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2・唐棣家の一人娘

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「いやぁ、いつ見ても見事な藤ですな」

 縁側に腰掛けた初老の男が、出された茶を啜りながら庭園の藤棚を眺めて感嘆の声を漏らした。

東雲しののめ先生は、恐ろしくはないのですか?」

 隣に座って一緒に藤を見ていた蘇芳すおうの表情は硬かった。眉を寄せ、厳しい表情を浮かべる蘇芳すおうの様子は、美しいものを見て陶酔する東雲しののめとは対照的だ。その理由を察して、東雲しののめが目尻を少し下げて蘇芳すおうを見やる。

「鬼憑きと、言いたい者には言わせておけばいいのです。確かに一年中花を咲かせる藤とは、珍しさを通り越して奇っ怪ではありますが……この藤のおかげで薄紅うすべに様が回復されたことは事実ですからな。唐棣はねず家の守り神と思えば恐ろしさを感じることもありますまい」

 優しい声音で助言されても、蘇芳すおうはそういう気持ちで藤を見る事は出来ないだろうと諦めに似た溜息を落とした。


 唐棣はねずの家の庭には、見事な花を付ける一本の藤がある。二年前――ちょうど一人娘の薄紅うすべにが病に罹った頃から年中花を咲かせるようになり、枯れることのない藤を見て畏怖した人々がいつしか「鬼憑き」と呼ぶようになっていった。
 真偽のほどは分からないが、藤の木の下にあけ色の瞳をした美しい鬼がいるとも言われ、残念なことにそう言ったあやかしと波長の合ってしまった使用人はいとまを願い出て屋敷を去って行くことがほとんどだった。

 唐棣はねず家の当主蘇芳すおうは、未だその鬼の姿を見たことはない。
 使用人が長続きしないだけで他にこれと言った問題もなく、むしろ満開の藤の美しさを年中堪能できると、東雲しののめをはじめ大半が鬼憑きの藤に好意的だ。

 しかし蘇芳すおうの心は、いつも何かに怯えていた。

 藤を見て、純粋に美しいと思う。けれどその妖しい魅力の影に隠れた「何か」が、時折ひどく心を揺さぶってくるのだ。
 風に揺れる花の囁きすら、誰かの声に聞こえて恐ろしく感じることもある。いっそのこと切り倒してしまおうかと思ったこともあったが、そうしないのは病に罹っていた一人娘の薄紅うすべにが藤の花に元気付けられて見事病を克服したからだ。
 藤を切り倒すことで、再び薄紅うすべにが臥せってしまうのではないかと思うと、蘇芳すおうは安易に藤に手を出す事ができなかった。

「あ、東雲しののめ先生。いらしてたんですね。ちょうど良かった」

 名を呼ばれた東雲しののめが顔を上げると、縁側の角を曲がった奥の廊下から薄桃色の着物を着た女性が歩いてくるのが見えた。
 濡羽色の髪は背中の中程で艶やかに揺れ、耳の後ろに挿した白い花飾りとの対比が美しい。着物の裾にちりばめられた小花と蝶の模様も華美ではなく、儚い雰囲気を纏う彼女に良く似合っていた。

「これは薄紅うすべに様。今日のお加減はいかがですかな?」

「最近はずっと調子がいいんですよ。これも東雲しののめ先生のおかげですね」

 二年間床に臥せっていた為か、薄紅うすべにの肌は他と比べてもはるかに白い。それでも血色の良い唇が弧を描くと、東雲しののめの心は僅かばかり安堵した。

 東雲しののめは二年間ずっとこの家に通い、薄紅うすべにを診療してきた医者だ。薄紅うすべにが目を覚ましてから半年ほど経った今では、診療と言うよりはこうして蘇芳すおうの茶飲み仲間として唐棣はねずの家を訪れることの方が多くなった。
 医者として、仕事は少ない方がいい。病を発症した当時の薄紅うすべにのことを思うと、今の儚く頼りない微笑でさえ明るい太陽のように東雲しののめの目には眩しく映る。それがいかに奇跡的な回復かは、薄紅うすべにをずっと近くで診てきた東雲しののめが一番よく分かっていた。

青磁せいじさんにお借りしていた本なんですけど、東雲しののめ先生から返して頂けませんか?」

 差し出された紺色の風呂敷は東雲しののめにも見覚えがある。読書好きの弟子が愛用している風呂敷は、ここ数ヶ月医学書や覚書といった仕事に関わるものを一切包んでいない。代わりに女性が好みそうな物語ばかりを包んでいる風呂敷に、東雲しののめは口の端が緩みそうになるのを必死に堪えて茶を啜った。

「それは構いませんが……もしかすると青磁せいじが気落ちするかもしれませんな」

「え?」

薄紅うすべに様に会える口実が減ってしまったと」

 東雲しののめの言わんとすることを知り、薄紅うすべにの頬がさっと朱を帯びる。非難混じりに頬を膨らませる仕草も可憐で、東雲しののめは今度こそ堪えきれずに声を漏らして小さく笑った。



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