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第3章 すれ違う思い
14・お前を穢そう、ルシェラ=メイヴェン
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神殿の中庭を通り過ぎ、その先に続く別棟の資料室でルシェラはやっとセイルを見つけた。名を呼んで駆け寄ると一瞬驚いた表情を見せたものの、その顔はすぐに朗らかな笑顔に変わる。
「セイル! 遅くなっちゃったけど、借りてた本を返しに来たの。会えて良かったわ」
「いつでも良かったのに。でも、わざわざ来てくれてありがとう」
「ううん。私も神殿に用事があったし、気にしないで。神官長補佐様の部屋へ本を届けに行くところなの。ここの二階にいるって言ってたけど、セイル、部屋の場所分かる?」
そう訊ねると、エメラルドグリーンの瞳が訝しげに細められた。
「神官長補佐ってサモルト様? それともウィレム様?」
「えぇと……」
顔は思い出せるが名前が瞬時に出て来ない。昨日受け取った銀色のプレートを取り出して確認すると、裏に刻まれた名前はセイルが口にした名前のどちらでもなかった。
「あ、そうそう。ベルトール様よ。実は昨日もセイルを探しにここへ来たんだけど、その時にお会いしてヴィーンログ歴史書を頼まれたの。閉店後に来たから遅くなっちゃったけど……」
「ベルトール様は、本人だった?」
言葉を被せてきたセイルの顔から、優しい笑みが消えていた。代わりに普段目にしたことのない厳しい視線をルシェラに向け、探るように息すら潜めて声を落とす。
「本人って……そうなんじゃないの? そもそも私だって初めてお会いしたし、本人かどうか」
「ルシェラ。ベルトール様は、体調を崩して療養中だ。一ヶ月ほど姿を見ていない」
「えっ……?」
「ここからは他言無用だよ、ルシェラ。――ベルトール様は禁断の呪術を用いて悪魔を召喚し、その時に精神を蝕まれたと噂されている」
昨日会ったベルトールは、威厳と品格を兼ね備えた聖職者の鏡のような男だった。近寄りがたい雰囲気はあれど、白髪交じりの初老の男に邪悪な気配は少しもなかったことを思い出す。
けれど声を潜め周囲を警戒しながら慎重に話すセイルからは、ぴりぴりとした緊張の糸が張り巡らされており、これが嘘や冗談の類いではないことを本能的に悟ってしまう。セイルの緊張が伝染したのか、ルシェラまでもがはっと息を止めて生唾を飲み込んだ。
「信憑性には欠けるけど、実際にベルトール様は現在執務についていない。神殿にいるかどうかも怪しいけど……君が会ったのなら、もしかしたら復帰しているのかも知れないし」
口元に手を当てて俯きがちに呟いたセイルが、一瞬の思案の後、再びルシェラへ視線を戻した。
「だから、僕も一緒に行くよ」
***
別棟の二階には驚くほどの静寂が満ちていた。
黄昏時の空を切り取る窓からは一条の光も差さず、落日に引き寄せられた宵闇がじわりと神殿内部に滲み始めている。長い廊下に敷かれた赤い絨毯が夜を吸い込み、黒に近い色に濃く変化しているようだった。
ルシェラにとっては初めての別棟二階。けれどこの空間を包む静けさは異常だと、階段を上りきった時から感じていた。
階段の最後の一段を上った瞬間に、薄い膜のようなものを通り抜けた感覚があった。それと同時に空気が重くのし掛かり、呼吸する度にその重圧に肺が押し潰されそうになる。
「セイル……ここ、静かすぎない?」
「元々ここには限られた神官たちしか出入りしないからね。時間も遅いから、いつも以上に静かなんだよ」
「そうじゃなくて……」
前を歩くセイルは二階に充満している不穏な空気の淀みに気付いていないようだった。
まるで少しの物音も許されない、絶対の静寂。絨毯に落ちる窓枠の影に、奥まで続く柱の陰に、こちらの様子を窺う『何か』の視線を感じて足が竦んでしまう。
足音さえ絨毯に吸い込まれ、早鐘を打つ心臓の音がルシェラの体内を激しく駆け巡る。まるで心音が外に出るのを拒むかのように、恐れ、怯えながら震えているようだった。
音を出してはいけない。影に潜んだ『何か』が襲いかかってくる。
そんな妄想に囚われたルシェラの耳に、軽く響いたノックの音が届いた。
「ベルトール様。セイル=カーレイソンです。いらっしゃいますか?」
「あぁ、いるよ。入りたまえ」
「失礼します」
一呼吸置いてからセイルが扉を開けると、部屋の主ベルトールは窓辺に佇んだまま沈みゆく空を眺めていた。白髪交じりの髪をひとつに纏めた姿勢の良い後ろ姿は、ルシェラの記憶に残るベルトールと寸分違わず重なり合う。
「あぁ、君はメイヴェン古書店の……わざわざすまないね。ありがとう」
振り返ったベルトールに手を差し出され、ルシェラが軽く一礼してから部屋に入る。セイルの後に続いて窓際まで来ると、用意してきた本を紙袋ごとベルトールに手渡した。
「ヴィーンログ歴史書はイトゥル版をお持ちしましたが、ルド版もありますので……」
「いや、これで十分だ」
ルシェラの言葉を遮って、ベルトールが紙袋から二冊の本を取り出した。かと思うと表紙を確認することもなく、本を二冊とも床へと放り投げる。鈍い音を立てて落ちた本に、セイルが思わず声を荒げた。
「ベルトール様!? 何を……っ!」
「本の役割はもう済んだ。君まで来ることは想定外だったがね」
足元に転がる本を一瞥もしないベルトールの視線は、さっきからずっとルシェラしか見ていない。
獲物を狙う獣の目。値踏みするように細められた双眸が、瞼の奥で赤く煌めいた気がした。
「お前を穢そう、ルシェラ=メイヴェン。……いや、聖女フォルセリア」
窓を背に立つベルトール。逆光になった彼の顔に落ちた影からずるりと黒い靄がこぼれ落ち、それはベルトールとは別の男の顔を浮かび上がらせた。
床にまで達するほどの長く真っ直ぐな黒髪。血の気のない白い肌を、毒々しい色で飾る真紅の双眸。長く伸びた漆黒の爪を舐める口元は弧を描いているのに、作り物のような微笑には一切の熱がない。蔑むようにルシェラを見つめている。
「陵辱は聖女の罪。そしてレヴィリウスへの罰だ」
どさりと床に崩れ落ちたベルトールの体を踏み付けて、漆黒の悪魔がルシェラに一歩近付いた。その間に滑り込んだセイルが、背後にルシェラを庇ったまま腰帯に掛けていた小瓶を振り上げる。
薄水色の小瓶の中で揺れる液体を一瞥し、漆黒の男がふんっと嘲るように鼻で笑った。
「信仰の薄れたこの時代の聖水など、ただの水だ。投げてみろ。俺には効かぬ」
セイルが振りかけた小瓶の聖水は男の体を溶かすことはなく、わずかな蒸発の煙だけを残して消えていく。
闇に属するものに対抗できるはずの聖なる力は無力さのみを証明し、為す術のないセイルはそれでも男からルシェラを守るため、その身を盾にして二人の間に立ちはだかる。
「人間は強欲だ」
足元に倒れたまま動かないベルトールを一瞥し、男が愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
「地位と権力欲しさにこの俺……悪魔ヴィノクを喚び起こしたのは、そこに倒れている男なのだぞ? 神に仕える者がこうなのだ。聖女信仰など、もはや飾りに過ぎぬ」
「そんなことはない。信仰は力になる! 神の威光も衰えてなどいない!」
「ならばお前は何が出来る? 俺は今からその女を犯すぞ」
言葉の生々しさに、セイルがはっと息を呑んで立ち竦む。その一瞬の隙を突いて、黒髪の悪魔ヴィノクが霧に変化させた体を広げてセイルに覆い被さった。
「セイルっ!!」
もがく間もなく体内へ染みこんでいく黒い霧。その悍ましく不快な狂気に満ちた闇の手に、セイルの意識があっという間に攫われていく。出口を求めて伸ばした指先が柔らかい肌に触れたと感じた瞬間、セイルはほとんど無意識にルシェラの体を押し倒していた。
「セイル! 遅くなっちゃったけど、借りてた本を返しに来たの。会えて良かったわ」
「いつでも良かったのに。でも、わざわざ来てくれてありがとう」
「ううん。私も神殿に用事があったし、気にしないで。神官長補佐様の部屋へ本を届けに行くところなの。ここの二階にいるって言ってたけど、セイル、部屋の場所分かる?」
そう訊ねると、エメラルドグリーンの瞳が訝しげに細められた。
「神官長補佐ってサモルト様? それともウィレム様?」
「えぇと……」
顔は思い出せるが名前が瞬時に出て来ない。昨日受け取った銀色のプレートを取り出して確認すると、裏に刻まれた名前はセイルが口にした名前のどちらでもなかった。
「あ、そうそう。ベルトール様よ。実は昨日もセイルを探しにここへ来たんだけど、その時にお会いしてヴィーンログ歴史書を頼まれたの。閉店後に来たから遅くなっちゃったけど……」
「ベルトール様は、本人だった?」
言葉を被せてきたセイルの顔から、優しい笑みが消えていた。代わりに普段目にしたことのない厳しい視線をルシェラに向け、探るように息すら潜めて声を落とす。
「本人って……そうなんじゃないの? そもそも私だって初めてお会いしたし、本人かどうか」
「ルシェラ。ベルトール様は、体調を崩して療養中だ。一ヶ月ほど姿を見ていない」
「えっ……?」
「ここからは他言無用だよ、ルシェラ。――ベルトール様は禁断の呪術を用いて悪魔を召喚し、その時に精神を蝕まれたと噂されている」
昨日会ったベルトールは、威厳と品格を兼ね備えた聖職者の鏡のような男だった。近寄りがたい雰囲気はあれど、白髪交じりの初老の男に邪悪な気配は少しもなかったことを思い出す。
けれど声を潜め周囲を警戒しながら慎重に話すセイルからは、ぴりぴりとした緊張の糸が張り巡らされており、これが嘘や冗談の類いではないことを本能的に悟ってしまう。セイルの緊張が伝染したのか、ルシェラまでもがはっと息を止めて生唾を飲み込んだ。
「信憑性には欠けるけど、実際にベルトール様は現在執務についていない。神殿にいるかどうかも怪しいけど……君が会ったのなら、もしかしたら復帰しているのかも知れないし」
口元に手を当てて俯きがちに呟いたセイルが、一瞬の思案の後、再びルシェラへ視線を戻した。
「だから、僕も一緒に行くよ」
***
別棟の二階には驚くほどの静寂が満ちていた。
黄昏時の空を切り取る窓からは一条の光も差さず、落日に引き寄せられた宵闇がじわりと神殿内部に滲み始めている。長い廊下に敷かれた赤い絨毯が夜を吸い込み、黒に近い色に濃く変化しているようだった。
ルシェラにとっては初めての別棟二階。けれどこの空間を包む静けさは異常だと、階段を上りきった時から感じていた。
階段の最後の一段を上った瞬間に、薄い膜のようなものを通り抜けた感覚があった。それと同時に空気が重くのし掛かり、呼吸する度にその重圧に肺が押し潰されそうになる。
「セイル……ここ、静かすぎない?」
「元々ここには限られた神官たちしか出入りしないからね。時間も遅いから、いつも以上に静かなんだよ」
「そうじゃなくて……」
前を歩くセイルは二階に充満している不穏な空気の淀みに気付いていないようだった。
まるで少しの物音も許されない、絶対の静寂。絨毯に落ちる窓枠の影に、奥まで続く柱の陰に、こちらの様子を窺う『何か』の視線を感じて足が竦んでしまう。
足音さえ絨毯に吸い込まれ、早鐘を打つ心臓の音がルシェラの体内を激しく駆け巡る。まるで心音が外に出るのを拒むかのように、恐れ、怯えながら震えているようだった。
音を出してはいけない。影に潜んだ『何か』が襲いかかってくる。
そんな妄想に囚われたルシェラの耳に、軽く響いたノックの音が届いた。
「ベルトール様。セイル=カーレイソンです。いらっしゃいますか?」
「あぁ、いるよ。入りたまえ」
「失礼します」
一呼吸置いてからセイルが扉を開けると、部屋の主ベルトールは窓辺に佇んだまま沈みゆく空を眺めていた。白髪交じりの髪をひとつに纏めた姿勢の良い後ろ姿は、ルシェラの記憶に残るベルトールと寸分違わず重なり合う。
「あぁ、君はメイヴェン古書店の……わざわざすまないね。ありがとう」
振り返ったベルトールに手を差し出され、ルシェラが軽く一礼してから部屋に入る。セイルの後に続いて窓際まで来ると、用意してきた本を紙袋ごとベルトールに手渡した。
「ヴィーンログ歴史書はイトゥル版をお持ちしましたが、ルド版もありますので……」
「いや、これで十分だ」
ルシェラの言葉を遮って、ベルトールが紙袋から二冊の本を取り出した。かと思うと表紙を確認することもなく、本を二冊とも床へと放り投げる。鈍い音を立てて落ちた本に、セイルが思わず声を荒げた。
「ベルトール様!? 何を……っ!」
「本の役割はもう済んだ。君まで来ることは想定外だったがね」
足元に転がる本を一瞥もしないベルトールの視線は、さっきからずっとルシェラしか見ていない。
獲物を狙う獣の目。値踏みするように細められた双眸が、瞼の奥で赤く煌めいた気がした。
「お前を穢そう、ルシェラ=メイヴェン。……いや、聖女フォルセリア」
窓を背に立つベルトール。逆光になった彼の顔に落ちた影からずるりと黒い靄がこぼれ落ち、それはベルトールとは別の男の顔を浮かび上がらせた。
床にまで達するほどの長く真っ直ぐな黒髪。血の気のない白い肌を、毒々しい色で飾る真紅の双眸。長く伸びた漆黒の爪を舐める口元は弧を描いているのに、作り物のような微笑には一切の熱がない。蔑むようにルシェラを見つめている。
「陵辱は聖女の罪。そしてレヴィリウスへの罰だ」
どさりと床に崩れ落ちたベルトールの体を踏み付けて、漆黒の悪魔がルシェラに一歩近付いた。その間に滑り込んだセイルが、背後にルシェラを庇ったまま腰帯に掛けていた小瓶を振り上げる。
薄水色の小瓶の中で揺れる液体を一瞥し、漆黒の男がふんっと嘲るように鼻で笑った。
「信仰の薄れたこの時代の聖水など、ただの水だ。投げてみろ。俺には効かぬ」
セイルが振りかけた小瓶の聖水は男の体を溶かすことはなく、わずかな蒸発の煙だけを残して消えていく。
闇に属するものに対抗できるはずの聖なる力は無力さのみを証明し、為す術のないセイルはそれでも男からルシェラを守るため、その身を盾にして二人の間に立ちはだかる。
「人間は強欲だ」
足元に倒れたまま動かないベルトールを一瞥し、男が愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
「地位と権力欲しさにこの俺……悪魔ヴィノクを喚び起こしたのは、そこに倒れている男なのだぞ? 神に仕える者がこうなのだ。聖女信仰など、もはや飾りに過ぎぬ」
「そんなことはない。信仰は力になる! 神の威光も衰えてなどいない!」
「ならばお前は何が出来る? 俺は今からその女を犯すぞ」
言葉の生々しさに、セイルがはっと息を呑んで立ち竦む。その一瞬の隙を突いて、黒髪の悪魔ヴィノクが霧に変化させた体を広げてセイルに覆い被さった。
「セイルっ!!」
もがく間もなく体内へ染みこんでいく黒い霧。その悍ましく不快な狂気に満ちた闇の手に、セイルの意識があっという間に攫われていく。出口を求めて伸ばした指先が柔らかい肌に触れたと感じた瞬間、セイルはほとんど無意識にルシェラの体を押し倒していた。
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