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第4章 花蕾の聖女

20・ルシェラ。僕を選んで

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 窓の外から、通りを行き交う人々の喧噪が漏れ聞こえてくる。明るい楽しげな声が遠ざかり聞こえなくなっても、ルシェラは微動だにせずセイルを凝視したままだった。
 目の前にいるセイルが、まるで別人のように見えた。

「私……聖女の力を取り戻したくて、セイルなら何か知ってるかもって思って」

 口を突いて出たものが、脈絡のない話だとルシェラも自覚していた。けれど整理のつかない頭では、何を考えても同じことだ。ならば浮かんだ言葉を外に出していく方が、少しでも頭はスッキリするのではないかと浅はかにも思ってしまう。
 そしてそんなルシェラの心情を察しているのか、セイルはただ静かに耳を傾けてくれていた。

「力を取り戻したら、もうあんな風に無抵抗のまま襲われることもないだろうし、それに……レヴィンへの思いにも覚悟が持てそうで」

 深く息を吸い込む度に、胸の奥が鈍い痛みに疼いた。

「やっと……やっとね、真剣に向き合えるかと思ったの。この気持ちに。……レヴィンの思いに」

 記憶に残るレヴィリウスの言葉が、じわりと優しい熱を灯して全身に広がっていく。
 躊躇いのない愛の囁き。菫色の瞳を細めた柔和な視線も、存在を確かめるように飽きもせず触れてくる手のひらの熱も、レヴィリウスを感じるすべてが愛しくて懐かしい。

 聖女ではなく、ルシェラの魂そのものを愛し続けてくれたレヴィリウスの思いに応えたい。そう願い、その手段として聖女の力を解放しようとした。聖女の力を取り戻せば、ルシェラの知らない失われた記憶を取り戻せるような気がして……一縷の望みをかけて、ここへ来た。

「なのに、私――もうすぐ、死ぬの?」

 言葉にすると、恐怖が増した。
 否定して欲しいのに、セイルの表情は変わらない。憐れむように、耐え忍ぶように、ただただルシェラを見つめている。
 案内人のセイルに私情は挟めない。

「聖女の力は、君の魂が天へ迎え入れられる時に封印が解かれると聞いている」

 明確な言葉は避けたものの、暗に「死」を確定させられた気がした。

「だから僕ではどうすることもできない。……ごめん」

 瞼は開いているのに、薄桃色の瞳には何も映らない。遠くに聞こえるセイルの謝罪が、ルシェラの中でひどく惨めに木霊した。

 力を持たない聖女。花の都リトベルにありながら花を咲かせることのできないルシェラは、まるで蕾のまま死んでいく花蕾の聖女だ。

 聖女にもなれない。
 フォルセリアにも戻れない。
 何者にもなれないルシェラは、たったひとつの恋さえ掴むことができずに消えていく。

「ルシェラ。君を神殿で保護したい。その魂が清いまま天へ導かれるまで、僕に守らせて欲しい」

 何から守るというのだろう。ルシェラの心は、とっくにレヴィリウスへ傾いているというのに。

「……レヴィンを選んだら……どうなるの?」
「神の逆鱗に触れてしまう。再び穢れた魂は贖罪すら許されず、この世から永遠に消えてしまうだろう。だから……お願いだ、ルシェラ。これ以上、君の美しい魂を穢さないでくれ」

 気が付くと、目の前にセイルが手を差し出していた。

「君の魂を悪魔なんかに穢されたくない。僕の手を取って、ルシェラ」
「……でも、私」
「ルシェラ。――僕を選んで」

 幼い頃から共にあり、常にルシェラを守り、慈しんでくれたセイルの手。いつでも優しくぬくもりに満ちたその手のひらが、今は冷たく生気のない作り物のように見えた。


 ***


 どうやってセイルの部屋を後にしたのか、よく覚えていなかった。歴史地区の坂道をリナス広場へ向かって下っているという事は、差し出されたセイルの手を拒んだのだろう。
「悪い冗談だ」とも、「少し考えたい」とも言ったような気がする。
 引き止めるセイルの声が未だ耳の奥で木霊し、背後からケイヴィスに腕を掴まれるまでルシェラはネフィたちの声に気付けなかった。

「おい、コラ! ひとりで勝手に帰ってんじゃねぇ。またあん時みたいに襲われてぇのか!?」
「ケイヴィス……」
「守ってるこっちの身にもなれって……。あ? お前なんか気が乱れてるな?」
「何でもないわ。大丈夫」

 極力目を合わせまいと俯けば、いつの間にか足元に駆け寄っていたネフィが心配そうにルシェラを見上げていた。

「ルダの揺り籠のこと、何か分かったのか?」
「……ううん、ダメだった」
「そうか。……まぁ、そんなに落ち込むな。もともと力を解放しなくてもお前はお前で、レヴィンにとってもそれは変わらないぞ」

 セイルの所へ行くと告げた時、案の定二人はいい顔をしなかった。ヴィノクに操られ、ルシェラを襲った本人だ。警戒するのは当然だろう。
 ルダの揺り籠に封じられているという聖女の力も、無理に解放せずとも良いと更に付け加え、ネフィはルシェラを引き止めようとした。それでも無理を押し通してセイルと会った結果が、これだ。

 自分でも消化できていない会話の内容を、二人に話すべきだろうか。暫しの間逡巡し、ルシェラは二人を交互に見やった。ネフィの金の目が不安げに揺れ、ケイヴィスの琥珀色の瞳がルシェラを訝しんで細められる。

「ネフィは、どうしてルダの揺り籠に力が封印されていると知ってたの?」

 セイルの話では、力は神によって封じられたと言う。そしてそれは贖罪の転生が終わったら、神によって返されるとも。
 もしそれが本当なら、ルダの揺り籠に封じられているのは聖女の力ではない。けれどネフィもレヴィリウスも、あの箱に封じられているのは聖女の力だとルシェラに告げた。食い違う話に、どちらを信じればいいのか分からない。

「どうしてって言われてもなぁ。悪魔にとって聖女の力は抗えない誘惑みたいなもんだ。そんな力を残したまま、平穏に暮らせるはずはないだろ? 聖女と言っても、所詮は神の力をひとしずく借りただけの人間だからな」
「だから力を封印した?」
「そう推測するのが妥当だろ? ……え? 何? もしかして違ってたのか?」
「違うかどうかは分からないけど、でもセイルはあの箱に聖女の力は封印されてないって……言って、た」

 正しくは「言って」はいないが同じ事だ。
 ルダの揺り籠に力が封印されていると言うネフィたちの理由がただの憶測なら、セイルの言葉の方がより重みを増してくる。
 ならばルダの揺り籠に封印されているのは一体……。

「箱に何が入ってようが、別にいいんじゃねぇの? アイツは力なんてなくてもお前にベタ惚れなんだし、お前ももう自覚してんだろ? だったら別に力があろうがなかろうが同じことだ」
「ケイヴィス。お前、たまにはいいこと言うな」
「ウジウジ悩んでて面倒くせぇだけだ。用が終わったんなら、さっさと帰ろうぜ」

 言葉は乱暴でルシェラを気遣う素振りもない。けれど今はケイヴィスのその無関心な態度に、少しだけ気持ちが軽くなった気がした。

 ケイヴィスの言葉通り、聖女の力に関して言えば、もうさほど重要でもない。レヴィリウスの真意を知り、ルシェラも自身の思いを自覚した。聖女ではなくルシェラの魂を、その存在そのものを愛してくれていたのだと、後はもう本人の口から怖がらずに聞くだけでいい。

 自分に課せられていた運命に、今は少しだけ蓋をして。
 前を向き始めた恋心を、限られた時間の分だけ大事にしたい。

『愛しいルシェラ』

 頭の奥で声がする。
 何だか無性に、レヴィリウスに会いたいと思った。

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