13 / 114
第2章 夢のかけら
甘い誘惑・1
しおりを挟む
カザールは大陸から遠く離れた、海の真ん中に浮かぶ大きな島国である。
大陸から遠く離れている為独自の文化を築き上げ、今では立派なひとつの国となったカザールにも女神アルディナを奉る教会があった。
島を取り囲む海には魔物の巣窟があり、カザールへ向かう海路は常に危険と隣り合わせだ。今まで何隻もの船が魔物の襲撃に遭い、深い海の底に沈んでいる。
大陸とカザールを繋ぐ海路は不安定で、半ば孤立した島となったこの国の教会には、現在ひとりの神父と神官がいた。
「セレスティア、皆が待っていますよ」
「はい、ウォアズ神父様」
優しい声で語りかけた神父に少し緊張した顔を向けたセレスティアは、椅子から立ち上がると儚い足取りで部屋を後にした。長い廊下の窓はどれも開け放たれていて、そこから流れ込んでくる風はかすかな潮の香りを届けてくる。街の一番見晴らしのいい丘の上に建った教会の窓からは、街の向こうに広がる青い海が遠くまで見渡せた。
ふと足を止めたセレスティアは窓から海を見つめて、少し前に聖地へ赴いたロヴァルの事を思い浮かべた。魔物たちの潜む海を渡り、誰ひとりとして帰ってくる事のなかった聖地へ行った愛しい恋人。彼が無事に帰ってくる事を願いながら、セレスティアは反対に彼が成し得ようとする事の失敗を望んでいた。
ロヴァルが聖地から戻ると言う事は、その手に天使の涙と呼ばれる藍晶石を持ち帰ると言う事なのだ。そしてその石がこの島へ持ち込まれる事を、セレスティアは望んではいなかった。
「ロヴァル……」
乙女の切ない願いは口から零れた音と共に風に攫われ、海の彼方へと飛んでいった。
海賊船ブルーファングの甲板に置かれた酒樽の上には、あらゆる酒と食べ物が所狭しと並べられていた。豪快な笑い声が飛び交い、少し煩いくらいに海賊たちが酒を飲んでは騒ぎ立てている。
そんな海賊たちから少し離れてひとり優雅にワインを飲んでいたディランの横に、ふて腐れた顔をしたロヴァルがどっかりと腰を下ろした。片手に持ったビールをぐいっと飲み干していくロヴァルを見ようともせず、ディランは顔を上げて今はもうすっかり日の落ちた夜空を見つめながら小さく息を吐いた。
「主役がこんな所にいていいのかい? 皆は君の成功を祝ってるんだよ。藍晶石を手に入れた君がやっとセレスティアを迎えられるってね」
「そんな事よりディラン! 何であいつらに何も聞かなかったんだよ!」
ロヴァルの言葉を聞いてふっと笑みを零したディランは、星空から視線を戻してグラスに残ったワインを一気に飲み干した。
「聞かなかったんじゃない。……聞けなかったんだ」
「どういう意味だ?」
「言葉通りの意味だよ」
空になったグラスをくるくる回して遊びながら、ディランはカインの事を思い出す。
シェリルの存在について尋ねたディランに向けられた鋭い瞳。その奥に心まで凍らせてしまうような冷たい光を見つけたディランは、それ以上カインを問い詰める事が出来なかった。あの光に触れてしまえばただでは済まないだろうと心の奥で警報がなり始め、ディランは出直すしかなかったのだ。
「……あの男、甘く見ない方がいい」
珍しく慎重な言葉にロヴァルも何かを感じたらしく、素直に頷いて見せた。
「お前がそう言うんなら相当ヤバイ相手なんだろうな、あのカインって奴」
言いながら二杯目ビールを飲み干したロヴァルの背後で、それまで楽しく騒いでいた海賊たちの声が一斉に驚きの声に急変した。
「なっ……なんでお前らここに!」
聞こえてきた仲間の声にむっと目を細めたロヴァルが振り返るより早く、あの自信に満ちたカインの声が甲板に響き渡った。
「楽しそうだな。俺たちも混ぜてくれよ」
部屋の鍵は外からしっかりとかけた。船室についている窓も、外を眺める事が出来るだけで開きはしない。それなのに目の前に立って不敵な笑みを浮かべるカインに、ロヴァルは目を丸くして一瞬言葉を失った。
肌に感じる冷たく強大な気と、何事にも動じない態度。この得体の知れない男の存在に、ロヴァルは初めて恐怖を抱いた。
「お……お前っ! 一体どうやって抜け出したんだ!」
「俺を捕まえたいんなら、最低十人の女くらいは用意しとくんだな」
その言葉に訳もなくむっとしたシェリルが、カインを押しのけて前に移動した。
「あの、ちょっと聞きたい事があって……その、ロヴァルさん?」
「……さん付けはやめてくれ。ロヴァルでいい」
先ほどディランに、カインを甘く見るなと言われたばかりだ。シェリルの背後でこちらを見ているカインの存在の大きさを本能的に察して、ロヴァルがいつになく素直な口調でシェリルの言葉に受け答えを始めた。
「夢のかけらと言うものを、知りませんか? あの洞窟の奥にあると思うんですけど」
「夢のかけら? 洞窟の中には藍晶石の結晶しか……」
言いかけてロヴァルがはっと口を閉じた。洞窟の一番奥にいた得体の知れない巨大な守護獣の存在を思い出して、ロヴァルはそれが夢のかけらと言うものを守っているのだと直感する。
「夢のかけらが何なのか分からないが、洞窟の奥には守護獣がいた」
ロヴァルの言葉を聞いてシェリルとカインは、顔を見合わせて小さく頷いた。おそらくそこに夢のかけらはある。僅かな希望が見えて、シェリルがその顔にふわりと笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、ロヴァル」
「おい、待てよ。まさかあの洞窟に入る気じゃないだろうな? あそこは人を喰う藍晶石の洞窟だぞ? おまけに道も複雑で……」
「だったらロヴァルを道案内に付けるけど?」
シェリルとロヴァルの会話に横から入り込んできたディランが、さらりと事も無げにとんでもない事を口走った。その言葉にぎょっと目を剥いたロヴァルが振り返った先では、ディランが少しも悪びれた様子なく、にこにこと作り笑いを浮かべている。
「その守護獣のいる所までロヴァルが君たちを案内する。その代わりシェリル、君には自分の事を話してもらうよ?」
「えっ! あの、それは……」
ロヴァルを餌にして取引を仕掛けてきたディランに、シェリルはどう答えていいものかと曖昧に言葉を濁らせる。本物の落し子だと言ってしまえば、どういう訳かディランたちの国はすべてを失うと言った。それにカインが天使だと言う事を、そう簡単に話していいものかどうか迷ってしまう。
「ねぇ、カイン。どうしたら……」
助けを求めてカインを振り返ったシェリルの言葉が、そこで途切れた。後ろにいるはずのカインが、他の海賊たちに紛れてビール片手に大きく乾杯している。そんな天使の姿を瞳に映して、シェリルが口をぽかんと開けたまま呆然とした。おいしそうにぐいぐいとビールを飲みながら煙草に火をつけているカインの姿は、とても天使には見えない。
「ちょっとっ、カイン!」
慌ててカインのもとへ駆け出そうとしたシェリルの肩を掴んだディランが、何かを企んでいそうな笑みを向けながらシェリルに無理矢理グラス握らせた。
「まあ、連れがあんなだし……どう? 君も何か飲むかい?」
そう聞いてはくるものの、ディランはシェリルの返事を待つ気もないように、さっさとグラスに琥珀色の液体を注ぎ始める。手に握らされたグラスになみなみと注がれた琥珀色の液体に目を丸くして、シェリルは慌ててそれをディランへ返そうとする。しかしディランはディランで、自分のグラスを片手ににっこりと微笑みを返してくるだけだった。
「あの! 私、お酒は飲めないんです」
「これは違うよ。僕らの国で採れる珍しい果物を飲み物にしたやつだ。君にも飲めると思うけど?」
まるで逆らう事を許さないような瞳で見つめられて、シェリルはおずおずとグラスに顔を近付けてみる。とろりとしたそれは花の蜜のように甘い香りを漂わせ、それだけでシェリルを酔わせてしまう。
「飲まないの?」
優しく聞こえる言葉でも、それはまったく反対の意味を持つ言葉としてシェリルの胸に冷たく突き刺さった。ディランの言葉はもはや優しくも何ともない、ただの命令だ。儚く優しそうな外見をしておきながら、実の所この海賊船の中で一番たちの悪い性格だといっても間違いないとシェリルは直感する。
「……これ、一杯しか飲みませんから」
ディランに脅され、カインもあてにならず、半ば自棄になったシェリルは、右手に持ったグラスに口をつけて琥珀色の液体を一気に飲み干した。
ねっとりと絡みつくように喉を流れる液体が、触れる箇所から一気に熱を帯びていく。痛いと感じたのは一瞬で、すぐにシェリルの意識がふわりと柔らかい風に揺られるように浮遊し始めた。喉の奥が熱いのか体が熱いのか、それすらもはっきりせず、シェリルはただ初めて感じる心地よい浮遊感に身も心も完全に委ねてしまった。
「おい、ディラン! まさか、カルヴァール酒を原液で飲ませたんじゃないだろうな!」
グラス一杯飲んだだけで急にふらふらし始めたシェリルに、驚いて目を見開いたロヴァルが慌てたように大声を上げた。今にも倒れそうに足元のおぼつかないシェリルを支えながら椅子に座らせたディランは、隣で大声を上げたロヴァルを煩そうに見つめて平然と頷いて見せる。
「まさか一気飲みするとは思わなかったけどね。……でもこれで話が聞きやすくなる」
さらりと言ってディランは自分用に注いだ同じ琥珀色の液体、カルヴァール酒の原液を一口だけ口に含んでシェリルの横にすとんと腰を下ろした。
「相変わらず不味いね、これは」
「普通は薄めて飲むんだよ!」
隣で再び大声を上げるロヴァルに「そうだっけ?」とでも言いたそうに首を傾げたディランは、残りのカルヴァール酒をシェリルの手に持たせて囁くように小声で語り始めた。
「さてと。シェリル、僕の声が聞こえるかい?」
「……だぁれ? ディラン?」
「そう、僕だ。これからいくつか君に尋ねるけど、答えてくれるね?」
医者なだけにこういう催眠術的な事はお手の物である。その手際のよさに半ば呆れて二人を見つめるロヴァルの前で、相変わらず悪びれた様子もなくディランはシェリルに質問を続けていく。
「シェリル、君たちはどこから来た?」
「空の上、よ。ずっと、遠く……」
「空の上からねぇ。天使じゃあるまいし」
突拍子もないシェリルの答えに、ロヴァルが思わず横から割り込んで呟いた。その言葉に反応して、シェリルが勢いよく椅子から立ち上がる。
「違うわ! あんなのが天使だなんてっ!」
そう叫ぶなり、シェリルはディランから渡されていたカルヴァール酒の原液をごくごくっと二口で飲み干した。止める暇も与えずあっという間にグラスを空にしたシェリルの体が、ふらぁっと風に舞う薄布のように揺れ、そして真後ろへ大きく傾いた。
「……ったく、仮にも神官のこいつに酒なんか飲ませるなよ」
ぐらりと真後ろへ倒れようとしたシェリルを、どこから見ていたのか突然現れたカインが素早く抱き止め、そしてそのまま軽々と抱き上げる。
「部屋、借りるぞ」
当たり前のように言ってすたすた歩き出したカインの足取りは、とても大量の酒を飲んでいたとは思えないほど軽い。シェリルを両腕に抱き上げたまま船内へ消えていこうとしたカインは、その一歩手前でロヴァルとディランに振り返って、念を押すように忠告した。
「閉じ込めても無駄だからな」
勝ち誇ったように笑って船内へ消えていったカインの後姿を見つめていたロヴァルは、はあっと大きく溜息をついて無精に伸びた黒髪をぐしゃっとかきあげる。
「誰だよ、あれを拾ってきたのは」
「同感だね」
大陸から遠く離れている為独自の文化を築き上げ、今では立派なひとつの国となったカザールにも女神アルディナを奉る教会があった。
島を取り囲む海には魔物の巣窟があり、カザールへ向かう海路は常に危険と隣り合わせだ。今まで何隻もの船が魔物の襲撃に遭い、深い海の底に沈んでいる。
大陸とカザールを繋ぐ海路は不安定で、半ば孤立した島となったこの国の教会には、現在ひとりの神父と神官がいた。
「セレスティア、皆が待っていますよ」
「はい、ウォアズ神父様」
優しい声で語りかけた神父に少し緊張した顔を向けたセレスティアは、椅子から立ち上がると儚い足取りで部屋を後にした。長い廊下の窓はどれも開け放たれていて、そこから流れ込んでくる風はかすかな潮の香りを届けてくる。街の一番見晴らしのいい丘の上に建った教会の窓からは、街の向こうに広がる青い海が遠くまで見渡せた。
ふと足を止めたセレスティアは窓から海を見つめて、少し前に聖地へ赴いたロヴァルの事を思い浮かべた。魔物たちの潜む海を渡り、誰ひとりとして帰ってくる事のなかった聖地へ行った愛しい恋人。彼が無事に帰ってくる事を願いながら、セレスティアは反対に彼が成し得ようとする事の失敗を望んでいた。
ロヴァルが聖地から戻ると言う事は、その手に天使の涙と呼ばれる藍晶石を持ち帰ると言う事なのだ。そしてその石がこの島へ持ち込まれる事を、セレスティアは望んではいなかった。
「ロヴァル……」
乙女の切ない願いは口から零れた音と共に風に攫われ、海の彼方へと飛んでいった。
海賊船ブルーファングの甲板に置かれた酒樽の上には、あらゆる酒と食べ物が所狭しと並べられていた。豪快な笑い声が飛び交い、少し煩いくらいに海賊たちが酒を飲んでは騒ぎ立てている。
そんな海賊たちから少し離れてひとり優雅にワインを飲んでいたディランの横に、ふて腐れた顔をしたロヴァルがどっかりと腰を下ろした。片手に持ったビールをぐいっと飲み干していくロヴァルを見ようともせず、ディランは顔を上げて今はもうすっかり日の落ちた夜空を見つめながら小さく息を吐いた。
「主役がこんな所にいていいのかい? 皆は君の成功を祝ってるんだよ。藍晶石を手に入れた君がやっとセレスティアを迎えられるってね」
「そんな事よりディラン! 何であいつらに何も聞かなかったんだよ!」
ロヴァルの言葉を聞いてふっと笑みを零したディランは、星空から視線を戻してグラスに残ったワインを一気に飲み干した。
「聞かなかったんじゃない。……聞けなかったんだ」
「どういう意味だ?」
「言葉通りの意味だよ」
空になったグラスをくるくる回して遊びながら、ディランはカインの事を思い出す。
シェリルの存在について尋ねたディランに向けられた鋭い瞳。その奥に心まで凍らせてしまうような冷たい光を見つけたディランは、それ以上カインを問い詰める事が出来なかった。あの光に触れてしまえばただでは済まないだろうと心の奥で警報がなり始め、ディランは出直すしかなかったのだ。
「……あの男、甘く見ない方がいい」
珍しく慎重な言葉にロヴァルも何かを感じたらしく、素直に頷いて見せた。
「お前がそう言うんなら相当ヤバイ相手なんだろうな、あのカインって奴」
言いながら二杯目ビールを飲み干したロヴァルの背後で、それまで楽しく騒いでいた海賊たちの声が一斉に驚きの声に急変した。
「なっ……なんでお前らここに!」
聞こえてきた仲間の声にむっと目を細めたロヴァルが振り返るより早く、あの自信に満ちたカインの声が甲板に響き渡った。
「楽しそうだな。俺たちも混ぜてくれよ」
部屋の鍵は外からしっかりとかけた。船室についている窓も、外を眺める事が出来るだけで開きはしない。それなのに目の前に立って不敵な笑みを浮かべるカインに、ロヴァルは目を丸くして一瞬言葉を失った。
肌に感じる冷たく強大な気と、何事にも動じない態度。この得体の知れない男の存在に、ロヴァルは初めて恐怖を抱いた。
「お……お前っ! 一体どうやって抜け出したんだ!」
「俺を捕まえたいんなら、最低十人の女くらいは用意しとくんだな」
その言葉に訳もなくむっとしたシェリルが、カインを押しのけて前に移動した。
「あの、ちょっと聞きたい事があって……その、ロヴァルさん?」
「……さん付けはやめてくれ。ロヴァルでいい」
先ほどディランに、カインを甘く見るなと言われたばかりだ。シェリルの背後でこちらを見ているカインの存在の大きさを本能的に察して、ロヴァルがいつになく素直な口調でシェリルの言葉に受け答えを始めた。
「夢のかけらと言うものを、知りませんか? あの洞窟の奥にあると思うんですけど」
「夢のかけら? 洞窟の中には藍晶石の結晶しか……」
言いかけてロヴァルがはっと口を閉じた。洞窟の一番奥にいた得体の知れない巨大な守護獣の存在を思い出して、ロヴァルはそれが夢のかけらと言うものを守っているのだと直感する。
「夢のかけらが何なのか分からないが、洞窟の奥には守護獣がいた」
ロヴァルの言葉を聞いてシェリルとカインは、顔を見合わせて小さく頷いた。おそらくそこに夢のかけらはある。僅かな希望が見えて、シェリルがその顔にふわりと笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、ロヴァル」
「おい、待てよ。まさかあの洞窟に入る気じゃないだろうな? あそこは人を喰う藍晶石の洞窟だぞ? おまけに道も複雑で……」
「だったらロヴァルを道案内に付けるけど?」
シェリルとロヴァルの会話に横から入り込んできたディランが、さらりと事も無げにとんでもない事を口走った。その言葉にぎょっと目を剥いたロヴァルが振り返った先では、ディランが少しも悪びれた様子なく、にこにこと作り笑いを浮かべている。
「その守護獣のいる所までロヴァルが君たちを案内する。その代わりシェリル、君には自分の事を話してもらうよ?」
「えっ! あの、それは……」
ロヴァルを餌にして取引を仕掛けてきたディランに、シェリルはどう答えていいものかと曖昧に言葉を濁らせる。本物の落し子だと言ってしまえば、どういう訳かディランたちの国はすべてを失うと言った。それにカインが天使だと言う事を、そう簡単に話していいものかどうか迷ってしまう。
「ねぇ、カイン。どうしたら……」
助けを求めてカインを振り返ったシェリルの言葉が、そこで途切れた。後ろにいるはずのカインが、他の海賊たちに紛れてビール片手に大きく乾杯している。そんな天使の姿を瞳に映して、シェリルが口をぽかんと開けたまま呆然とした。おいしそうにぐいぐいとビールを飲みながら煙草に火をつけているカインの姿は、とても天使には見えない。
「ちょっとっ、カイン!」
慌ててカインのもとへ駆け出そうとしたシェリルの肩を掴んだディランが、何かを企んでいそうな笑みを向けながらシェリルに無理矢理グラス握らせた。
「まあ、連れがあんなだし……どう? 君も何か飲むかい?」
そう聞いてはくるものの、ディランはシェリルの返事を待つ気もないように、さっさとグラスに琥珀色の液体を注ぎ始める。手に握らされたグラスになみなみと注がれた琥珀色の液体に目を丸くして、シェリルは慌ててそれをディランへ返そうとする。しかしディランはディランで、自分のグラスを片手ににっこりと微笑みを返してくるだけだった。
「あの! 私、お酒は飲めないんです」
「これは違うよ。僕らの国で採れる珍しい果物を飲み物にしたやつだ。君にも飲めると思うけど?」
まるで逆らう事を許さないような瞳で見つめられて、シェリルはおずおずとグラスに顔を近付けてみる。とろりとしたそれは花の蜜のように甘い香りを漂わせ、それだけでシェリルを酔わせてしまう。
「飲まないの?」
優しく聞こえる言葉でも、それはまったく反対の意味を持つ言葉としてシェリルの胸に冷たく突き刺さった。ディランの言葉はもはや優しくも何ともない、ただの命令だ。儚く優しそうな外見をしておきながら、実の所この海賊船の中で一番たちの悪い性格だといっても間違いないとシェリルは直感する。
「……これ、一杯しか飲みませんから」
ディランに脅され、カインもあてにならず、半ば自棄になったシェリルは、右手に持ったグラスに口をつけて琥珀色の液体を一気に飲み干した。
ねっとりと絡みつくように喉を流れる液体が、触れる箇所から一気に熱を帯びていく。痛いと感じたのは一瞬で、すぐにシェリルの意識がふわりと柔らかい風に揺られるように浮遊し始めた。喉の奥が熱いのか体が熱いのか、それすらもはっきりせず、シェリルはただ初めて感じる心地よい浮遊感に身も心も完全に委ねてしまった。
「おい、ディラン! まさか、カルヴァール酒を原液で飲ませたんじゃないだろうな!」
グラス一杯飲んだだけで急にふらふらし始めたシェリルに、驚いて目を見開いたロヴァルが慌てたように大声を上げた。今にも倒れそうに足元のおぼつかないシェリルを支えながら椅子に座らせたディランは、隣で大声を上げたロヴァルを煩そうに見つめて平然と頷いて見せる。
「まさか一気飲みするとは思わなかったけどね。……でもこれで話が聞きやすくなる」
さらりと言ってディランは自分用に注いだ同じ琥珀色の液体、カルヴァール酒の原液を一口だけ口に含んでシェリルの横にすとんと腰を下ろした。
「相変わらず不味いね、これは」
「普通は薄めて飲むんだよ!」
隣で再び大声を上げるロヴァルに「そうだっけ?」とでも言いたそうに首を傾げたディランは、残りのカルヴァール酒をシェリルの手に持たせて囁くように小声で語り始めた。
「さてと。シェリル、僕の声が聞こえるかい?」
「……だぁれ? ディラン?」
「そう、僕だ。これからいくつか君に尋ねるけど、答えてくれるね?」
医者なだけにこういう催眠術的な事はお手の物である。その手際のよさに半ば呆れて二人を見つめるロヴァルの前で、相変わらず悪びれた様子もなくディランはシェリルに質問を続けていく。
「シェリル、君たちはどこから来た?」
「空の上、よ。ずっと、遠く……」
「空の上からねぇ。天使じゃあるまいし」
突拍子もないシェリルの答えに、ロヴァルが思わず横から割り込んで呟いた。その言葉に反応して、シェリルが勢いよく椅子から立ち上がる。
「違うわ! あんなのが天使だなんてっ!」
そう叫ぶなり、シェリルはディランから渡されていたカルヴァール酒の原液をごくごくっと二口で飲み干した。止める暇も与えずあっという間にグラスを空にしたシェリルの体が、ふらぁっと風に舞う薄布のように揺れ、そして真後ろへ大きく傾いた。
「……ったく、仮にも神官のこいつに酒なんか飲ませるなよ」
ぐらりと真後ろへ倒れようとしたシェリルを、どこから見ていたのか突然現れたカインが素早く抱き止め、そしてそのまま軽々と抱き上げる。
「部屋、借りるぞ」
当たり前のように言ってすたすた歩き出したカインの足取りは、とても大量の酒を飲んでいたとは思えないほど軽い。シェリルを両腕に抱き上げたまま船内へ消えていこうとしたカインは、その一歩手前でロヴァルとディランに振り返って、念を押すように忠告した。
「閉じ込めても無駄だからな」
勝ち誇ったように笑って船内へ消えていったカインの後姿を見つめていたロヴァルは、はあっと大きく溜息をついて無精に伸びた黒髪をぐしゃっとかきあげる。
「誰だよ、あれを拾ってきたのは」
「同感だね」
0
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説
はぐれ者ラプソディー
はじめアキラ@テンセイゲーム発売中
ファンタジー
「普通、こんなレアな生き物簡単に捨てたりしないよね?俺が言うのもなんだけど、変身できる能力を持ったモンスターってそう多くはないんだし」
人間やモンスターのコミュニティから弾きだされた者達が集う、捨てられの森。その中心に位置するインサイドの町に住むジム・ストライクは、ある日見回りの最中にスライムが捨てられていることに気づく。
本来ならば高価なモンスターのはずのスライムが、何故捨てられていたのか?
ジムはそのスライムに“チェルク”と名前をつけ、仲間達と共に育てることにしたのだが……実はチェルクにはとんでもない秘密があって。
旦那様には愛人がいますが気にしません。
りつ
恋愛
イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。
※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます
結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】
ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?


元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる