飛べない天使

紫月音湖(旧HN/月音)

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第1章 天使召喚

もうひとつの神話・1

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「私は怒っているのよ」

 扉を開けて入ってきたカインを振り返る事もせず、リリスは背を向けたまま静かな声でそう言った。滑らかな曲線を描くリリスの体を淡いブルーの瞳に映すだけでは満足できず、カインが少し強引にその体を後ろから抱きしめた。
 ふわりと鼻をくすぐる香りがいつもとは違い、カインの背筋がぞくりと震える。本能を目覚めさせるような、官能的な香りだ。

「香水、変えたのか?」

「やっぱりカインには分かるのね。そうよ、ルーヴァに貰ったの。男を虜にする香りですって」

 後ろから回され胸元で組まれていた大きな手に自分の手を重ねて、リリスは後ろのカインに頭を傾ける。

「どう? 効いてる?」

「試してみるか?」

 リリスの白い首筋に口付けしたカインは、そのまま線をなぞるようにすうっと唇を耳元まで這わせ、小さな耳朶を甘噛みする。カインの熱い吐息が耳をくすぐり思わず体を震わせたリリスだったが、それ以上を許そうとはせずにカインの唇を強引に引き離した。

「あの女の事を話すまで駄目よ。あんな冴えない、しかも人間の女をどうして連れていたの?」

 おあずけを食らって行き場をなくした唇を少し尖らせて、カインは面倒くさそうに頭を掻きながら深い溜息を零した。何気なく視線を窓の外に向けて、カインは昨夜から自分の身に起こった出来事のすべてを脳裏にぼんやりと思い起こしてみた。

 リリスとの甘い夜を過ごそうとした矢先に下界へ召喚され、そこで見るからに田舎臭く色気のかけらもないシェリルと出会った。失われた召喚術によって呼び出された挙句、不本意にも羽根を印とした契約まで結んでしまった事に対して自分でも愚かだとは思ったが、不思議と今はそこまで嫌ではない。
 今朝方見たシェリルの寝顔が、一瞬だけ瞳の奥に甦る。

「俺も何が起こったか十分に把握はしてないが……あいつ、召喚術で俺を呼び出したんだよ。弾みで契約しちまったから、今はあいつの願いを叶える為にここに連れてきた」

「召喚術? 下界では既に失われた術のはずなのに、あの子よく知ってたわね。それに……天界の中でも特にレベルの高いあなたが簡単に召喚されたって言うのもおかしな話だけど」

「偶然が重なったのさ。さぁ、もういいだろ? こっち向けよ」

 そう言ってリリスを自分と向かい合わせたカインは、もう逃げられないようにぴったりと体を寄せて彼女の体を両腕に抱きしめた。応えるように赤い唇を引いて微笑んだリリスも、カインの首にすっと手を回す。

「せっかちね」

「これからって時に召喚されたんだ。分かるだろ?」

「でもまさか、シェリルって女に手を出していないでしょうね?」

 顔をぎりぎりのところまで近付けて紅い唇を奪おうとしたカインは、リリスのその言葉に一瞬だけシェリルの姿を思い出す。シェリルの小さな体を抱き寄せ、花のような唇に触れようとした事も。

「……まさか」

 小さく返事をしてゆっくりと瞳を閉じたカインの唇が、リリスの真っ赤な唇に落ちようとしたその時。

「突然お邪魔してすみません、リリス。ちょっとカインを借りますよ」

 カインの背後でいつもと同じ冷静なルーヴァの声がしたかと思うと、一瞬のうちにリリスの前からカインの姿が消えていた。はっとして目を開いた時には既に遅く、部屋の中にはリリスひとりが取り残される。

「またなのっ?」

 怒号のようなリリスの声は、家の外にまで響き渡っていった。





 甘いひとときからルーヴァの家に引き戻されたカインは、頬を引きつらせながら自分の腕を掴んでいるルーヴァへと目を向けていた。

「……ルーヴァ。俺を苛めて楽しいか? この堕天使め」

 声を殺して呟いたカインの肩をぽんっと軽く叩いて、ルーヴァは悪びれた様子もなく、いつもの穏やかな笑みを向けてみせた。にこにこ笑うその顔は、悪戯を隠す子供のようだ。

「そういうの、一気に吹き飛んでしまいますよ」

「はぁ?」

 言葉の意味を理解出来ないカインの前で、ルーヴァが得意げに部屋を仕切っていた白いカーテンを勢いよく開けた。カーテンの向こうには診察台が置いてある。それは変わらないが、その診察台の上に見知らぬ女が横たわっている事実に、カインが思わず声を詰まらせて驚いた。

 美に関する事ならいくらでも興味を持つが、正常な一般男性なら誰でも持つ女性に対する感情にはほとんど興味を示さないルーヴァ。その彼の家で、しかも診察台と称したベッドの上に眠っている女にも驚いたが、カインはそれ以上に女の姿に言葉を失った。

 透けるように白い肌。白い清潔なシーツの上に波打つ見事な金色の髪。長い睫毛に薄桃色をした小さな唇。そして何より額に刻まれた三日月の刻印が、カインの目を釘付けにした。
 光を受けて薄い紫から銀に色を変える三日月の刻印。それは天使ならば誰でも見た事のある形だった。天界に遠い人間でありながら、天界に最も近い存在。

「神の落し子……。この目で見るのは初めてだ」

「ええ、私もですよ。彼女が神の落し子だったと言うのなら、古代に失われた召喚術を行えたのも何となく分かるような気がします」

 さらりと言ったルーヴァに生返事をしながら女を呆然と見つめていたカインは、ふっと何かを思い出したように目を見開いた。そして目の前に横たわる女を、もう一度しっかりと見つめ直してみる。
 額の刻印を重い前髪で隠し、長い金髪を二つにきっちりと編んで、最後に黒ぶちの眼鏡をかけてみるとそれはカインの中でひとりの女と重なり合う。

「……ルーヴァ。この女、もしかして……」

「シェリルですよ。当たり前じゃないですか」

 さっきとは違う意味で言葉を失ったカインの耳に、満足げなルーヴァの笑い声が届く。

「私の手にかかれば誰でも美しく変身できます。もっともシェリルの場合は、もとの美しさをあえて隠していたように思えますが」

「何で寝てる?」

「抵抗されると面倒なので」

 屈託のない笑顔を向けながら、ルーヴァが恐ろしい事をさらりと口にする。そんなルーヴァに呆れた笑みを零しながら、カインはまだ気持ちよさそうに眠っているシェリルを起こさないよう静かにカーテンを閉めた。

「お前の方がよっぽど怖いな」

「何がです?」

「いや、別に」

 まるで自分の家のように椅子に座ってくつろぐカインに、ルーヴァが慣れた手つきで紅茶を差し出す。

「家にお酒は置いてませんので、紅茶で我慢して下さい」

「ああ、悪い」

 ルーヴァの淹れた紅茶を飲みながら無意識にさっき閉めたカーテンへと目を向けていたカインは、その向こうに眠っているシェリルの姿と昨夜初めて会った時の姿を比べてみる。
 分厚い眼鏡越しに睨みつけてきた翡翠色の瞳。化粧っけのない顔。初めて会った時は色気も何も感じないつまらない女だと思っていたのに、たった少しの変化を付けるだけで目を奪うような女に変身したシェリル。あの小さな体を腕に抱いて口付けしようとした時の事を思い出して、カインの胸がどくんと高鳴る。その不可解な鼓動に唇を噛み締めて、カインはシェリルの姿を振り払うかのように軽く頭を振った。

「……しかし、神の落し子が神に会うとはな」

 ぽつりと呟いたカインの言葉が終わると同時に、テーブルの向こうでルーヴァのティーカップがかしゃんっと鳴った。見ればルーヴァは片方しかない瞳を大きく見開いて、カインを凝視している。手に持っていたティーカップから零れた紅茶が、テーブルクロスに茶色い染みを作っていた。

「シェリルは神に会いたいと願ったのですか?」

「ああ。とんでもない願いだろ?」

「……カイン、あなたも知っているでしょう? 神は」

「シェリルが相手なら、どうにかなるんじゃないのか?」

 さらりと言ったカインを見て、呆れたようにルーヴァが大きく溜息をついた。乗り出していた体を再び椅子に戻してカップを手に持ったルーヴァは、少し意味ありげに笑って残っていた紅茶を一気に飲み干した。

「そんな簡単なものじゃありませんよ。シェリルが目覚めたら月の宮殿へ行ってみて下さい」

「やけに意味ありげだな。……お前、何か知ってるだろ?」

「さぁ、別に。ただ、暫くはシェリルと一緒にいる事になりそうですよ」

 その言葉にカインが言い返そうとしたその時、穏やかな空間を引き裂く鋭い悲鳴が部屋中に響き渡った。

「きゃああっ!」

 ただならぬ叫び声に瞬時に身を翻し、カインが椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。

「シェリル!」

 乱暴に開けたカーテンの向こうで、シェリルがベッドの端に蹲ったままがたがたと震えていた。

「シェリル! おい、どうしたっ!」

 顔を膝に埋めて震えるシェリルが、肩に感じた手の感触にびくんとして顔を上げた。止めどなく零れる大粒の涙に濡れた翡翠色の瞳が、すぐ側のカインを見つけてぴたり止まる。未だはっきりとしない瞳に映ったカインの姿はぐにゃりと歪み、そのままシェリルを捕えようとする黒い闇へと姿を変えた。
 肩に置かれたカインの手でさえ闇へと誘う魔手のようで、シェリルは恐怖のあまり力ずくでカインの手を振り払う。

「いや! 来ないでっ!」

「おい、シェリル!」

 振り払われた手をもう一度伸ばして、カインはもっと強くシェリルの体を押さえつけた。その度に怯えた目をして暴れるシェリルは、もう何も見たくないと言うように涙で濡れた瞳をきつく閉じる。二人の様子を見て、ルーヴァだけが取り乱す事なく安定剤の準備をし始めた。

「シェリル! ったく、落ち着け!」

「離して! ……いや……――――殺さないでっ!」

「シェリル!」

 恐怖に震える肩をぐっと掴んで、カインが間近でシェリルの名前を呼んだ。その強い声に、伏せられていたシェリルの瞳が弾かれたようにぱっと開いた。
 涙で歪んだ視界に少しずつ色が戻り始め、そこに現実のカインを見つけたシェリルが、まだ震えている手を伸ばして指先でそっとカインに触れてみる。かたかたと震える指先がカインの熱を感じ取った瞬間、シェリルの中で自分を取り巻いていた闇の塊が一気に弾け飛んだ。

「……――――カイン」

 悪夢に連れ戻されないよう必死に手を伸ばして、シェリルはそのままカインへと強くしがみ付いた。手に触れるものが現実だと確かめたくて。そして、もう二度と目の前で消えてしまわないように。

「カイン……。カインっ!」

「大丈夫だ。ここにいる」

 思ってもみないシェリルの行動に驚きはしたものの、カインはそれが嫌ではなかった。救いを求めてきたシェリルを優しく受け入れ、カインはその背中にそっと手を回して、まだ震えている体をふわりと抱きしめる。
 カインの胸に顔を埋め、そこから聞こえる生きた鼓動に耳を傾けたシェリルが、ゆっくり深く息を吸い込んで気持ちを落ち着かせる。温かいものに守られている感覚に、まだはっきりとしない瞳で周りを見回したシェリルは、自分を取り巻くものが何なのかを知って一気に意識を取り戻した。

「……っ!」

 途端、顔を真っ赤にしたシェリルが、カインの腕の中から逃げるように飛び出した。シーツで顔を覆い隠しながらベッドの上をじりじりと後退する。

「なっ、なっ……何を」

 強く突き飛ばされて数歩後ろへ下がったカインは、目の前で慌てふためくシェリルの行動に淡く笑みを零して大げさに肩を竦めて見せた。

「随分だな。お前から抱きついてきたくせに」

「そ、そんなの知らない! 大体……」

 言いかけて、シェリルがぴたりと動きを止めた。
 結っていたはずの髪がシェリルの顔を覆い隠している。髪を払いのけた手は眼鏡をしていない顔に触れた。視界を塞ぐ金色の髪に恐る恐る触れたシェリルは何が何だか分からず、ただ呆然とするだけで次の言葉が出てこない。
 彷徨った視線が、壁に掛かった鏡で止まる。磨かれた鏡面に映し出されていたのは、今まで隠してきた自分の本当の姿だった。
 幼い頃、両親と共に暮らしていた幸せだった頃のシェリル。額に三日月の刻印を持つ神の落し子。

「どうしてすべてを隠していたのかは分かりませんが、神に会うと言うのであればその姿の方が都合がいいと思いますよ」

 ルーヴァの声に振り向いたシェリルが、ほとんど無意識に額の刻印に触れた。この印にどういう意味があるのか、シェリルはまったく知らない。分かっているのはこの刻印を持つ者が「神の落し子」と呼ばれているだけ。この天界ではその意味を知る事も可能だろうし、女神に会う為にはこの姿のままがいい事も何となく分かる。けれど。

「……駄目よ。これじゃ、いつまたあの闇が……」

 ひとり言のように呟かれた言葉を聞き逃さなかったカインは、さっきシェリルが取り乱した時に口走った言葉を思い出した。

『殺さないでっ!』

 シェリルが何を恐れているのかは分からなかったが、彼女を狙う者がいる事はその言葉だけで十分に読み取る事が出来た。
 神の落し子であるがゆえに命を狙われ、心に傷を負ったシェリルが己の身を守る為に本当の姿を隠してきた。いつ訪れるとも分からない恐怖に怯えながら、この小さな体で今まで必死に耐えてきたシェリルを思い、カインはその胸に小さな痛みを覚える。

「一体何に怯えているのか知らないが、……お前なぁ、自分が呼び出した天使を誰だと思ってるんだ?」

「……え?」

「俺は天界戦士だぜ? お前ひとり守るくらいわけはない」

 少しぶっきらぼうに、でも優しくそう言ったカインを見上げたシェリルは胸がじんと熱くなるのを感じて恥ずかしそうに下を向いた。

 あの黒く邪悪な存在に、エレナやクリスティーナたち他の人間を巻き込んではいけないと強く思っていたシェリルは、今までずっとひとりで耐えるしかなかった。正体すら定かではない邪悪な闇に立ち向かおうとしているシェリルを、カインは助けてやるといとも簡単に言ってのける。彼の自信がどこから来るものなのか分からなかったが、その言葉を信じてみてもいいとシェリルは思い始めていた。なぜだかわからないが、心のずっと奥の方で何かがそう告げているような気がした。

「とりあえず、宮殿へ行ってはいかがです?」

 ルーヴァに促されベッドから立ち上がったシェリルは、いつのまにか自分がきちんとした白い服を着ている事に気付いた。それは驚くほどシェリルの体にぴったりで、同じように用意されていたサンダルもサイズを測ったように足に合う。

「サイズもぴったりですね、よかった」

 平然と言ってのけたルーヴァは、刺すような鋭い二人の視線を受けながらも慌てる様子すら見せず、逆ににっこりと微笑んでみせる。

「服は魔法で着せたので安心して下さい。眠っている女性の服を脱がすなんてカインみたいな事はしませんよ」

「なんだよ、その例えは」

 思わず弁解しようと身を乗り出したカインを宥めるように、ルーヴァはその肩を軽く叩いて窓の外に見える宮殿を指差した。

「ほら、行かなくていいんですか?」

 指差された宮殿に目を向けたカインは、仕方なさそうに大きく息を吐いてそれ以上何かを言う事を止め、長い前髪をかきあげながらシェリルへと手を伸ばした。

「シェリル、行くぞ」

「どこへ?」

 訊ね返したシェリルを見たカインは視線を再び宮殿へと戻して、そこにいるはずの女神の事を思い浮かべる。
 彼女は女神がどうなっているのかを知らない。しかしそれがシェリルの願いであるなら、カインはそれを叶えてやるしかないのだ。

「月の宮殿。女神のいる所だ」
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