上 下
10 / 34
第2章 花探し

10・私の聖女に手を出すとは、愚かにもほどがある

しおりを挟む
「待って下さい!」

 会場を出てすぐに、花探しに参加していた男のひとりに呼び止められた。けれども敢えて聞こえないふりをして、ルシェラは中央区まで続く緩やかな坂を駆け足で下っていく。
 リナス広場に並んだ露店は既に閉まっているが、祭りの熱気が収まらないリトベルの街は未だ多くの人で賑わっていた。
 夜闇に沈む歴史地区の坂道を下りきった先、リナス広場を照らす明かりの中へ紛れ込もうとしたルシェラだったが、その足が明かりの中へ進むことはなかった。

「少し話を聞いて下さい!」
「きゃっ!」

 会場から追ってきた男に肩を掴まれ、ルシェラの体が力任せに引き戻される。そのままの勢いで建物の壁に押し当てられ、強かに打った背中にルシェラが眉を顰めた。ふっと濃くなった影に顔を上げれば、逃げ道を塞ぐように男がルシェラに覆い被さっている。

「どうして逃げるんですか。少しくらい僕と話をしてくれてもいいじゃないか!」

 あまりの剣幕にルシェラがびくんと身を竦ませた。肩を掴む手の強さ。焦燥に仄暗く揺れる双眸。わずかに色欲を滲ませた荒い呼吸が、怯えるルシェラの頬をねっとりと濡らすように滑っていく。

 明らかに異常をきたした男の様子に、ルシェラは本気で恐怖した。
 シャドウでもなく悪魔でもない。ただの人間なのに、溢れ出す欲望を抑えきれない男の下卑た笑みがルシェラの体を金縛りにする。

「僕と話を……話を、しよう」

 ルシェラの細い肩を左手で押さえつけ、うわごとのように男が呟いた。耳元を撫でた右手が髪に挿していたリュナスの花を抜き取ると、そのまま桃色の花弁でルシェラの頬を焦らすようになぞる。その不快なくすぐりに嫌悪を滲ませて顔を背ければ、ひどく興奮したように男の顔が醜く歪んだ。

「話……はな、し……シ、シタ……シタイ、シタイシタイ」

 小刻みに揺れる男の顔から、ずるりと粘着質な靄のようなものが溢れ出した。顔半分を黒く染めたそれは糸を引きながら滴り落ち、石畳をかすかに揺らしながらその奥へ吸い込まれていく。

「……っ、シャドウ!?」

 驚きに目を瞠るルシェラの眼前で、男の全身から溢れ出した靄が幾つもの蛇に姿を変えて石畳の上をのたうち回る。そのうちの何匹かがルシェラの足に絡みつき、ねっとりと舐め回すように膝頭まで這い上がると、鎌首をもたげて威嚇した。

 ダークベルへ引き寄せられるはずのシャドウがリトベルに留まっている現状は、以前セイルに送ってもらった時に現れた女のシャドウの時と同じだ。ならばこの蛇のシャドウもルシェラを狙って実体化したものになる。

 女のシャドウはルシェラへの嫉妬心。
 足に絡みつく蛇のシャドウが何に対して実体化したのか、考えなくても分かる。なぜなら、膝で鎌首をもたげていた蛇がするりとその先へ進み始めたからだ。

「……っ!」

 腕は壁に押し当てられ、シャドウにすっかり覆われた男の体がルシェラの逃げ場を完全に塞いでいる。太腿を這い上がる蛇の侵入を拒もうとしても、男の膝がルシェラの足を割って入り、最後の抵抗すらさせてもらえない。

 あまりの恐怖に視界が歪む。声が出ない。呼吸が出来ない。涙が出る。
 現状を否定したくてぎゅっと目を瞑れば、自然と銀髪の悪魔の姿が脳裏に浮かんだ。

「誰が触れていいと言った」

 体の奥底に重く響く声が、一閃の軌跡のように暗闇を切り裂いた。
 頬を不快に湿らす男の息が遠ざかり、同時に空気すら凍らせるほどの冷酷な気配がルシェラの周りを支配した。体の熱を一気に奪う冷気に目を開けば、まるで氷刃の名残のように闇に流れる銀色がルシェラの視界に滑り込む。

「……っ、レヴィ……」

 広場の明かりを背に、逆光になったレヴィリウスの瞳が怒りに赤く燃えたような気がした。
 全身をシャドウの影に覆われた男が、振り向く間もなく背後から頭を鷲掴みにされる。そのままルシェラから引き剥がされた男の体、その喉元に当てられた大鎌の刃が月光を受けて冷たく光った。

「私の聖女に手を出すとは、愚かにもほどがある」

 冷淡な声音に、いつもの穏やかさはかけらも見当たらない。細い手に握られた大鎌が何をしようとしているのかを知り、ルシェラが慌ててレヴィリウスへと手を伸ばした。
 レヴィリウスが掴んでいるシャドウの中には、まだ人間の男が取り込まれているのだ。狩られるべきはシャドウであって、人間の男ではない。

「レヴィンっ……待って!」
「月葬の刃に散れ」

 伸ばしたルシェラの指先で、細い三日月に似た大鎌の刃が微塵の躊躇いもなく男の首を狩り落とした。

「……っ!」

 悲鳴を押し殺し瞠目したルシェラの瞳に映るのは、石畳に転がり落ちるシャドウの黒い塊。見れば中に取り込まれていた男は無傷のまま石畳に放り出され、シャドウだけを引きずり出したレヴィリウスの大鎌には汚れた油に似た黒い雫が滴り落ちている。その鎌を大きく振るって半回転させると、未だ卑しくルシェラの足に絡みついていた蛇のシャドウが絡め取られるようにして引き剥がされていった。

 ふらりと傾くルシェラの体が、素早くレヴィリウスの腕に引き寄せられる。守るように、奪うように抱きしめられ、その腕の力にほんの少しだけ甘い鼓動が疼いた気がした。

「無事ですね?」

 吐息と共に掠れた声で問われ、ルシェラが無言のまま頷いた。
 ごくわずかな安堵の溜息をこぼし、レヴィリウスがルシェラの頭を優しく撫でてやる。その細い指をすっかり乱れてしまった纏め髪に滑り込ませると、ピンを抜いて胡桃色の柔らかな髪を解いていく。

「すみません。私の失態です」

 強い後悔を滲ませてこぼれ落ちた言葉に顔を上げると、間近に見下ろす菫色の瞳が不安げに揺れていた。

「シャドウをおびき寄せるためとは言え、君に魅了の魔法などかけるべきではなかった。――けれど、そうでもしないと君の元へ来ることが出来ない現状に焦燥する私もいる」
「……そんなの、言い訳だわ」
「そうですね。否定はしませんよ。……送りましょう、ルシェラ。今夜はもう休みなさい。シャドウも私も、君の休息を邪魔しないと約束しましょう」


 ***


 レヴィリウスが切り裂いた空間の隙間を通り抜けると、その先はもう自宅である古書店の正面だった。
 宣言通りレヴィリウスは中へは入らず、ルシェラが二階から顔を覗かせたのを確認すると、そのまま夜の向こうへ消えてしまった。

 両足を這ったシャドウの感触を洗い流したくてバスルームへと急ぐ。熱いシャワーを浴びると穢れと共に鬱々とした気持ちも流されていくようで、風呂上がりにメリダルのハーブティーを飲むくらいには気持ちも随分と落ち着きを取り戻していた。

 ハーブティーが体を内側から温めていくのを感じながら、ルシェラはソファにもたれたままぼうっと意識を揺蕩わせる。定まらない気持ちを表すように揺れる視点の先、棚に置かれたアイスブルーの箱の中身が触れてもないのに音を鳴らしたような気がした。

「……ルダの揺り籠」

 聖女の力を封じたと言われるその箱を手に取って凝視してみても、青く透き通った箱の中身はやっぱり少しも見えることはなかった。

 もしもルシェラが力を取り戻し聖女として覚醒したのなら、きっと今夜のようにシャドウに蹂躙されることはないのだろう。自分の身は自分で守り、レヴィリウスに助けを乞うこともない。
 ――けれど。

『すみません。私の失態です』

 自分の過ちを悔いて零れた謝罪は、今まで聞いたどんな言葉よりも感情の波に揺れていた。
 柔和な笑みの仮面で隠された真実の顔を、あの時ほんの少しだけ垣間見たような気がした。そしてそんなレヴィリウスを、ルシェラはもっと知りたいと思ってしまった。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【R18】国王陛下はずっとご執心です〜我慢して何も得られないのなら、どんな手を使ってでも愛する人を手に入れよう〜

まさかの
恋愛
濃厚な甘々えっちシーンばかりですので閲覧注意してください! 題名の☆マークがえっちシーンありです。 王位を内乱勝ち取った国王ジルダールは護衛騎士のクラリスのことを愛していた。 しかし彼女はその気持ちに気付きながらも、自分にはその資格が無いとジルダールの愛を拒み続ける。 肌を重ねても去ってしまう彼女の居ない日々を過ごしていたが、実の兄のクーデターによって命の危険に晒される。 彼はやっと理解した。 我慢した先に何もないことを。 ジルダールは彼女の愛を手に入れるために我慢しないことにした。 小説家になろう、アルファポリスで投稿しています。

大嫌いな次期騎士団長に嫁いだら、激しすぎる初夜が待っていました

扇 レンナ
恋愛
旧題:宿敵だと思っていた男に溺愛されて、毎日のように求められているんですが!? *こちらは【明石 唯加】名義のアカウントで掲載していたものです。書籍化にあたり、こちらに転載しております。また、こちらのアカウントに転載することに関しては担当編集さまから許可をいただいておりますので、問題ありません。 ―― ウィテカー王国の西の辺境を守る二つの伯爵家、コナハン家とフォレスター家は長年に渡りいがみ合ってきた。 そんな現状に焦りを抱いた王家は、二つの伯爵家に和解を求め、王命での結婚を命じる。 その結果、フォレスター伯爵家の長女メアリーはコナハン伯爵家に嫁入りすることが決まった。 結婚相手はコナハン家の長男シリル。クールに見える外見と辺境騎士団の次期団長という肩書きから女性人気がとても高い男性。 が、メアリーはそんなシリルが実は大嫌い。 彼はクールなのではなく、大層傲慢なだけ。それを知っているからだ。 しかし、王命には逆らえない。そのため、メアリーは渋々シリルの元に嫁ぐことに。 どうせ愛し愛されるような素敵な関係にはなれるわけがない。 そう考えるメアリーを他所に、シリルは初夜からメアリーを強く求めてくる。 ――もしかして、これは嫌がらせ? メアリーはシリルの態度をそう受け取り、頑なに彼を拒絶しようとするが――……。 「誰がお前に嫌がらせなんかするかよ」 どうやら、彼には全く別の思惑があるらしく……? *WEB版表紙イラストはみどりのバクさまに有償にて描いていただいたものです。転載等は禁止です。

王女、騎士と結婚させられイかされまくる

ぺこ
恋愛
髪の色と出自から差別されてきた騎士さまにベタ惚れされて愛されまくる王女のお話。 性描写激しめですが、甘々の溺愛です。 ※原文(♡乱舞淫語まみれバージョン)はpixivの方で見られます。

【R18】××××で魔力供給をする世界に聖女として転移して、イケメン魔法使いに甘やかされ抱かれる話

もなか
恋愛
目を覚ますと、金髪碧眼のイケメン──アースに抱かれていた。 詳しく話を聞くに、どうやら、私は魔法がある異世界に聖女として転移をしてきたようだ。 え? この世界、魔法を使うためには、魔力供給をしなきゃいけないんですか? え? 魔力供給って、××××しなきゃいけないんですか? え? 私、アースさん専用の聖女なんですか? 魔力供給(性行為)をしなきゃいけない聖女が、イケメン魔法使いに甘やかされ、快楽の日々に溺れる物語──。 ※n番煎じの魔力供給もの。18禁シーンばかりの変態度高めな物語です。 ※ムーンライトノベルズにも載せております。ムーンライトノベルズさんの方は、題名が少し変わっております。 ※ヒーローが変態です。ヒロインはちょろいです。 R18作品です。18歳未満の方(高校生も含む)の閲覧は、御遠慮ください。

かつて私を愛した夫はもういない 偽装結婚のお飾り妻なので溺愛からは逃げ出したい

おうぎまちこ(あきたこまち)
恋愛
※また後日、後日談を掲載予定。  一代で財を築き上げた青年実業家の青年レオパルト。彼は社交性に富み、女性たちの憧れの的だった。  上流階級の出身であるダイアナは、かつて、そんな彼から情熱的に求められ、身分差を乗り越えて結婚することになった。  幸せになると信じたはずの結婚だったが、新婚数日で、レオパルトの不実が発覚する。  どうして良いのか分からなくなったダイアナは、レオパルトを避けるようになり、家庭内別居のような状態が数年続いていた。  夫から求められず、苦痛な毎日を過ごしていたダイアナ。宗教にすがりたくなった彼女は、ある時、神父を呼び寄せたのだが、それを勘違いしたレオパルトが激高する。辛くなったダイアナは家を出ることにして――。  明るく社交的な夫を持った、大人しい妻。  どうして彼は二年間、妻を求めなかったのか――?  勘違いですれ違っていた夫婦の誤解が解けて仲直りをした後、苦難を乗り越え、再度愛し合うようになるまでの物語。 ※本編全23話の完結済の作品。アルファポリス様では、読みやすいように1話を3〜4分割にして投稿中。 ※ムーンライト様にて、11/10~12/1に本編連載していた完結作品になります。現在、ムーンライト様では本編の雰囲気とは違い明るい後日談を投稿中です。 ※R18に※。作者の他作品よりも本編はおとなしめ。 ※ムーンライト33作品目にして、初めて、日間総合1位、週間総合1位をとることができた作品になります。

【R18】散らされて

月島れいわ
恋愛
風邪を引いて寝ていた夜。 いきなり黒い袋を頭に被せられ四肢を拘束された。 抵抗する間もなく躰を開かされた鞠花。 絶望の果てに待っていたのは更なる絶望だった……

【R18】聖女のお役目【完結済】

ワシ蔵
恋愛
平凡なOLの加賀美紗香は、ある日入浴中に、突然異世界へ転移してしまう。 その国には、聖女が騎士たちに祝福を与えるという伝説があった。 紗香は、その聖女として召喚されたのだと言う。 祭壇に捧げられた聖女は、今日も騎士達に祝福を与える。 ※性描写有りは★マークです。 ※肉体的に複数と触れ合うため「逆ハーレム」タグをつけていますが、精神的にはほとんど1対1です。

【R18】純情聖女と護衛騎士〜聖なるおっぱいで太くて硬いものを挟むお仕事です〜

河津ミネ
恋愛
フウリ(23)は『眠り姫』と呼ばれる、もうすぐ引退の決まっている聖女だ。 身体に現れた聖紋から聖水晶に癒しの力を与え続けて13年、そろそろ聖女としての力も衰えてきたので引退後は悠々自適の生活をする予定だ。 フウリ付きの聖騎士キース(18)とはもう8年の付き合いでお別れするのが少しさみしいな……と思いつつ日課のお昼寝をしていると、なんだか胸のあたりに違和感が。 目を開けるとキースがフウリの白く豊満なおっぱいを見つめながらあやしい動きをしていて――!?

処理中です...