飛べない天使

紫月音湖(旧HN/月音)

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第2章 夢のかけら

海賊船ブルーファング・3

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 どうしてこんな事になったんだろう。

 窓の外に見える海の景色はゆっくりと流れ始め、それはこの海賊船が動き出した事を告げていた。
 成す術もなく窓の外を見ていたシェリルはふっと視線を室内に戻して、ベッドの上に横たわるカインへと近付いた。未だに目を覚ます気配もなく、時々苦しそうにうなされているカインは全身びしょ濡れで、かすかに震えているようにも見える。同じようにびしょ濡れのまま海賊船の一室に閉じ込められたシェリルも、髪の先からぽたぽたと小さな雫を零していた。

「カイン」

 呼んでも返事は戻ってこない。
 近くにあったタオルでカインの体を拭きながら、シェリルは不安げにもう一度名前を呼んでみる。

 突然意識をなくしたカインと一緒に海へ落下したシェリルは、勢いよく跳ね上がった水飛沫の音を聞きつけてやってきた海賊たちによって捕えられていた。男たちだけの海賊船の中で唯一頼りにしていたカインが意識を失い、何の力も持たないシェリルはひとりで怯えるしか出来ない。
 これからこの船はどこへ行こうとしているのか。自分たちはどうなってしまうのか。動き出してしまった海賊船の一室に、外から鍵をかけられ閉じ込められてしまったシェリルには、どうする事も出来なかった。ただ、カインの目覚めを待つしかなかったのだ。

「カイン。一体、どうしたの?」

 瞳を開かないカインの顔を覗き込みながら、シェリルは海の上でカインの様子がおかしくなった時の事を思い出していた。あの時、カインが口走った……。

「ルシエル……」

 気を失う前にカインが口にした名前を呟いてみたシェリルは、急に体から熱が奪われていくような感覚にびくんと震え、両腕できつく体を抱きしめた。

「カイン……。カイン、早く目を覚まして」





 真っ暗だった。
 目を開けてもそこに何かを見る事は出来ず、手を伸ばしてもその指先が何かに触れる事はない。限りなく続く混沌とした世界。肌にじわりと染み込む闇が、心にまで不快感を与えてくる。

(ここは、どこだ?)

『どこまでも続く、終わりのない闇の空間』

 カインの言葉に対して、闇の中から幾重にも重なった低い声が答えを返した。

『あるのは己の体と、それを取りまく暗闇だけ。光も水も何もない。記憶に残るあの声も姿もない。闇がすべてを奪い、己の存在すら忘れさせてしまう』

(お前は誰だ? ここは一体どこなんだ?)

『誰も訪れず、誰も口に出さない。誰からも恐れられ忌み嫌われた場所。恐怖と孤独を与える空間。そこへお前は戻ってきた。運命に導かれるがままに……』

 びくんと体が震えた。その声をそれ以上聞いてはいけないと、カインの心の奥が騒がしくなる。
 不思議で不気味な声音。誰のものかも分からない声を、けれどカインは知っているような気がしていた。そしてそれを思い出そうとする度に頭は割れるように痛み、呼吸すらまともに出来なくなってしまう。

『何も変わらない。逃げる事も出来ない。お前はただすべてを受け止めるだけ。――抗う事は許されない』

(やめろ! 俺の居場所はここじゃない!)

 その瞬間、辺りを取り巻いていた闇がざあっと砂のように崩れ落ちた。
 目も眩むほどの金色の光が降り注ぎ、消滅していく闇からカインを守るようにして優しくその体を包みこむ。大きく柔らかな腕に抱かれた感触に顔をあげたカインの瞳が、光と混ざって揺れ動く金色の影を捉えた。

『お前の戻るべき場所は、ここではない』

 それは静かな女の声だった。
 金色の影に向かって手を伸ばし何か言おうと口を動かしたカインの耳に、今度は聞き覚えのある声がはっきりと届く。

「カイン!」

 それと同時にカインの意識体は、金色の光の渦へ引き寄せられるように飲み込まれて行った。





 かすかに濡れて光る紫銀の髪と、見惚れるくらいの整った顔。目を閉じたままのカインをじっと見つめながら、シェリルは出会ってから今までの事を思い返していた。
 最悪な第一印象。女遊びが激しくて、口が悪くて、けれど本当は優しいひと。
 こういう状況に陥って初めてシェリルは、自分がどれほどカインを頼っていたかという事を知る。出会ったばかりだというのに、シェリルはカインの本当の姿を心のどこかで感じ取っていたような気がしていた。

「……カイン」

 ぼんやりとカインを見つめながら静かに名前を呼んで、シェリルがそっと手を伸ばした。額に張り付いた紫銀の髪を払いのけた指先は、そのままカインの顔の輪郭をすうっと優しくなぞっていく。無意識のうちにその唇にまで触れようとしていた指先に気付いて、ぱっと大きく目を見開いた。

(やだっ。私……!)

 かあっと頬を紅潮させ、慌ててその手を引き戻そうとした時。

「どうした、シェリル。人肌が恋しいのか?」

 下から聞こえた声に驚いて身を引こうとしたシェリルの手首を、カインの手ががっちりと掴まえる。湯気が上がりそうなほど真っ赤な顔を向けて口だけをぱくぱくと動かすシェリルの前で、ゆっくりとベッドから体を起こしたカインが、にっと意味ありげな笑みを浮かべた。

「続きは夜にしてくれ」

「つ、続きって……! 大体起きてるなら返事くらいしてよっ」

 掴まれた手を振り払ってくるりと体の向きを変えたシェリルは、そのまま逃げ出すように窓の方へと駆け出した。窓の外に見える海を見ていながら焦点の定まらない視線を泳がせて、シェリルはだんだん早くなってくる胸の鼓動を抑えようと大きく深呼吸する。吐き出す息と一緒に、口から心臓まで飛び出してしまいそうだ。

(私、どうしてあんな事したのかしら。……眠ってるカインがあんまり綺麗だったから、つい……)

「おい、シェリル」

「きゃあっ!」

 カインの顔を思い浮かべていた最中に真後ろから声をかけられ、シェリルは何かとてつもなく恐ろしいものを見たかのように体を震わせて飛び上がった。

「お前なぁ。俺を何だと思ってんだよ」

「ご、ごめんなさい」

 振り返ったのは一瞬で、すぐにまた視線を逸らしたシェリルを微笑ましく思いながらも、カインは自分が置かれている状況を把握しようと室内をぐるりと見まわした。 
 見知らぬ部屋。質素な造りのベッドと椅子。そして窓の外には青い海が広がっている。

「ところでだ。ここはどこなんだ?」

 後ろから尋ねられ、当面の問題を思い出したシェリルが、あっと短く声をあげた。恥ずかしくてそっぽを向いていたことなど忘れたように、慌ててカインを振り返る。

「私たち、海賊に捕まったの。海へ落ちた音に気付かれたみたいで」

 海賊と聞いて島の洞窟付近にいた海賊船を思い出したカインは、納得したように小さく頷いた。突然現れたカインたちを、海賊が不審に思うのは当然である。場所は海のど真ん中だったのだから。

「お前、よく無事だったな」

「何が?」

「何も、されてないんだろ?」

 少し言い難そうに告げられた言葉の意味を理解して、シェリルの頬がかすかに紅潮する。

「あっ、当たり前じゃない! そんな事されるくらいなら舌を噛切ってるわよ!」

「そうか。……お前に何かあったら、全員始末しなくちゃならないからな」

「え?」

 思ってもみない言葉にぎょっとして驚いたシェリルを、カインは真っ直ぐに見つめ返してくる。そのあまりに強い視線に胸が痛むのを感じて、シェリルは逃げるようにカインから目を逸らした。

「天使がそんな物騒なこと言わないでよ」

「天使っつっても、俺は天界戦士だからな」

 そう言って、カインがいつものように不敵な笑みを浮かべる。その笑顔がいつもと少し違う気配を纏っていることに、顔を逸らしたままのシェリルは気付くことがなかった。

 召喚者を守るのは天使の義務。カインが意識を失っている間、不覚にもシェリルの身に何かあっては守護天使失格である。シェリルの無事を確認し、カインは改めてほっと息をついた。

 天使として召喚者の無事を願ったカイン。男としてシェリルが無事だった事に安心したカイン。そして、その奥に隠れて蠢いていたもうひとつの感情。それに触れようとしたその時、カインの中で辺りの空気が一瞬のうちにがらりと変化した。

『簡単に死ぬ事は許さぬ。お前のすべてを我に与えてから朽ち果てよ』




 勢いよく部屋の扉が開けられた。それと同時に、元気で少し煩いくらいの声が響く。

「どいつだ! セレスティアの偽者はよっ!」

 褐色の肌をした逞しい体躯の若い男が、深い藍色の瞳で部屋の中をぐるりと見回した。外から鍵がかかっていた扉を蹴破るようにして登場し、突然大声で叫び出した男が、窓際のシェリルの姿を目にして鋭く睨み付けた。

「お前か!」

「きゃっ!」

 聞いているのか怒鳴っているのか分からない口調にすっかり怯えてしまっているシェリルの腕を、男が強引に引っ張って顔を近付ける。ぎろりと睨むような鋭い目つきに思わず瞳を閉じたシェリルの体が、今度はぐいっと真後ろに引き戻された。

「女はもっと丁寧に扱いな。しかも、こいつは俺の連れだぞ」

 シェリルを自分の背後へ隠しながら、カインが声のトーンを落して冷ややかに言った。そんなカインに怯む事なく、なおも強く二人を睨みつけた男が何か言い返そうとするより先に、部屋の外から今度は少し呆れたような声が響いた。

「これ以上話をややこしくするのは止めてくれ、ロヴァル。僕らはただでさえ混乱しているんだから」

 次に部屋に入ってきたのは、腰のあたりまで伸びた灰青の髪を三つ編みに纏めた長身の女性――にも見える男だった。

「これが落ち着いていられるかよ、ディラン! 大体なんでこいつが二人もいるんだよ!」

 こいつといってシェリルを指差したロヴァルは、体中に包帯を巻いていると言うのに、とても怪我人には見えないほど元気に煩く喚き散らす。その大声に顔を顰めながら大きく溜息をついたディランが、すっと手を伸ばしてロヴァルの背中に思いきり拳を叩きつけた。

「ぐぇっ!」

 どうやらそこは守護獣から受けた一番深い傷跡らしく、まともに拳を食らったロヴァルは声も出せずに脂汗を垂らしながらその場に座りこんだ。呻きながら睨み付けてくるロヴァルをあっけなく無視して、ディランはカインとその後ろに隠れて立つシェリルへと目を向けた。何事もなかったかのように微笑んでくるディランはシェリルの中で、穏やかな人から一番の危険人物へと変わっていった。

「さぁ、ロヴァルが大人しいうちに全部話してくれるとありがたいんだけどね。君たちはどこから来たのか、そして何者なのか。……特に、その後ろに隠れてる彼女の事を詳しく聞きたい」

 カインからシェリルへちらりと目を向けたディランの足元で、同意するようにロヴァルが出ない声で無理に呻く。

「それがお前たちに何の関係がある?」

 反抗的なカインの態度に、ディランが面白そうに笑みを零した。

「へぇ、強気だね。この海賊船から逃げられるとでも思ってるのかい?」

「まぁな」

「逃げたいんなら逃げても構わないけど、その前に彼女の事は話してもらうよ」

 そう言ったディランの瞳から笑みが消えた。澄んだ瞳から発せられる冷たい眼光に身構えたカインが、ディランの目に触れぬよう自分の背中でシェリルを完全に隠す。

「やけにこいつの事が気になるようだな」

「僕たちにとって彼女の存在は、非常に興味深いものだからね。もしも彼女が本物なら、僕らの国はすべてを失う事になる」 
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