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第1部

哀愁別離

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 呼ばれている。
 闇の向こうから、呪文のように心を惑わす言霊が続いていた。

 その声音を、知っている。

 忘れたいと願っているのに、心の奥に染み付いたそれは決して消えてはくれない。あの夜と同じ、妖しい艶を含んだ声で手招きする。

 揺らぐ闇の彼方に垣間見える、捕われるような深い紫。それに気付いた瞬間、辺りを取り巻く漆黒の闇が無数の黒薔薇に姿を変え、崩れるようにその花弁を散らせていった。



  †     †     †     †



 自分の中にあるもうひとつの感情。それを感じ取るのに、時間はかからなかった。
 ずっと心の奥で、起こされるのを待っていたような気がする。初めからそこにあって、たったひとつの鍵で開く扉の奥に待っていたのは、とても深くて強い愛情だった。
 それは自分の感情であって、そうではないもの。けれど優しさに満ちた愛情は、何の抵抗もなく指の先にまでじわりと染み込んでくる。愛しさに震え、伸ばした指先に求めたものは、今も昔も同じたったひとつの闇だった。

 目覚めた思いに確信する。
『わたし』はレベッカであり、そしてリナティシアなのだと。


「……」

 言葉が何も見つからなかった。
 遠い意識の果てで今なお求め続けるものを知り、それを拒む事無く受け入れたと言うのに、思いは何ひとつ彼に届かずに消滅してしまった。
 心のどこかで、拒絶されない自信があった。だからこそ自分を否定された瞬間のショックはあまりにも大きく、レベッカは自分が何者であるのかさえ分からず激しく混乱する。

『貴女に、私の何が分かると言うのですか』

 問われた言葉に、再度胸が締め付けられる。曖昧な夢の中で、はるか昔の過去を垣間見たかもしれないと言う不確かな意識に捕われて、レベッカは自分がリナティシアでありキールと愛し合った仲なのだと勘違いした。

 そう、キールが愛したのはレベッカではなくリナティシアなのだ。レベッカがどんなに彼を思おうとも、その思いは報われない。向けられる瞳に揺らぐ愛情は、レベッカの奥に隠れたリナティシアに捧げられるものなのだから。
 自分の心に芽生えた思いがリナティシアのものなのか、それとも自分のものなのか、レベッカはそれすら判断できずにいた。

「私は……誰なの」



  †     †     †     †



 暗い部屋だった。かすかに異臭がする。暗黒の古城で嗅いだ、不快な闇の匂いと似ていた。
 部屋の中は広く、どこまでも暗い。ひとつだけある窓からかすかに差し込む弱い月光が、室内を頼りなく照らしていた。

 黒曜石で出来た床。壁には黒に近い赤の垂れ幕がかかっている。目を凝らしてみると、床一杯にくすんだ白で描かれた魔法陣が敷かれていた。

 部屋の中が異様な空気に包まれている。呼吸する息が、凍えて白く見えたような気がした。

「……何、ここ」

 自分の部屋へ戻ったつもりが、どこをどう間違えたのかレベッカは見たこともない不気味な部屋に迷い込んでいた。明らかに空気が違う。それ以上先へ進んではいけないと、心の奥が警報を打ち鳴らしていた。
 こちら側とは、違う世界。足を踏み入れてはいけない。分かっているのに、それなのに。

 床に描かれた魔法陣の中央、そこに揺らめく影がレベッカを闇の世界へ誘っていた。

 導かれるように歩を進め、魔法陣の中へ足を踏み入れる。月が雲に隠れた事で、部屋の中が一瞬翳った。それすら気に止める様子なく、レベッカが無意識のまま中央の影の前で立ち止まる。
 影が揺れた。瞬間、雲間から顔をのぞかせた月が、弱い光を窓の外から遠慮がちに降り注ぐ。

 ――――そこにあったのは、見覚えのある忌まわしき黒十字だった。



 血塗られた教会。
 親しき者だった事を語らない肉塊。
 無情に突き刺さった、呪いの如き黒十字。

「……嘘」

 震える唇が辛うじて紡いだ言葉が、闇に攫われて消える。口元を押えた指が、かたかたと震えていた。震えは全身に広がり、レベッカは立つ事もままならずその場にぺたんと座り込んだ。

 どうして忘れる事が出来ようか。未だ脳裏に焼きついた惨劇。優しい微笑みを向ける神父の面影を無くした、ただの肉。どこまでも濃い血臭。あれは教会と言う名の地獄だった。
 人間業ではない地獄絵図の中で、神父だったものが黒い十字架に貫かれて横たわっていた。その光景、その中に異色を放つ黒十字を、レベッカは忘れるはずがなかった。

 神父の命を奪った黒十字。人のなせる業とは思えない光景。そしてこの部屋にある同じ黒十字が意味するもの。

「見たのね」

 レベッカの背後で、少女の声がした。振り返ったそこに、赤いワンピースを着たイヴが冷めた目でレベッカを見下ろしていた。

「それで、貴女は何を導き出したの?」

「……神父様を……殺したの?」

 ひどくゆっくりと紡がれた言葉に、イヴが満足したのか淡い笑みを浮かべて頷いた。

「だから言ったはずよ。貴女は光で、私たちは闇。相容れる事は出来ないわ」

「……どうして」

「光ある世界へ戻りなさい。それがお互いの為でもあるわ。もうひとりの私、レベッカ=クロフォード」

 淡々と告げて、その場にレベッカを残したままイヴが部屋を後にする。冷たく響く足音が消えてしまっても、レベッカはその場を動く事が出来なかった。



  †     †     †     †



 どこから狂ってしまったのか、記憶の糸を手繰り寄せてみても、確かな答えは出てこない。
 何を求めているのか。自分は何をしたいのか。いろんな事が一度に起り、レベッカの思考がそれについていけずに彷徨い出す。頭の中をかき回されているような不快感。はっきりとしない意識と気持ちに、激しい吐き気がする。

 もう何も考えたくない。呆然と空を見つめたまま、レベッカが涙に濡れた瞳を静かに閉じる。このまま目覚める事のない眠りに落ちてしまえたら、どんなにいいだろうか。
 そう願った瞬間、レベッカの意識がゆっくりと途切れていった。

 ぐらりと傾いた体。その背後に音もなく現れた深い闇が見る間に人の形を留めていき、レベッカが倒れるその前に彼女の体を両腕にしっかりと抱き止めた。
 腕に抱いた瞬間に漂う甘い香り。それを堪能するように閉じた目を静かに開き、その奥に輝く深い紫の瞳に愛しい肢体を映し出す。かすかに開いた唇から、感嘆にも似た吐息が零れ落ちた。

「もっと深い眠りへ君を誘おう」

 呪文のように囁いて、シアンがレベッカの体を抱き上げた。一気に舞うレベッカの匂いを胸一杯に吸い込んで、背後の黒十字をちらりと見やる。その横顔に、かすかな笑みが浮かんでいた。

「ああ、君が愛しいよ。僕のリナティシア。どうやって、時を止めてあげようか」

 腕に抱いたレベッカへ顔を寄せてそう言ったシアンの体が、そのまま闇に包まれて消えていく。成す術もなくその場に残された黒十字は、弱い月光に照らされて悲しげに光を放つだけだった。
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