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第1部
悲運邂逅・Ⅱ
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「リィナっ!」
回廊を曲がり、闇に消え行こうとしていた金の幻影。その光の一筋を手に捕えて、キールが力任せに引き寄せた。
――ふわり。
懐かしい香りが金色の髪を揺らして、キールの胸をくすぐった。
かつて幾度となく腕に抱いた恋人の香り。今なお色褪せることのない香りを胸一杯に吸い込んで、キールは彼女を抱き締める腕にぎゅっと力を込める。少しでも緩めてしまえば、そこからまたするりと抜け出してしまいそうだった。今この瞬間、腕に抱いているのだという確かな証が欲しかった。
夢では満足しない。互いの熱を重ね、言葉を交わし、生きてここにいるのだと、あの懐かしい声でそう告げて欲しかった。キールを愛していると言った、あの汚れない声音で。
「…………キー、ル?」
「リィナっ!」
夢か現かはっきりしない声ではあったが、キールは確かに彼女の口から自分の名前を聞き取った。僅かな希望を抱いて、キールが彼女の顔をよく見ようと身を屈めた瞬間。
「いやっ!」
ぼんやりとしていた瞳が生気を取り戻したかと思うと、途端何かに怯えるように彼女がキールの腕の中で暴れ出した。何が起こったのか解らず、キールは暴れる彼女を更に強く抱き締める。それが返って逆効果になったのか彼女は半狂乱になりながら、自分を捕える腕の鎖から必死に逃げようと大声で泣き叫んだ。
「リィナっ。リィナ、落ち着いて」
「いやあっ! 放してっ。私に触らないで!」
「リィナ!」
――――美しい、僕のリナティシア。
「違うっ!」
――――会いたかったよ。ずっとね。
「…………私はっ」
――――大丈夫。死んでからも愛してあげる。
かすかによみがえる記憶の片隅で、深い紫色の瞳が揺れていた。ゆっくりと伸ばされた、白く華奢な右手。にぃっと横に引かれた、薄い唇。彼の背後に伸びた黒い影が人ではない何かに見えた瞬間、レベッカの意識はそこで途切れた。
かくんと、糸の切れた人形のように、レベッカの体がキールの胸の中へと倒れこんだ。涙に濡れた白い頬。かたく閉じられたままの瞳、その長い睫毛にはまだ涙の粒が煌いている。震えるように動いていた唇が何を紡いだのかは聞き取れなかったが、キールは何かとてつもない不安感を胸に抱いていた。
愛しい恋人の幻影。甘い過去への回想。腕に抱いた確かな温もりは決して夢ではなく、けれど冷静に判断すればこそ、それはありえない熱であった。
記憶の残骸に縋って泣いても、戻らないものは戻らない。どんなに願っても、それが形になりはしないことなど十分に理解していたはずだ。
そう、白百合の佳人は死んだのだ。今ここに存在できる訳がない。出来るとしたら、――それは。
「感動の再会は出来たのかい?」
前方の闇からふいに聞こえた声に、キールが鋭い視線を投げつけた。眼光だけで射殺せるほどの視線に、闇から現れた黒薔薇卿――シアン=グレノアが面白そうにくつくつと笑ってみせた。その笑い声すら、キールの神経を逆なでする。
「二人っきりの時間を作ってあげたんだよ? 感謝するべきだと言いたいところだが、相変わらずだね。君は」
「……シアンっ」
押し殺した低い声音に怯む様子もなく、シアンは前に組んでいた腕を解いて左右に広げ、おどけた格好を取ってみせる。明らかにキールの反応を見て楽しんでいるようだった。
「貴様、リィナに何をした!」
「何をしただって? おかしな話だね。僕らのリナティシアはあの日、君がその手で殺したじゃないか」
何かを知っている。知っていながら、そ知らぬ態度で弄ぶ。シアンを睨みつけたまま、キールがぎりっと強く歯を食いしばった。
「そうさせたのは誰だ!」
「君は本当に面白いね、キール。冷静に見えながら、すぐに熱くなる。だから真実を見落としてしまうんだよ。昔も今も」
「何が言いたい!」
「まだ解らない?」
ふうっと呆れたように溜息をついて、シアンがキールの腕の中で眠るレベッカへ舐めるような視線を向けた。それを感じて、キールがシアンからレベッカを守るように抱き締める。
「リナティシアの墓は君が結界を張って隠しているじゃないか。僕の目をうまく欺いたことは誉めるけど、そろそろ結界を解いてもいい頃じゃないのかい?」
「お前なんかにリィナは渡さない」
「キール。僕に、生きたリナティシアの体は要らないんだよ。君は今腕に抱いている生きたリナティシアを愛せばいい。僕は彼女の骨から死んだままの体を再生させる。お互いにとっても、何の不都合もないいい話だと思うけど?」
「……生きた?」
どくんっ、とキールの胸が脈を打つ。
わざわいなるかな。
その言霊は、これから起こるすべての悲劇の幕開けとなるであろう。
「そう。君が今抱いているのは、リナティシアの生まれ変わりさ」
言われ、暗示にかかってしまったかのように、キールは腕に抱いた乙女の顔を食い入るように覗き込む。未だ目を瞑っている彼女は否定しようもないほどリナティシアに生き写しではあるが、よくよく見るとその顔にはまだどことなく幼さが残っていた。
髪も瞳も声も匂いも、彼女から感じたものはすべてリナティシアそのものであった。これが幻ではなく、血の通う生きた人間だというのか。リナティシアの魂を持つ、唯一の存在だと。
キールの体はかすかに震えていた。運命とも言える、奇蹟の再会。それがこんなにも近くに存在していたとは。
「リィナ……」
「もう墓を守り続ける意味もないだろう? キール、そろそろ墓の結界を解いてくれないかい? 僕にはリナティシアの骨さえあればいい」
「……歪んだお前に、リィナを渡せと言うのか? 死者を愚弄するしか出来ないお前に」
ごうっと風がうねった。
キールを中心にして渦を巻く気の塊は、あっという間に二人の姿をシアンの前から覆い隠していく。大理石の床を削り、石柱をなぎ倒す勢いで強さを増す渦は、それこそ触れるものすべてを粉々に砕き去るキールの怒りだ。
それをいとも簡単に指先だけで防御して、シアンが感情のない冷たい微笑を浮かべた。
「生も死も、どちらも譲らないという訳か」
淡々と語られる言葉に、怒りや落胆のような感情はどこにも見られない。こうなる事をまるで予想していたかのように、シアンは自分の前から逃げ去っていく黒と金の人影を見つめながら、くつくつと声をあげて笑い出した。
「言ったはずだよ、キール。僕は、生きているリナティシアの体は要らない……とね」
謎めいた言葉だけを残して、シアンは再び闇の中へと姿を消していった。
回廊を曲がり、闇に消え行こうとしていた金の幻影。その光の一筋を手に捕えて、キールが力任せに引き寄せた。
――ふわり。
懐かしい香りが金色の髪を揺らして、キールの胸をくすぐった。
かつて幾度となく腕に抱いた恋人の香り。今なお色褪せることのない香りを胸一杯に吸い込んで、キールは彼女を抱き締める腕にぎゅっと力を込める。少しでも緩めてしまえば、そこからまたするりと抜け出してしまいそうだった。今この瞬間、腕に抱いているのだという確かな証が欲しかった。
夢では満足しない。互いの熱を重ね、言葉を交わし、生きてここにいるのだと、あの懐かしい声でそう告げて欲しかった。キールを愛していると言った、あの汚れない声音で。
「…………キー、ル?」
「リィナっ!」
夢か現かはっきりしない声ではあったが、キールは確かに彼女の口から自分の名前を聞き取った。僅かな希望を抱いて、キールが彼女の顔をよく見ようと身を屈めた瞬間。
「いやっ!」
ぼんやりとしていた瞳が生気を取り戻したかと思うと、途端何かに怯えるように彼女がキールの腕の中で暴れ出した。何が起こったのか解らず、キールは暴れる彼女を更に強く抱き締める。それが返って逆効果になったのか彼女は半狂乱になりながら、自分を捕える腕の鎖から必死に逃げようと大声で泣き叫んだ。
「リィナっ。リィナ、落ち着いて」
「いやあっ! 放してっ。私に触らないで!」
「リィナ!」
――――美しい、僕のリナティシア。
「違うっ!」
――――会いたかったよ。ずっとね。
「…………私はっ」
――――大丈夫。死んでからも愛してあげる。
かすかによみがえる記憶の片隅で、深い紫色の瞳が揺れていた。ゆっくりと伸ばされた、白く華奢な右手。にぃっと横に引かれた、薄い唇。彼の背後に伸びた黒い影が人ではない何かに見えた瞬間、レベッカの意識はそこで途切れた。
かくんと、糸の切れた人形のように、レベッカの体がキールの胸の中へと倒れこんだ。涙に濡れた白い頬。かたく閉じられたままの瞳、その長い睫毛にはまだ涙の粒が煌いている。震えるように動いていた唇が何を紡いだのかは聞き取れなかったが、キールは何かとてつもない不安感を胸に抱いていた。
愛しい恋人の幻影。甘い過去への回想。腕に抱いた確かな温もりは決して夢ではなく、けれど冷静に判断すればこそ、それはありえない熱であった。
記憶の残骸に縋って泣いても、戻らないものは戻らない。どんなに願っても、それが形になりはしないことなど十分に理解していたはずだ。
そう、白百合の佳人は死んだのだ。今ここに存在できる訳がない。出来るとしたら、――それは。
「感動の再会は出来たのかい?」
前方の闇からふいに聞こえた声に、キールが鋭い視線を投げつけた。眼光だけで射殺せるほどの視線に、闇から現れた黒薔薇卿――シアン=グレノアが面白そうにくつくつと笑ってみせた。その笑い声すら、キールの神経を逆なでする。
「二人っきりの時間を作ってあげたんだよ? 感謝するべきだと言いたいところだが、相変わらずだね。君は」
「……シアンっ」
押し殺した低い声音に怯む様子もなく、シアンは前に組んでいた腕を解いて左右に広げ、おどけた格好を取ってみせる。明らかにキールの反応を見て楽しんでいるようだった。
「貴様、リィナに何をした!」
「何をしただって? おかしな話だね。僕らのリナティシアはあの日、君がその手で殺したじゃないか」
何かを知っている。知っていながら、そ知らぬ態度で弄ぶ。シアンを睨みつけたまま、キールがぎりっと強く歯を食いしばった。
「そうさせたのは誰だ!」
「君は本当に面白いね、キール。冷静に見えながら、すぐに熱くなる。だから真実を見落としてしまうんだよ。昔も今も」
「何が言いたい!」
「まだ解らない?」
ふうっと呆れたように溜息をついて、シアンがキールの腕の中で眠るレベッカへ舐めるような視線を向けた。それを感じて、キールがシアンからレベッカを守るように抱き締める。
「リナティシアの墓は君が結界を張って隠しているじゃないか。僕の目をうまく欺いたことは誉めるけど、そろそろ結界を解いてもいい頃じゃないのかい?」
「お前なんかにリィナは渡さない」
「キール。僕に、生きたリナティシアの体は要らないんだよ。君は今腕に抱いている生きたリナティシアを愛せばいい。僕は彼女の骨から死んだままの体を再生させる。お互いにとっても、何の不都合もないいい話だと思うけど?」
「……生きた?」
どくんっ、とキールの胸が脈を打つ。
わざわいなるかな。
その言霊は、これから起こるすべての悲劇の幕開けとなるであろう。
「そう。君が今抱いているのは、リナティシアの生まれ変わりさ」
言われ、暗示にかかってしまったかのように、キールは腕に抱いた乙女の顔を食い入るように覗き込む。未だ目を瞑っている彼女は否定しようもないほどリナティシアに生き写しではあるが、よくよく見るとその顔にはまだどことなく幼さが残っていた。
髪も瞳も声も匂いも、彼女から感じたものはすべてリナティシアそのものであった。これが幻ではなく、血の通う生きた人間だというのか。リナティシアの魂を持つ、唯一の存在だと。
キールの体はかすかに震えていた。運命とも言える、奇蹟の再会。それがこんなにも近くに存在していたとは。
「リィナ……」
「もう墓を守り続ける意味もないだろう? キール、そろそろ墓の結界を解いてくれないかい? 僕にはリナティシアの骨さえあればいい」
「……歪んだお前に、リィナを渡せと言うのか? 死者を愚弄するしか出来ないお前に」
ごうっと風がうねった。
キールを中心にして渦を巻く気の塊は、あっという間に二人の姿をシアンの前から覆い隠していく。大理石の床を削り、石柱をなぎ倒す勢いで強さを増す渦は、それこそ触れるものすべてを粉々に砕き去るキールの怒りだ。
それをいとも簡単に指先だけで防御して、シアンが感情のない冷たい微笑を浮かべた。
「生も死も、どちらも譲らないという訳か」
淡々と語られる言葉に、怒りや落胆のような感情はどこにも見られない。こうなる事をまるで予想していたかのように、シアンは自分の前から逃げ去っていく黒と金の人影を見つめながら、くつくつと声をあげて笑い出した。
「言ったはずだよ、キール。僕は、生きているリナティシアの体は要らない……とね」
謎めいた言葉だけを残して、シアンは再び闇の中へと姿を消していった。
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