うちの課長はお若いのがお好き

杉 孝子

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【第1章】旅立編

新たな出発

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 野口希美は、一か月ぶりに自宅へと帰って来た。母と昼食を取った後、ショッピングを楽しんだ。母も心なしかいつもより気を使っているようだった。父は仕事で、自宅は静寂に包まれている。

 それを知っていながら、希美は、自宅の玄関で「ただいま」とできるだけ明るく言った。

 夕食の材料を母と一緒に買い込んできたため、車から降ろすのを手伝う。病院の荷物も降ろし終わると、希美は自分の部屋に入っていく。一か月前に会社へ出勤したままになっている部屋のローテーブルには、薄っすらと埃が積もっている。希美は微笑んでから、自分に言い聞かせるかのように、

「まずは部屋の掃除からだね」と呟いた。

 夕食の用意が出来たと母から声がかかるまで、希美はひたすら体を動かしていた。そうすることで、あの悪夢を思い出さなくて済むし、考えることも無かった。部屋が綺麗になることで、自分の心も洗われている様だった。
 
 階下へ降りる階段の途中で、希美の好きなシチューの香りが漂って来た。テーブルの上には、シチューの湯気がぽかぽかとテーブルを包み込み、久しぶりの家庭の香りに、希美は胸が温かくなるのを感じた。

 いつもより早く仕事から帰って来た父が、希美の顔を見て、

「元気になったみたいで安心したよ」と控えめに話す。

 家族そろっての夕飯の後に、退院祝いとして昼間に母とウィンドウショッピングのついでに選んだ、ショートケーキとハーブティーをデザートにして食べる。希美は、数年前の事を想い出して懐かしさに浸りながら、チーズケーキを口に運んでいた。数年前までは、色々な記念日にかこつけて、ケーキやデザートを食べていたことを思い出す。

 両親はそんな希美の様子を窺い、言葉を選びながら話しているように感じる。当然あの事件の事など口にはしない。そう、自分も家族もあの事件の事は忘れていくようにしなければと希美は強く思った。

 希美が自室に戻ると、スマホに着信があった。学生時代の友人の一人からだった。メッセージには、退院の祝いの言葉と共に飲み会の誘いだった。優子とは、お互いに就職しても良く飲みに行っていた。

 飲んでる時には、お互いの会社の不満を言っては、うちの会社もそんなことあるよと慰めたり、最近の恋愛についての話で盛り上がったりしていた。

 今回は、学生時代の友人を入れて、6人で飲みに行く誘いだった。

 希美は、本棚に入っている学生時代のアルバムを開くと、笑顔の自分と、優子たち。そこに写る懐かしい風景が広がった。

 あの頃の自分に戻りたいとは思わないけれど、あの時の記憶は、今の自分を作っている。皆と会って、気分転換するのも悪くない。むしろ日常を早く取り戻すべきだと思った。

 アルバムをそっと閉じ、希美は、目を閉じた。

「これからも、何があろうと、私が私らしく生きることが大切だ」

 穏やかに息を吐きながら、手元のスマホに優子への返信を打ち始めた。

 優子とのメッセージには、懐かしい絵文字が飛び交い、返信のたびに画面に現れる優子の名前に、希美は自然と微笑んだ。

『そういえば、青木誠二も来るって!』

 優子のメッセージに、一瞬希美の指が止まる。懐かしい名前に胸が少し高鳴るのを感じた。学生時代のふとした場面が思い出され、気がつけば、返事を打つ手が少し震えていた。優子は、希美の為に誠二を誘ったのかもしれない。

 かつて、青木誠二に片思いをしていた。優子も希美の片想いを知っている。学生時代のあの頃には、たったひと言交わすだけで、胸がドキドキしたものだ。幾度と無く親友の優子にも相談に乗ってもらったりした。誠二とは、卒業以来会っていない。大人になった今、彼はどんな風になっているのだろう?

 少し浮き立つ気持ちを胸に、希美は、スマートフォンを握りしめた。日常の穏やかさとは違う、久々の感覚が、自分の中でじわじわと広がっていくのを感じた。

 かつての誠二との記憶が頭をよぎる。いつも仲間と笑い合っていた誠二の横顔、何気ない会話で見せるあの優しい笑顔。

 あの頃の希美は、自分の想いをひた隠しにし、遠くから眺めるしかできなかった。けれど今の自分なら、少しは近づけるだろうか?彼の姿を見るのが少し怖くて、けれども楽しみで、そんな自分に、少しだけ自信がついた気がした。

『新しい気持ちで、もう一度彼に会いたい』

 そんな風に思えること自体が、今の希美にとっては奇跡のようだった。過去は過去として受け入れ、今度こそ、素直な気持ちで向き合ってみよう。少しだけ緊張して、そしてそれ以上に楽しみな気持ちを抱えながら、彼女はそっとスマートフォンを閉じた。


 
 ここが地獄だとしたらだが、地獄の薄暗い洞窟の中、大平は引き裂かれた自らの肉体を目にしながら、悪夢のような光景を目にしていた。
 
 異形の者たちは、骨の軋む音をたてながら、まるで禁断の歓びに酔いしれるかのように、彼の肉を無遠慮に喰らった。

 大平は、やがて異形の者達の顔が少しずつ変化していくのを見た。牛のような風貌が、キツネのような輪郭が、平坦な人間らしい輪郭へと、徐々に変わっていくのを驚嘆の思いで見ていた。歪な指先が、人間の指へと変化する。体に不釣り合いなくらいの一物も。柔らかな皮膚が体を覆いその姿を現す。
 
 そして立ち上がった男女には、もうかつての異形の影も無く、その瞳には人間らしい感情のようなものが浮かんでいた。
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