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第5章 悪魔の花嫁

27・私に愛される覚悟は?

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 パキパキと高い音を立てて罅割れる灰色の結界。その破片が雪のように舞い、所々に開いた穴から青い空が顔を覗かせていた。
 見るも無惨に荒れ果てた裏庭の庭園は、ヴィノクの結界によって外界から切り離されている。中で何が起ころうと、外の世界では変わりない裏庭の庭園が見えているはずだ。実際にルシェラたちがヴィノクに襲われている間、誰ひとりとして異常に気付いた者はいない。
 それが今、結界は半壊し、空間の歪みが異常として外に伝わっているのだろう。にわかに騒がしくなった神殿へ目を向けると、窓から身を乗り出して様子を窺う神官たちの姿が確認できた。
 ルシェラたちの姿はまだ見えていないらしく、レヴィリウスとヴィノクが激しくぶつかり合う衝撃が地震となって神殿をかすかに揺らしていた。

「心配しなくても大丈夫だ」

 そう言ったネフィは、巨大化したままケイヴィスの傷口を舐めている。大きな舌が血を拭う度、ケイヴィスの傷口が塞がっていく。

「コイツも頑張ったみたいだな。それにルシェラも……よく耐えてくれた」

 血を流し続けるルシェラの左腕をちらりと見て、ネフィが素早く視線を周囲に走らせた。灰色の結界の外、異変を感じた神官たちが何人か外に出て来ているのが見える。ルシェラの血に引き寄せられるはずのシャドウは、幸いまだ顕現していない。

「あとはアイツに任せてろ。結界が崩れて人間に見つかる前に、カタが付く」

 信頼を滲ませた金の瞳の後を追えば、ちょうどレヴィリウスの大鎌がヴィノクの髪の槍を切り落とすところだった。


 ***


 対峙する黒と黒。ぶつかり合うのはどちらも同じ、激しい怒りだ。
 二度もルシェラを襲ったヴィノクに対し、レヴィリウスの振るう大鎌には一片の慈悲もない。ただ冷酷に、敵と見なしたヴィノクの命を狩るためだけに振るわれる。
 対してヴィノクは、怒りの矛先が違った。ヴィノクが真に憎むのは同胞レヴィリウスではなく、彼を自分から奪った聖女だ。レヴィリウスを取り戻したいのであって、傷付けたいわけではない。
 その躊躇いが、勝敗を決した。

 パサリと落ちたヴィノクの髪が、炭化するように崩れて消える。残った髪の槍は三つ。それがレヴィリウスへ届くことはないと悟ったヴィノクが変化を解き、代わりに右手で自身の顔を覆った。短く息を吐き、わずかにずらした指の間から真紅の瞳を覗かせる。
 黒い瞳孔が縦に伸び、赤い瞳に金が混じる。爬虫類を思わせる不気味な目が妖しく光り、獲物を求めて眼球がぎょろりと動く。その視界に、大鎌を構えたレヴィリウスの姿が映った。

 かつてレヴィリウスを操ったヴィノクの邪眼。力では敵わないと早々に戦略を変えたつもりがそれすら先読みされ、ヴィノクの視界からレヴィリウスの姿がかき消える。かと思うと、見開いた視界のすぐ目の前に――大鎌の切っ先が鋭い光の尾を引いて流れ込むのが見えた。

「もうお前に後れを取ることはない」

 ヴィノクを見つめる菫色の瞳はどこまでも冷徹で。
 ぬくもりのかけらもない無慈悲な大鎌に刈り取られたのは、皮肉なことに月葬の死神の復活を望んだヴィノク本人の命だった。

 ぐらりと体が傾ぐ。そのまま前のめりに倒れ込んだヴィノクの瞳に、自身の下半身が胴体をなくして立ち尽くしているのが見えた。

「なぜ……だ。レヴィ……ス……」
「なぜ? 私の大事なものを二度も手にかけておいて許されるとでも?」
「お前は、誇り高き……月葬の死神だ。人間の女にうつつを抜かして……何になる! 神の手駒でしかない女など、俺たちの世界には必要ないっ」
「――ヴィノク、お前の雑音は聞き飽きた」

 まだ何か言おうとするヴィノクを遮って、レヴィリウスの大鎌が風を切る。くるりと半回転したその切っ先に邪眼を貫かれ、今度こそヴィノクの動きが止まった。かすかに動いていた唇から音は漏れず、切り落とされた上半身が端からほろほろと黒い塵となって崩れていく。
 その様を、レヴィリウスは無表情のまま見つめていた。


 ヴィノクが完全に消滅するのと同時に、パキンッと高い音を立てて灰色の結界が崩れ落ちた。外界との繋がりが戻り、荒れ果てた裏庭の庭園がその全貌を神官たちの目の前に晒け出していく。
 様子を窺っていた神官たちの驚愕する声が、裏庭の端にいたルシェラの耳にも届いた。もう少ししたらここにも大勢の人が来るだろう。見つかる前に離れなければと立ち上がった瞬間、くらりと目眩がして視界が揺れた。

「ネフィ。ケイヴィスに、これを」

 声が聞こえたかと思うと、ふらつく体を引き寄せられた。誰にと考えるまでもなく、懐かしい匂いにルシェラの胸がきゅんと鳴る。

「お前、これ……ヴィノクの……」

 ネフィに差し出したレヴィリウスの手には、一粒の黒い珠が乗せられていた。見覚えのあるそれは、狩られたシャドウが残す力の残滓ざんし
 悪魔の残留思念が形を成したシャドウとは違い、ヴィノクは純血の、しかもレヴィリウスと肩を並べるほどの力を持った悪魔だ。その彼の力は、ほんの一粒でもケイヴィスに強大な力を与えるはずだ。
 ルシェラの懸念を代弁するように、ネフィが金の目を細めてレヴィリウスを見る。

「いいのか? 与えても」

 問われ、さしたる問題でもないと肩を竦めたレヴィリウスが、手にしていた黒い珠をネフィに向けて放り投げた。

「彼がいなければ、間に合わなかったかもしれない。それは報酬です。それに見合うだけの働きを、彼は充分にやってくれました」
「分かった。コイツが目覚めたら渡しとく」
「よろしくお願いします」

 神殿の方が騒がしくなってきた。数人の神官が状況を確認しようと、荒れ果てた裏庭に入ってくるのが見える。その中に見慣れた金髪の神官の姿を見た気がして、ルシェラの薄桃色の瞳が大きく見開かれた。

「……セイル」

 こぼれた声は聞こえないはずなのに、遠くにいたセイルがルシェラを見つけて目をみはる。

「ルシェラ!」

 神殿の異変を感じ、傷付いた体を引き摺りながら来たのだろう。ルシェラに手を伸ばし歩いてくるセイルは、既に満身創痍で立っているのもやっとの状態だ。
 それでも必死になって名を呼ぶセイルに、ルシェラの心が切ない音を立てて軋む。胸の痛みは幼馴染みに対する情か、それとも案内人だという彼に対する恐怖なのか、ルシェラには分からなかった。
 ただセイルを見ていると、自分の命の期限を再確認されているようで落ち着かない。逃げるように視線を逸らせば更に強く名を呼ばれ、レヴィリウスの腕の中でルシェラの体がぎくりと震えた。

「ルシェラ! そいつに付いて行っちゃダメだ!」

 瓦礫の中、何度も躓きながら駆けてくるセイルに、ルシェラの唇から掠れた声がこぼれ落ちる。
 必死な叫びに込められた真の意味を知るのはルシェラだけだ。その中に幼馴染みとしての親愛の情がないわけではないのだろう。セイルが真実を告白した時の、痛みに耐えるような表情を思い出して、ルシェラの中にほんの少しだけ葛藤が生じた。
 その迷いを敏感に感じ取ったレヴィリウスが、ふっと腕の拘束を解いてルシェラの体を解放した。

「レヴィン……?」

 無言のまま菫色の瞳にルシェラを映し、レヴィリウスが消えそうなほどに薄く儚い笑みを浮かべる。冷たい風が二人の間を断ち切るように吹き抜け、ルシェラが慌てて一歩だけ距離を縮めた。

「ルシェラ」

 静かに名を呼び、レヴィリウスが右手をすっと前に上げる。手のひらをこちらへ向けて上げられた右手は、まるでルシェラがそれ以上近付くことを拒否しているかのようだ。
 戸惑いに揺れた薄桃色の瞳が、右手とレヴィリウスの顔を交互に見て不安げに揺れる。そんなルシェラよりもはるかに泣きそうな笑みを浮かべたレヴィリウスが、上げていた右手をゆるりと返して手のひらを上に向けた。

 何も言わない。
 いつもなら強引にでも攫っていくのに、今に限って選択をルシェラに委ねている。

 ――ずるいと思った。

 けれど、それが彼なりの償いだということもルシェラには分かっていた。
 ルシェラの気持ちを無視した行為に対して、あの月葬の死神が許しを乞うように右手を差し出している。奪い去りたいほどの激情を抑え、冷静さを必死に保つレヴィリウスの心が、今のルシェラなら手に取るように分かった。
 そしてそれを愛しいと、迷うことなく伝えることができる。

「……レヴィン、私」
「ルシェラ! ダメだ……行くなっ! 魂が穢れてしまう!!」

 目の前に差し出されたレヴィリウスの右手と。
 ルシェラを引き止めようと伸ばされるセイルの手。

 きゅっと結んだ唇をゆっくりと開いて、ルシェラが静かに後ろを振り返る。重なり合った視線に、セイルがほっと表情を緩めるのが分かった。

「手を……っ!」

 ルシェラを取り戻そうと伸ばしたその手の先で、ふわり――と花が色付くように笑顔が咲いた。

「ごめんなさい、セイル。私……行くわ。レヴィンと一緒に、
「ルシェラっ!!」

 声を荒げるセイルから視線を戻し、ルシェラが目の前に差し出されていたレヴィリウスの手にそっと指先を乗せる。触れ合う体温に、レヴィリウスの手のひらがほんの少しだけ震えたような気がした。

「私に愛される覚悟は?」
「――待たせてごめんなさい」

 艶めく言葉に頷いて返事をすれば、レヴィリウスが眉を下げて困ったように笑う。

「待ち望んだ果実は、どれほどに甘いのでしょうね」

 ルダの泉で、遠い昔に同じような言葉を聞いた。その声音に絡む情欲の熱を感じて、ルシェラの胸が甘やかな音を鳴らしていく。

「その滴るひとしずくすら、私のものだ。――ルシェラ、君を私のすべてで愛しましょう」
「私を奪って、レヴィン。月葬の死神、レヴィリウス」

 掴んだ手を引き寄せて、強く、痛いくらいに強く抱きしめられる。その力さえも愛しく、ルシェラは甘えるようにレヴィリウスの胸元へと頬をすり寄せた。

 遠くでセイルの声がする。
 けれど、ルシェラはもう振り返らなかった。

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