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第1章 新米白魔道士現る!
赤い指輪
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雪の降る、冷たい夜の事だった。
『これを君にあげるよ。約束の印に』
月のない夜。しんしんと降り積もる真白の中で、夜よりも深い色の髪をした少年があどけない笑顔を向ける。
『約束? 何の?』
『……それはね』
遠い日の幻影が、記憶の中で降り積もる雪と重なり合い、溶けて消えていく。
優しい熱に包まれた淡い微笑。夜を象ったかのような、その姿。触れ合った指先の、凍える冷たさ。
記憶に刻まれた光景が、見開いたレフィスの瞳の裏側でぐにゃりと曲がる。曲がって、そのまま青黒い大きな手のひらに握り潰されようとしていた。
「レフィス!」
間近で叫ばれたかのように大きな声で呼ばれ、レフィスの意識がぱちんと弾けた。反射的に見開いた瞳が、青黒い不気味な色に染め上げられる。死に逝く男が膨張した体ごと傾いて、そのままレフィスを捕らえようとしていた。
(……いや)
目前に迫る気味の悪い体を目にして、レフィスの声が一気に枯れた。喉は干上がり、悲鳴は愚か呼吸すらままならない状態にまで陥ってしまう。
膨張しする体に耐え切れず飛び出した眼球が、糸を引いて床に落ちる。それを踏み潰して、レフィスに覆い被さるように倒れこむ体。ぶくぶくに膨れ上がった体の肉に押し込まれていたもう片方の眼球が、真上からレフィスを見下ろしたままにやりと笑った。
(嫌だ。こんな所で死にたくないっ)
ぎりっと唇を噛んで、レフィスが床に座り込んだままの自分の体に力を入れる。石のように固まった足が、少しだけ動いた。
(私……まだユーリに会ってないのにっ!)
閉じた瞼の裏側に幼い頃に出会った少年を思い出して、レフィスが右手に掴んでいた宝物の赤い指輪をぎゅっと強く握り締めた。
「レフィスっ!」
離れた所で自分を呼ぶ声が、遠い日の少年の声と重なり合う。閉じた瞼の向こう、かすかに見えていた光が消えた。
――――我を求めるか。小さき者よ。
聞いた事もない男の声がした。
透き通るようで、低く、まるで闇夜を照らす細い月光のような声音。恐ろしいようで、寂しげな不思議な声は、耳ではなく脳に直接響いてくる。
何事かと閉じていた瞼を開いて、レフィスは唖然とした。
今まさに自分に覆い被さろうとしていた青黒い肉塊が、レフィスの真上で凍りついたように止まっている。驚いて見回した先で、こちらに駆け寄ろうとしていたユリシスまでもが走り出した姿のまま時を止めていた。
「……な、何?」
――――命の雫により、我目覚めたり。
再度、あの声がした。けれど姿はどこにもなく、不安定な声だけがレフィスの中に木霊する。
――――我に汝の名を刻め。
握り締めたままだった右手に貫くような熱が宿る。一瞬の痛みに慌てて開いた右手の上で、レフィスの血に濡れた指輪が鈍い色に光っていた。
「……指輪が」
――――我に汝の名を刻め。
声が響く度に、手のひらの指輪が赤く光る。その光に魅入られたかのように、レフィスが指輪の赤い石を凝視する。血に濡れた石の表面に、見た事もない男の姿が垣間見えたような気がした。
「……ス」
レフィスの唇がかすかに動く。ほとんど無意識に、けれど逆らう事なく、レフィスは指輪の赤に魅入られたまま自分の名前を口にした。
「レフィス」
――――レフィス。小さき者よ。血の契約は成された。
さっきより少し高くなった声がそう告げると同時に、手のひらの指輪がレフィスの血を吸って更に深い赤に変わる。かと思うと、目も開けられないくらいの眩い光を解き放った。
獣の咆哮にも似た絶叫を間近に聞いて、レフィスが弾かれたように目を開けた。深紅の靄に包まれた視界が一瞬にしてぐらりと傾き、そして右に流れていく。焼け焦げて真っ黒になった肉塊を瞳に確認すると同時に、レフィスは自分がユリシスに左腕を掴まれ引き寄せられていた事に気付いた。
「……ユリシス?」
「お前……何をした」
何が起こったのかまるで分からず、答えを求めて見上げた先で、同じようにユリシスも眉間に深い皺を寄せたまま不可解な表情を浮かべていた。レフィスを見下ろす瞳が、彼女をどことなく訝しんでいるようにも見える。
「何って……何があったの?」
「覚えてないのか?」
不審に問いかけるユリシスに頷いて、レフィスが未だぶすぶすと煙を上げている焼け焦げた肉塊へと目を向けた。ユリシスが魔法で焼き尽くしてくれたのなら納得もいくのだが、当の本人はその答えをレフィスに求めた。けれどレフィスとて、一体何がどうしてこうなったのかがまるで理解できない。そもそもあれを焼き尽くすだけの魔法など、今のレフィスが操れるはずもなかった。
「あの男がお前を飲み込む瞬間、赤い光と共に炎が現われた」
お前じゃないのかと問うような視線を向けてくるが、レフィスはただ首を横に振るだけしか出来ない。何が起こったのか、覚えているのは……そう、あの奇妙な声だけだ。
「私にそんな魔法、扱えるはずないじゃない」
「それもそうだが……」
「……でも」
歯切れ悪く言葉を切ったレフィスだったが、やがて決心したように握り締めたままだった右手を胸の前に上げた。
「もう駄目だって思った時に……声がしたの」
「声?」
「うん。……求めるだとか、命の雫だとか」
曖昧な記憶を辿ってゆっくり言葉を吐きながら、レフィスがまだ少し戸惑いながら握り締めたままだった右手を静かに開く。血に濡れた赤い指輪が妖しげな光を湛えたまま、その赤にユリシスの驚愕した表情を映し出した。
「名前を教えたら、血の契約がどうとかって。……信じて、ない?」
てっきり笑われるか馬鹿にされるだろうと構えていたレフィスだったが、ユリシスの反応は鈍く、その表情は明らかに驚きと激しい動揺に満たされていた。大きく見開いた瞳で、レフィスの手のひらに乗った赤い指輪を凝視している。半開きのままの唇が僅かに震えていた。
「ユリシス?」
「……お前……契約を、交わしたのかっ」
「何だかよく分からなかったんだけど……って、あれ? ユリシス、この指輪知ってるの?」
「……っ」
レフィスの問いには答えず、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて、ユリシスが唇をきつく噛み締めた。今までほとんど表情を変えなかった彼が初めて見せた激しい感情に、レフィスはなぜか戸惑い、聞きたい事の半分も聞けないまま言葉を喉に詰まらせる。
「……それは、人目につかないようにしていろ」
「どうして? この指輪がどうかしたの?」
「どうもしない。帰るぞ」
「ちょっと待ってよ! 少しくらい説明してくれてもいいじゃない」
足早に歩き出したユリシスの後ろを駆け足で追いかけて、レフィスが彼のマントの端を掴みながら食い下がる。
「説明する事は何もない。敵の前に飛び出すほど大事な物なんだろ。もう二度と落とさないように気をつけるんだな」
それだけ言うと後はもう一言も口を開かず、ユリシスはひとりでさっさと城を出て行った。足の長さの違いか、それともユリシスが故意に早く歩いて行ったのか、レフィスが数分遅れでやっと城の外に顔を出した。てっきり一人で帰っているだろうと思っていたユリシスが待っていてくれた事に驚きつつも、レフィスは自分の顔がかすかに綻んでいるのを感じて慌てて首を横に振った。
「……ねえ、ユリシス。この指輪……」
「それは素人の俺が見ても高価な物だ。あまり人前に出すと盗まれるぞ」
「嘘!」
ぎょっとしたレフィスが、慌てて指輪をハンカチに包んでバッグの中にしまい込んだ。普段は首飾りにして肌身離さず持っているのだが、あいにくと今は首飾りのチェーンが壊れてしまっている。不安げな表情を浮かべながらバッグを抱え込むレフィスの様子に、ユリシスが口角をかすかに上げて笑った。
「単純」
ぽつりと唇から零れ落ちた言葉はレフィスに届く事なく、降り積もる雪と一緒に溶けて消えていった。
『これを君にあげるよ。約束の印に』
月のない夜。しんしんと降り積もる真白の中で、夜よりも深い色の髪をした少年があどけない笑顔を向ける。
『約束? 何の?』
『……それはね』
遠い日の幻影が、記憶の中で降り積もる雪と重なり合い、溶けて消えていく。
優しい熱に包まれた淡い微笑。夜を象ったかのような、その姿。触れ合った指先の、凍える冷たさ。
記憶に刻まれた光景が、見開いたレフィスの瞳の裏側でぐにゃりと曲がる。曲がって、そのまま青黒い大きな手のひらに握り潰されようとしていた。
「レフィス!」
間近で叫ばれたかのように大きな声で呼ばれ、レフィスの意識がぱちんと弾けた。反射的に見開いた瞳が、青黒い不気味な色に染め上げられる。死に逝く男が膨張した体ごと傾いて、そのままレフィスを捕らえようとしていた。
(……いや)
目前に迫る気味の悪い体を目にして、レフィスの声が一気に枯れた。喉は干上がり、悲鳴は愚か呼吸すらままならない状態にまで陥ってしまう。
膨張しする体に耐え切れず飛び出した眼球が、糸を引いて床に落ちる。それを踏み潰して、レフィスに覆い被さるように倒れこむ体。ぶくぶくに膨れ上がった体の肉に押し込まれていたもう片方の眼球が、真上からレフィスを見下ろしたままにやりと笑った。
(嫌だ。こんな所で死にたくないっ)
ぎりっと唇を噛んで、レフィスが床に座り込んだままの自分の体に力を入れる。石のように固まった足が、少しだけ動いた。
(私……まだユーリに会ってないのにっ!)
閉じた瞼の裏側に幼い頃に出会った少年を思い出して、レフィスが右手に掴んでいた宝物の赤い指輪をぎゅっと強く握り締めた。
「レフィスっ!」
離れた所で自分を呼ぶ声が、遠い日の少年の声と重なり合う。閉じた瞼の向こう、かすかに見えていた光が消えた。
――――我を求めるか。小さき者よ。
聞いた事もない男の声がした。
透き通るようで、低く、まるで闇夜を照らす細い月光のような声音。恐ろしいようで、寂しげな不思議な声は、耳ではなく脳に直接響いてくる。
何事かと閉じていた瞼を開いて、レフィスは唖然とした。
今まさに自分に覆い被さろうとしていた青黒い肉塊が、レフィスの真上で凍りついたように止まっている。驚いて見回した先で、こちらに駆け寄ろうとしていたユリシスまでもが走り出した姿のまま時を止めていた。
「……な、何?」
――――命の雫により、我目覚めたり。
再度、あの声がした。けれど姿はどこにもなく、不安定な声だけがレフィスの中に木霊する。
――――我に汝の名を刻め。
握り締めたままだった右手に貫くような熱が宿る。一瞬の痛みに慌てて開いた右手の上で、レフィスの血に濡れた指輪が鈍い色に光っていた。
「……指輪が」
――――我に汝の名を刻め。
声が響く度に、手のひらの指輪が赤く光る。その光に魅入られたかのように、レフィスが指輪の赤い石を凝視する。血に濡れた石の表面に、見た事もない男の姿が垣間見えたような気がした。
「……ス」
レフィスの唇がかすかに動く。ほとんど無意識に、けれど逆らう事なく、レフィスは指輪の赤に魅入られたまま自分の名前を口にした。
「レフィス」
――――レフィス。小さき者よ。血の契約は成された。
さっきより少し高くなった声がそう告げると同時に、手のひらの指輪がレフィスの血を吸って更に深い赤に変わる。かと思うと、目も開けられないくらいの眩い光を解き放った。
獣の咆哮にも似た絶叫を間近に聞いて、レフィスが弾かれたように目を開けた。深紅の靄に包まれた視界が一瞬にしてぐらりと傾き、そして右に流れていく。焼け焦げて真っ黒になった肉塊を瞳に確認すると同時に、レフィスは自分がユリシスに左腕を掴まれ引き寄せられていた事に気付いた。
「……ユリシス?」
「お前……何をした」
何が起こったのかまるで分からず、答えを求めて見上げた先で、同じようにユリシスも眉間に深い皺を寄せたまま不可解な表情を浮かべていた。レフィスを見下ろす瞳が、彼女をどことなく訝しんでいるようにも見える。
「何って……何があったの?」
「覚えてないのか?」
不審に問いかけるユリシスに頷いて、レフィスが未だぶすぶすと煙を上げている焼け焦げた肉塊へと目を向けた。ユリシスが魔法で焼き尽くしてくれたのなら納得もいくのだが、当の本人はその答えをレフィスに求めた。けれどレフィスとて、一体何がどうしてこうなったのかがまるで理解できない。そもそもあれを焼き尽くすだけの魔法など、今のレフィスが操れるはずもなかった。
「あの男がお前を飲み込む瞬間、赤い光と共に炎が現われた」
お前じゃないのかと問うような視線を向けてくるが、レフィスはただ首を横に振るだけしか出来ない。何が起こったのか、覚えているのは……そう、あの奇妙な声だけだ。
「私にそんな魔法、扱えるはずないじゃない」
「それもそうだが……」
「……でも」
歯切れ悪く言葉を切ったレフィスだったが、やがて決心したように握り締めたままだった右手を胸の前に上げた。
「もう駄目だって思った時に……声がしたの」
「声?」
「うん。……求めるだとか、命の雫だとか」
曖昧な記憶を辿ってゆっくり言葉を吐きながら、レフィスがまだ少し戸惑いながら握り締めたままだった右手を静かに開く。血に濡れた赤い指輪が妖しげな光を湛えたまま、その赤にユリシスの驚愕した表情を映し出した。
「名前を教えたら、血の契約がどうとかって。……信じて、ない?」
てっきり笑われるか馬鹿にされるだろうと構えていたレフィスだったが、ユリシスの反応は鈍く、その表情は明らかに驚きと激しい動揺に満たされていた。大きく見開いた瞳で、レフィスの手のひらに乗った赤い指輪を凝視している。半開きのままの唇が僅かに震えていた。
「ユリシス?」
「……お前……契約を、交わしたのかっ」
「何だかよく分からなかったんだけど……って、あれ? ユリシス、この指輪知ってるの?」
「……っ」
レフィスの問いには答えず、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて、ユリシスが唇をきつく噛み締めた。今までほとんど表情を変えなかった彼が初めて見せた激しい感情に、レフィスはなぜか戸惑い、聞きたい事の半分も聞けないまま言葉を喉に詰まらせる。
「……それは、人目につかないようにしていろ」
「どうして? この指輪がどうかしたの?」
「どうもしない。帰るぞ」
「ちょっと待ってよ! 少しくらい説明してくれてもいいじゃない」
足早に歩き出したユリシスの後ろを駆け足で追いかけて、レフィスが彼のマントの端を掴みながら食い下がる。
「説明する事は何もない。敵の前に飛び出すほど大事な物なんだろ。もう二度と落とさないように気をつけるんだな」
それだけ言うと後はもう一言も口を開かず、ユリシスはひとりでさっさと城を出て行った。足の長さの違いか、それともユリシスが故意に早く歩いて行ったのか、レフィスが数分遅れでやっと城の外に顔を出した。てっきり一人で帰っているだろうと思っていたユリシスが待っていてくれた事に驚きつつも、レフィスは自分の顔がかすかに綻んでいるのを感じて慌てて首を横に振った。
「……ねえ、ユリシス。この指輪……」
「それは素人の俺が見ても高価な物だ。あまり人前に出すと盗まれるぞ」
「嘘!」
ぎょっとしたレフィスが、慌てて指輪をハンカチに包んでバッグの中にしまい込んだ。普段は首飾りにして肌身離さず持っているのだが、あいにくと今は首飾りのチェーンが壊れてしまっている。不安げな表情を浮かべながらバッグを抱え込むレフィスの様子に、ユリシスが口角をかすかに上げて笑った。
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