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第1章 月葬のダークベル

7・君を抱きたいのだから仕方がないでしょう

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 真っ白なシーツに落ちる、柔らかな胡桃色の髪。その一房を手に取って口付けるレヴィリウスの視線は逸らされないまま、近い距離でルシェラを見下ろしている。逃がさないよう顔の横に付いた手に体重がかけられると、耳のすぐそばでギシッとベッドの軋む音がした。

「ちょっ……ちょっと待って! 何これ、どんな状況なのよ!?」
「戸惑う君を、私が押し倒していますね」
「冷静に返さないで! 何もしないって言ったじゃない」
「男が口にするを素直に受け取るほど、あなたも子供ではないでしょう?」

 そう言って、憎らしいほどに綺麗な笑みを浮かべる。自分を見下ろす菫色の瞳に魅入られてしまったように、ルシェラの体はぴくりとも動かない。なのに鼓動が痛いくらいに胸を叩くから、ルシェラは魅了の瞳から逃れるようにぎゅっと瞼を瞑った。

 ふっと、レヴィリウスの動く気配がする。掴まれた手にさらりとした髪の感触がしたかと思うと、ルシェラが目を開くよりも先に頬にくちづけされた。少し湿った唇は耳朶を甘噛みして、そのまま顎のラインをなぞるように首筋へと下りていく。
 繊細で優しい触れ方に思わず漏れそうになった声を、ルシェラは必死に喉の奥へと押し戻した。けれどもわずかに上下したその喉元をむようにやわい唇で挟まれてしまえば、ぞくりと震えた体から声が漏れるのは当然で。

「……ぁっ!」
「おや。まだ何もしていないのに、ずいぶんとかわいらしい声でさえずるのですね」
「何もって……嘘つき!」
「心外ですね。私はまだ、君の唇も味わってはいませんよ? 互いを知るのはこれからじっくりと……」
「しなくていいからっ!」

 ぐいーっと精一杯の力を込めてレヴィリウスの体を押しやると、小さな笑い声と共に意外とすんなりルシェラの上から離れていく。そこでからかわれていたことを知り、ルシェラが勢いよくベッドから飛び退いた。逃げるように壁際まで後退するルシェラを見つめ、わざとらしく肩を竦めるレヴィリウスが腹立たしい。

「そこまで拒絶されると、さすがに私も傷付くのですが」
「よく言うわ。からかってるだけのくせに」
「心外ですね。君が欲しいのは事実ですよ」

 さらりと大胆な発言を落として、レヴィリウスがすっとベッドから立ち上がる。ぎくりと震えたルシェラだったが、どうやら思惑は外れたらしい。怯えるルシェラを通り過ぎてレヴィリウスが手にしたものは、セイルの本と一緒に入っていたメリダルのハーブティーだった。

「お茶を淹れましょう。君の幼馴染みが用意したと言う点では癪ですがね」


 ***


 昨日と同じように、お茶の用意されたテーブルを挟んでソファに座ったルシェラは、目の前で優雅にお茶を飲むレヴィリウスの姿をこっそりと盗み見していた。
 長い足を組んでお茶を飲む姿すら絵になる男。瞼の奥に隠れた菫色の瞳は、美しい色の影にいつでも牙を出せる誘惑の毒を孕んでいる。見つめられるだけで、ルシェラの胸は何度早鐘を打ったことだろう。
 人間離れした美貌。けれどそれはどちらかと言うと、一度踏み込めば二度と這い上がれない底なし沼のような危険な匂いがした。

「そんなに熱く見つめられると、理性など捨ててしまいたくなるのですが」
「それは駄目!」
「君は本当に我がままですね」

 非難と言うより呆れた口調で、その顔にはいつもの笑みを貼り付けている。美しいが、感情のかけらさえ感じられない胡散臭い笑顔だ。

「我がままも何も、大体あなたの方がおかしいのよ。シャドウから助けてくれたことには感謝してるけど、色々と距離が近いって言うか……」
「君を抱きたいのだから仕方がないでしょう」
「抱きっ!?」

 驚きのあまり、ルシェラの体がソファから浮きかける。その拍子に足がテーブルにぶつかってしまい、派手な音を立てて揺れたカップからハーブティーが少しだけソーサーに零れてしまった。

「君の血肉は別格だと言ったでしょう。それはシャドウのみならず、私たちにも当てはまるのですよ」
「私たちって……やっぱりあなた」

 悪魔だったのかと押し込んだ言葉は、レヴィリウスの淡い微笑に肯定された。カップを置いた代わりにレヴィリウスが濃紺の本を手に取ると、それは触れもしないのにひとりでにパラパラとページを捲り出す。その動きがぴたりと止まったかと思うと、レヴィリウスの手の上でまるで蝶が羽を広げるように本が左右に開ききった。
 ルシェラにも見えるように向けられたページには、黒衣に身を包んだ骸骨の挿絵とと共に「月葬の死神レヴィリウス」と記されていた。

「月葬の……死神」
「そう呼ばれていたのは昔のことですし、それに今の私にその頃の力はほとんど残っていませんよ」
「それでも、悪魔……なんでしょう?」
「怯えているのですか?」
「当たり前じゃない。シャドウだけでも怖いのに、悪魔だなんて……。しかもダークベルに封印されてるなんてよっぽど凶悪なんじゃないの!?」
「今はそうでもありませんよ。戦いや人間社会に興味はありませんし……あぁ、ひとつだけ興味をそそられるものがありますね」

 意味深に言葉尻の抑揚を変え、レヴィリウスが手にしていた本をパタンと閉じる。その音にドキリとしたルシェラの視線が、レヴィリウスの魅惑的な瞳に絡め取られた。
 真っ直ぐに向けられる菫色の瞳から言葉の続きを悟り、居たたまれなくなったルシェラが逃げるように視線を逸らした。レヴィリウスが何を考えているのか嫌でも分かる。そしてそれを心の底から拒絶できない自分がいることも。

「わからないわ」

 ぽつりと零れ落ちた言葉はレヴィリウスに対してではない。彼を心から拒否できない気持ちと、闇に好まれる自分の存在に対しての疑問だ。

 レヴィリウスを本当の意味で拒絶できないのは、彼に多少なりとも惹かれてしまったと言うことなのだろう。それが悪魔のなせる魅了の仕業なのかは分からないが、少なくとも今のルシェラはレヴィリウスに対して耐えがたいほどの恐怖や嫌悪感は持っていない。
 レヴィリウスの露骨な欲望から来る真偽の分からない好意も、ルシェラの心を翻弄し惑わすには充分だ。

 なぜ、そこまでしてルシェラを手に入れたいのか。
 そう。なぜ、ルシェラだけが闇にとって特別なのか。

「私はただの人間よ。どうして私が闇に狙われるの?」
「それは、君が聖女の血を引く末裔だからですよ」
「聖……女? 聖女って、あの?」

 いにしえの戦いにおいて人間たちを光へと導き、神々の勝利に貢献したひとりの女性。聖女信仰の残るリトベルには、彼女の名を継いだ神殿がある。

「聖女フォルセリア。神々の愛し子。彼女に与えられたひとしずくの力は、元は人間だった体を神々に近い存在へと変化させた。我々が好む人間の血肉に、神の力が宿るのですよ? そのかぐわしい血の香りに抗える悪魔はいないでしょう」
「聖女って、……そんなの何かの間違いだわ」
「間違いなどではありませんよ。君の血には聖女の力が宿っている」

 断言され、ルシェラの脳裏に頬の傷を舐められた記憶がよみがえる。あの時言っていた「血の記憶」とは、つまりそういうことだったのだ。

「けれど今はその力を封印されているようですね。君自身に自覚もなければ、血に残る力も微弱だ。おそらく悪魔やシャドウに狙われることを恐れ、何代目かの子孫が聖女の力を封印したのでしょう。代々伝わる何か……そうですね、宝飾品や小物など何か受け継がれてはいませんか?」
「……っ!」

 思わず息を呑んで硬直したルシェラの瞳が、レヴィリウスを捉えたまま大きく見開かれる。その様子を見て予想が当たったことを知り、レヴィリウスが満足げに笑った。

 ルシェラは早くに両親を事故で亡くしている。代わりに育ててくれた祖母も二年前に他界し、ルシェラはメイヴェン古書店と同時にひとつの箱を受け継いだ。
 先祖代々受け継がれている大事なものだから決してなくしてはいけないと、祖母は事あるごとに何度も教えを説いてきた。

 鍵穴もなければ蓋もない、両手に乗るくらいの小さな箱。
 美しいアイスブルーの箱は硝子細工かと思うほどに透明度が高く、覗き込むと向こう側が見えるほどだ。中には何も入っていないのに、振るとかすかに軽いものが当たるような乾いた音が響く。
 壊れそうなほどに繊細な小箱なのに、以前ルシェラがうっかり床に落としてしまっても傷ひとつ付けることはなかった。

『ルダの揺り籠が何なのかは、誰も知らない。いつから受け継がれているかも分からないけど、ただひとつ――あるべき場所へ戻るまで大事にしなくてはいけないと……そう思うんだよ』

 そう言った祖母でさえも、中身が何なのかは知らなかった。
 どんな目的で、誰のために受け継がれているのかは分からないが、一族の誰もがそれを大事に守っていくことを当たり前のように受け止めていた。

 透き通っているのに中身は見えず、開けるための蓋もない不思議な小箱『ルダの揺り籠』。もしそれがレヴィリウスの言うものならば、中に入っているのは聖女の力と言うことになる。
 祖母から伝えられたこととレヴィリウスの言葉を結び付ければ、もうルシェラが聖女の末裔であると言う事実を疑う余地はどこにもないような気がした。

「……私が聖女の末裔だったとして、あなたは私に何を望んでいるの? シャドウみたいに私を……食べる、の?」

 言葉にすると、背筋がぞくりと震えた。
 目の前のレヴィリウスからは、シャドウのように殺意に満ちた危険な狂気は感じられない。けれど彼は悪魔だ。身の内に燻る悍ましい欲望など、その魅惑的な笑顔で隠してしまえるのではないか。
 本気で襲われてしまえば、ルシェラは抗う間もなく食べられてしまうだろう。

「確かに君の体は魅力的ですよ。その血で喉を潤し、柔らかな肉をんで、心ゆくまで味わいたい。――けれど、それでは君が消えてしまう」
「……え?」
「私は君が欲しい。食べることなどいつでもできる。だが、そうじゃない。君という存在そのものを手に入れたい」

 それはさながら熱烈な愛の告白のようで。
 昂ぶった感情を表すように口調の変わったレヴィリウスを、ルシェラは真正面から見つめ返すことが出来なかった。
 恐れなどではなく、ただひたすら羞恥に頬が紅潮する。そして同時に、高鳴る動悸の奥に隠れたかすかな違和感にも気付いていた。ただその違和感の正体を知るのは、今ではなかった。

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