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第5章 悪魔の花嫁

29・さっきのキスをもう一度

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「おいで」

 何も言えずに俯いているとそっと手を引かれ、ルシェラはベッドから立ち上がった。そのままソファに座るよう促され、体に巻いたシーツを胸元で握りしめたまま目を伏せる。
 先程の甘く激しい余韻はすっかり消えてしまい、薄暗い室内に柔らかな明かりが灯される。瞼を優しく刺激する光に目を開けると、テーブルの上にルシェラの好きなメリダルのハーブティーが用意されていた。

「どうぞ。君の好きなお茶です」
「……ありがとう」
「以前君が貰ったものを拝借しただけです。気の利きすぎる君の幼馴染みには、正直嫉妬しそうですよ」

 そう軽口を叩けば、ルシェラの肩がおかしいくらいに跳ね上がる。手にしていたカップが揺れ、派手にこぼれたお茶がソーサーを汚した。

「ルシェラ」

 カタカタと小さく音を鳴らすカップを取り上げ、代わりにレヴィリウスがルシェラの両手を握りしめた。

「君が焦っているのは、あの神官のせいですか?」
「焦るって……何を」
「私を受け入れることを、ですよ」
「そんなこと、ないわ。私、自分の意思で……ここにいるもの。あのマントをネフィに預けた時に、自分がどうしたいのかもちゃんと考えたわ」

 ベッドの端、無造作に脱ぎ捨てられたマントは半分床にずり落ちている。皺だらけになったベッドの上にはまだ濃い熱が残っているようで、体の奥がじんと疼く感覚をルシェラは下唇を強く噛んで無視をした。

「もちろん、君の気持ちを疑う気はありません」

 俯くルシェラの顎を掬い、レヴィリウスの指先が桃色に色付く唇に触れる。ルシェラが噛み締めていた下唇を親指でゆるりと撫で、ほんの少しだけその爪の先を咥内へ押し入れた。

「私は君を愛したい。君は私に愛されたい」

 唇に触れられたまま、もう片方の手を腰に回され、ルシェラの体がレヴィリウスの方へと引き寄せられる。そのまま覗き込むように距離を詰められ、ルシェラの額を熱い吐息が掠めていく。
 至近距離でルシェラを見つめる菫色の瞳。まるで魅了の術を組み込んでいるかのように妖しく光る瞳の前では、きっとどんな嘘もすぐに見抜かれてしまうのだろう。

「ひとつ、確認をさせて下さい」
「確認、って?」
「簡単なことですよ、ルシェラ。さっきのキスをもう一度、私にして下さい」
「えっ!?」
「ちゃんと、君から。あぁ、もちろん舌を動かすのも忘れないで」

 さすがに冷静さの戻ったこの状況で、それを実行に移すのは難しい。できるわけがないと、ただ恥ずかしさに顔を背けようとして無理だと気付いた。ルシェラの顎は、未だレヴィリウスの指に捕らえられたままだ。

「あ、あの……本気?」
「もちろん」

 戸惑うルシェラとは反対に、レヴィリウスは楽しそうに笑っている。どうあっても逃げられない状況に観念したルシェラは、おずおずとレヴィリウスの頬に手を伸ばして……そして止まった。
 見つめ合う距離は鼻先が触れるほどに近いのに、そのあと少しが進まない。もう目を合わせることも恥ずかしくて瞼をぎゅっと瞑れば、レヴィリウスの優しい吐息がルシェラの睫毛を揺らした。

「本当に可愛らしいひとだ」

 飽きもせず重ねられた唇は、まるでふわふわの綿菓子を思わせるほどにやわく甘い。さっきまで激しく絡み合っていたとは思えないほど、優しく繊細で、時々小鳥が啄む程度の小さな刺激があるだけだ。
 欲を感じさせない微睡むような口付けに、ルシェラの緊張がゆるりと解けていく。唇や体から次第に力が抜けていき、夢心地のままレヴィリウスにもたれかかったところで、頃合いを見計らったように熱い舌先に唇を数回つつかれた。

 それが合図だということは、ルシェラにもわかった。
 穏やかなキスのおかげで、先程の恥ずかしさは顔を隠している。唇をつつく舌先に誘われて、ルシェラの口がわずかに開いた。

「……んっ」

 たとえるなら、それは猫がミルクを飲む舌先だ。ちろちろと、震えながらも懸命に動かされる舌は、官能を呼ぶよりただただくすぐったい。けれどそのつたない舌の動きは、激しく絡み合う口付けよりもはるかにレヴィリウスの胸を熱くした。

 愛しくて、切なくて、懐かしい。

 啄むキスを終え、けれど見つめる距離はそのままで。抑えきれない喜びを表すように、ルシェラを見つめる菫色の瞳が優しげに細められる。

「ルシェラ。――記憶が戻っていますね?」
「えっ……」
「傷を舐めた時に感じた血の濃さと、今のキスで確信しました」

 キスの余韻に濡れている唇が、柔らかな弧を描く。もうこれ以上ないくらいに密着した体を更に引き寄せ、こめかみに落とした唇をするりと滑らせたレヴィリウスが甘やかに囁いた。

「私の聖女、フォルセリア」

 冷たく透き通るルダの泉のほとりで、かつて同じように囁かれたことがあった。
 月葬の死神と恐れられていたレヴィリウスが、気まぐれに交わした聖女との約束。それは長い人生に飽きた彼の、束の間の戯れ。ただの暇潰しにしか過ぎなかった逢瀬が、いつからか互いの間に秘密めいた熱を持った。
 その熱に、最初に気付いたのはレヴィリウスの方だった。

『簡単なことですよ』

 フォルセリアの癖のない金髪を手に取り、誘うように口付けする。

『私は君に惹かれている。君も少なからず同じ気持ちだと思うのですが?』
『その自信はどこからくるの? 悪魔はみんな自意識過剰なのかしら』
『そんなに頬を赤らめていては説得力も半減ですよ』
『……っ!』

 髪から頬へ、躊躇いもなく伸ばされた指先が、罪の交わりを求めて顎を掬う。

『私の聖女、フォルセリア』

 触れたかどうかも分からない。けれど唇を掠めた熱い吐息に浮かされて、フォルセリアは禁忌の領域へと足を踏み入れた。

『……私の――悪魔、レヴィリウス』


「私の……悪魔」

 脳裏を掠めた記憶に引き寄せられ、ルシェラの唇がフォルセリアと同じ言葉を紡ぐ。その途中でハッと我に返り口を噤んでも、こぼれた音は既にレヴィリウスの鼓膜を甘く震わせた。

「どれだけ時が流れても、君のキスの仕方は忘れない。君の味も忘れない」
「レヴィン……私……」
「おかえり、フォルセリア。そして、私を見つけてくれてありがとう――ルシェラ」

 懐かしく響く声音テノールで囁かれ、ふわりと、壊れ物を扱うように優しく柔らかく抱きしめられる。レヴィリウスにしてはあまりにも儚い力に、ルシェラの方が我慢できずに強くしがみついた。背中に腕を回し、首筋に頬をすり寄せて懐かしいレヴィリウスの匂いを胸いっぱいに吸い込むと、奥からじんとした切ない熱が込み上げてくる。やがてその熱は閉じた瞼の裏側にまで手を伸ばし、ルシェラの睫毛をたっぷりと濡らしてこぼれ落ちていった。

「遅くなって、ごめんなさい」
「悪魔にとって、時間はあってないようなものですよ。それでも少々退屈はしていましたがね」
「……いつから気付いてたの?」
「君がフォルセリアだと? もちろん、君が初めてダークベルに落ちた夜からですよ」
「姿も名前も違うのに? 最初から分かっていたのなら、どうして話してくれなかったの?」

 素朴な疑問を投げかけると、レヴィリウスが困ったように笑う。

「私が愛したのは君の魂そのものの輝き。君が戻ってきてくれた事実だけが、私にとってははるかに重要なのです。君が忘れているのなら、またはじめから愛してやればいいだけのこと。……私を封印せざるを得なかったあの夜のことなど、忘れてしまえるのならばそれがいい」

 記憶がなくとも、関係ない。ルシェラの魂そのものを愛しているのだと、一片の迷いもなく言い切ってみせる。
 はじめから愛し合った仲だったのだと言ってくれれば、ルシェラだって思い悩まずに済んだのに――と。そう思いはしたものの、言葉から汲み取れるレヴィリウスの愛の深さにまた目頭が熱くなってしまう。

「記憶をなくしたままだったら、レヴィンを愛せなかったかもしれないわ」

 実際にルシェラは悩み、戸惑い、二人の気持ちはすれ違いもした。
 運良く最後の転生――ルシェラの人生でダークベルへと迷い込み、レヴィリウスとの再会を果たしてはいたが、記憶がないままではもしかしたらセイルの手を取っていたかもしれない。
 あり得ない話ではないと、そう不安に顔を翳らせたルシェラの前で、レヴィリウスが大げさに肩を竦めて微笑んだ。

「それこそ心配無用ですよ、ルシェラ。君は必ず私に惹かれる。私が君に惹かれるようにね」

 気持ちのいいくらいにきっぱりと断言して、レヴィリウスがルシェラの手をそっと握りしめた。見惚れるくらいの美しい笑みを浮かべたまま、間近で重なり合う菫色の瞳が探るようにルシェラの薄桃色の瞳を覗き込む。

「だから、ルシェラ。愛し合う二人の間に、秘密はもうなしにしましょう」
「……え?」
「あのあと何が起こったのか、聞かせてもらってもいいですか?」

 愛を囁くように呟いた声音は低く。
 レヴィリウスの細い指が、ルシェラの背中の古傷をゆっくりと撫で下ろした。

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