい海風を気持ちよさそうに受けているロヴァルを見つめながら、シェリルが謝罪の言葉を口にした。
セレスティアの眠りを妨げ、その命を弄ばれた。ロヴァルは呪いをかけられ、危険な目にあわせてしまった。全部自分たちのせいだと表情を暗くするシェリルに、ロヴァルは気にするなと言うように強く頭を横に振る。
「多分、これでよかったんだ。あいつも本当は望んでいたんだと思う。……時の流れに戻る事を」
落ち着いた声音でそう言って青い空を見上げたロヴァルは、そこに思い浮かべたセレスティアの姿を瞳に焼き付けるようにきつく瞼を閉じた。
失ってしまったものは戻らない。
愛した乙女こそ失ってしまったが、ロヴァルにはまだ自分を信じてついて来てくれる仲間がいる。前に進む事をセレスティアが望むのなら、悲しみを乗り越えて辛い現実と向き合おう。セレスティアの死と思いを無駄にしない為に。
「そろそろ帰るか、シェリル」
頭上から突然降ってきた声に驚いて上を見上げたシェリルは、そこに背中の翼を羽ばたかせて帰る準備万端のカインを見て唖然と口を開いた。
「もう帰るの?」
「当たり前だ。俺たちは観光しに来たんじゃないんだからな。さっさとかけらを集めてこんな面倒臭い事、終わりにしようぜ」
さらりと返された言葉にシェリルの胸がずきんと痛んだ。契約を早く消滅させたいと言っていた事を思い出して、シェリルは少し寂しそうな瞳をカインへ向ける。
「何だ? まだ何かやり残した事でもあるのか?」
「……ううん、何も」
理解し難い感情を深呼吸で抑えながら、シェリルが押し殺した声で短く返事をした。そんなシェリルの様子に気付きもしないカインは、遠慮がちに伸ばされたシェリルの手を掴んで更に高い所へと上昇した。風に流れる紫銀の髪に頬をくすぐられ、かすかに香るカインの匂いにシェリルの胸がどくんと鳴る。
「こっちは急ぎなんでね。悪いな、ロヴァル」
「ああ、気にするな。何やってんのか知らねーが、気をつけろよ」
「ロヴァルも元気で」
シェリルの言葉を合図に、カインが大きく翼を羽ばたかせた。そしてロヴァルの次の言葉を聞く間もなく、あっという間に青空に白い風の軌跡を残しながら飛んで行く。
「あいつら、気付いてねーな」
ぽつりと呟いて空を見上げたロヴァルの目に、二人の姿はもう映らない。彼らが去った後に残った風の軌跡ですら、二人の存在を覆い隠すように青空の中へ溶け込んで消えていく。
「早く気付けよ。失ってからじゃ遅いんだからな」
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その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
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