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4・秘めやかな逢瀬
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揺れている。
風もないのに、さわさわと。
秘めやかに揺れる、無数の花弁は薄紫。
『薄紅』
名を呼ばれた気がして、目を覚ました夜半。闇を照らす月光が障子を突き抜けて、夜中だというのに部屋を明るく照らしていた。
羽織を肩にかけ、縁側に続く障子をそっと開ける。冷たい夜気が肌を撫で、身震いした薄紅が羽織を胸元で握りしめた。
見上げた漆黒の空に、煌々と輝く白い月。降り注ぐ月光はどこまでも清浄で、何もかもを浄化する神々しささえ感じられる。
息をするのも躊躇われる静謐の夜。風さえもそよぐのを忘れて止まる中、ただひとつ――庭の藤だけが囁き合うように揺れていた。
無数に連なる花房が、まるで急かすようにより一層強くざわめいた。
脳の奥を揺さぶる濃い藤の香に、薄紅の思考が一瞬途切れる。弾き出されそうになった意識を引き戻して瞼を開けると、藤の幹に寄り添うようにして白い着物を来た男が立っていた。
腰よりも長い白髪を靡かせ、白い着物に紫の長羽織を着た男の姿は藤の精とも見紛うほどに美しい。
頭に生えた二本の角。こちらを見つめる緋の双眸。そのどちらもが男の存在を人ではないと認識させるには充分であったが、薄紅が彼を恐れる気配は微塵もなかった。
「こんばんは」
薄紅が声をかけると、男がかすかに目尻を下げる。無表情で言葉すら交わせない男の感情が、今の薄紅には手に取るように分かる。
病床にある時からずっと、男は藤の下に現れていた。藤の下で自分を見つめる赤い瞳に慈愛や憂慮と言った感情が見て取れるようになるまで時間は要したが、今ではほんの僅かな仕草だけでも男が何を思っているのかを察することは容易だ。それほど濃密な時間を、薄紅は夜毎に重ねている。
「今日も東雲先生が見惚れていましたよ。本当に貴方の藤が好きなのね」
男がかすかに眉を下げる。その様子に薄紅が袖口を口元に当てて小さく笑う。
何をするでもなく、二人並んで藤を眺める穏やかな時間。ささやかなひとときの邪魔をしないよう、風も生き物もじっと声を潜めて見守っている。
はらり、と。
黒髪に舞い落ちた紫の花弁ひとひらに、男の長い指が伸びる。そのまま掬った髪を耳にかけてやり、男が僅かに身を屈めた。月光を背に、ぐっと距離の近くなった男の顔は、人ならざる者の妖艶な美しさの影に隠れて静かな哀情を併せ持っているようにも思えた。
薄紅の病弱な白い肌は、ほんの少しの動揺にさえ敏感に反応して赤く染まる。少し熱を持つ柔らかな頬を包み込んだ男の手のひらは冷たく、その温度差に決して交じり合うことのない互いの世界の遠さを感じて、その度に薄紅の心の奥は切ない痛みにきゅっと軋むのだった。
「貴方の声が、聞こえるといいのに」
頬を包む男の手に自身の両手を重ねて、薄紅がそっと目を閉じる。途端濃厚になる藤の香に、なぜだか涙が頬を滑り落ちていった。
胸を締め付ける痛みの意味を、薄紅は知らない。
零れ落ちる涙の理由も、藤のあやかしに惹かれてしまう思いの名前も、全てを知るには今の薄紅ではまだ早い。
けれど、何れ時は満ちる。
そしてそれは今のように優しいだけの時間ではないことを、薄紅は無意識に理解していた。
風もないのに、さわさわと。
秘めやかに揺れる、無数の花弁は薄紫。
『薄紅』
名を呼ばれた気がして、目を覚ました夜半。闇を照らす月光が障子を突き抜けて、夜中だというのに部屋を明るく照らしていた。
羽織を肩にかけ、縁側に続く障子をそっと開ける。冷たい夜気が肌を撫で、身震いした薄紅が羽織を胸元で握りしめた。
見上げた漆黒の空に、煌々と輝く白い月。降り注ぐ月光はどこまでも清浄で、何もかもを浄化する神々しささえ感じられる。
息をするのも躊躇われる静謐の夜。風さえもそよぐのを忘れて止まる中、ただひとつ――庭の藤だけが囁き合うように揺れていた。
無数に連なる花房が、まるで急かすようにより一層強くざわめいた。
脳の奥を揺さぶる濃い藤の香に、薄紅の思考が一瞬途切れる。弾き出されそうになった意識を引き戻して瞼を開けると、藤の幹に寄り添うようにして白い着物を来た男が立っていた。
腰よりも長い白髪を靡かせ、白い着物に紫の長羽織を着た男の姿は藤の精とも見紛うほどに美しい。
頭に生えた二本の角。こちらを見つめる緋の双眸。そのどちらもが男の存在を人ではないと認識させるには充分であったが、薄紅が彼を恐れる気配は微塵もなかった。
「こんばんは」
薄紅が声をかけると、男がかすかに目尻を下げる。無表情で言葉すら交わせない男の感情が、今の薄紅には手に取るように分かる。
病床にある時からずっと、男は藤の下に現れていた。藤の下で自分を見つめる赤い瞳に慈愛や憂慮と言った感情が見て取れるようになるまで時間は要したが、今ではほんの僅かな仕草だけでも男が何を思っているのかを察することは容易だ。それほど濃密な時間を、薄紅は夜毎に重ねている。
「今日も東雲先生が見惚れていましたよ。本当に貴方の藤が好きなのね」
男がかすかに眉を下げる。その様子に薄紅が袖口を口元に当てて小さく笑う。
何をするでもなく、二人並んで藤を眺める穏やかな時間。ささやかなひとときの邪魔をしないよう、風も生き物もじっと声を潜めて見守っている。
はらり、と。
黒髪に舞い落ちた紫の花弁ひとひらに、男の長い指が伸びる。そのまま掬った髪を耳にかけてやり、男が僅かに身を屈めた。月光を背に、ぐっと距離の近くなった男の顔は、人ならざる者の妖艶な美しさの影に隠れて静かな哀情を併せ持っているようにも思えた。
薄紅の病弱な白い肌は、ほんの少しの動揺にさえ敏感に反応して赤く染まる。少し熱を持つ柔らかな頬を包み込んだ男の手のひらは冷たく、その温度差に決して交じり合うことのない互いの世界の遠さを感じて、その度に薄紅の心の奥は切ない痛みにきゅっと軋むのだった。
「貴方の声が、聞こえるといいのに」
頬を包む男の手に自身の両手を重ねて、薄紅がそっと目を閉じる。途端濃厚になる藤の香に、なぜだか涙が頬を滑り落ちていった。
胸を締め付ける痛みの意味を、薄紅は知らない。
零れ落ちる涙の理由も、藤のあやかしに惹かれてしまう思いの名前も、全てを知るには今の薄紅ではまだ早い。
けれど、何れ時は満ちる。
そしてそれは今のように優しいだけの時間ではないことを、薄紅は無意識に理解していた。
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