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6_許されない哀しみ
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頬に当たる雨粒で俺は片目を開ける。先程までは曇夜だったのにいつしかしとしとと雨が降っていた。
自分が死んでいなかったことにようやく気付き、両目を開けると辺りを見回す。誰かに気付かれて警察や救急車を呼んだ気配は無い。落ちてからそれほど時間は経っていないのだろう。
俺は無意識に両手で体を起こすと、歩道の上で正座した。うつぶせの状態で叩きつけられた肉体は骨が砕け在らぬ方向に曲がっているはずだった。肉片が飛び散り、辺りを血で染めているはずだった。実際に、自分の着ている病衣にも赤黒い染みが広がっている。歩道の上にも頭を置いていた辺りには血溜まりが出来ていた。
俺は両手を顔の前に持ってくると、しげしげと眺める。指も腕も骨折している個所は無いようだ。病衣を開〈はだ〉けて胸から腹を手で撫でてみるが、異常は感じられなかった。俺は、裸足でゆっくりと立ち上がると古びたビルの六階の非常階段を見上げる。死ぬには充分の高さである。
「どうして、俺は生きてるんだ」
あの高さから飛び降りて、かすり傷一つ残っていない。ただ、血痕の痕跡は残っているのが、不思議であった。立ち尽くしている俺の目の前に、黒いクラウンが止まると、運転席から見覚えのある人物が降りてくる。
「草薙さん。俺は一体、俺の体はどうなっているんだ」
彼は傘もささずに目の前に立つと、ポケットからナイフを取り出して言った。
「説明するより自分の目で見て見るが早いだろう」
俺の右腕を掴むと手のひらにナイフの刃先を走らせる。
「何しやがる」
俺は咄嗟に右手を草薙から引き剝がすと、自分の顔の前で傷口を見詰める。
一瞬焼けつくような痛みと共にぱっくりと口を開いた切り口から血が溢れ出す。右手が血で真っ赤に染まり手の平から腕に赤い筋が伝い流れる。暫く見ていると確かに切り裂かれたはずの切り口が、盛り上がるかのように一旦膨れていき瘡蓋〈かさぶた〉の様になった。その後、膨らみは他の組織に馴染むように平坦となり、切り裂かれた傷跡さえ残っていなかった。それは数十秒の間の出来事で、傷が治っていく過程を高速で見ているようなものだった。違いは、傷跡さえ残らないことだった。まるで魔法の様に、非現実の出来事を目撃した瞬間だった。
「わかったか。君の体は、人の数十倍の速さで再生する。傷跡さえ残すことなく」
草薙は俺に車へ乗るように指示した。仕方なく車に乗り込むと、運転席に座った草薙が、話を続ける。
「人間も他の脊椎動物も昆虫も生物には本来再生能力が備わっている。ただ、再生速度や再生の程度が違うだけなのを知っているか。生物の中で特に優れた再生能力を持つのが両生類で、君も知っているようにトカゲの尻尾が切れても再生するというのを聞いたことがあるだろう。尻尾だけでなく、腕や脚、目や心臓までも再生することが可能なんだよ」
草薙は、俺の方へ顔を向けて、
「その研究で得た試薬を君に試した」
おかっぱ頭の前の席に座っている松田明美に鉛筆のペン尻で背中を突く。明美は、背中をもぞもぞさせながら振り返ると
「村上君やめてよ。授業中よ」と教室中に聞こえるような大きな声で注意を惹く。
突然の大声に辺りを見回すと、顔を真っ赤にして明美に謝る。
「ご、ごめん」
黒板の前で、こちらを見て
「村上さん、授業中は集中して前を見る」と担任にまで叱られる。
高校では、中学の時の同級生とも会うことも無くなり、大学に入って一度同窓会の誘いはあったが、サークルの合宿で予定が立たなかった。懐かしい思いで覗いたSNSに明美の姿を見つけた。おかっぱの女の子が美しい女性になっていた。SNSを遡ると地元の同じ大学だった。
彼女と連絡を取りあった。幼馴染だけあって、お互いの素性も性格も知った仲だった。合えばお互い何も変わっていないことがわかった。当時付き合っていないことも好条件だった。
大学での再会後、彼らは急速に親密になっていった。
何度目かのデートで、季節は蝉が鳴き始めた良く晴れた日、二人は自宅近くにある公園に出かけた。吹き付ける風が心地よく、明美が、
「今日も最高の天気だね!」と微笑む。
政久はただ黙って頷きながら横を歩く彼女の手をそっと握った。彼女の手の温もりが、いつもの安心感を与えてくれた。
「覚えてる?中学の頃、部活終わりに皆でよくこの辺りで遊んだよね」と明美が懐かしそうに言った。
「ああ、覚えてるさ。でもあの頃は、俺たち、まだガキだったよな。」と政久は照れくさそうに答えた。彼女が成長して美しくなったことに、改めて気づいた。
その後、俺たちは公園を流れる小さな川沿いを歩きながらたわいもない話を続けた。大学での授業、サークル活動のこと、昔の友人たちのこと。時折、笑い声が響き、二人の距離はどんどん近づいていった。
公園のベンチに座り、夕暮れの空がオレンジ色に染まるのを眺めながら、明美が少し真剣な表情で言った。
「政久、これからもずっと一緒にいようね」
その言葉に俺は少し驚きながらも、明美をを見つめて、
「もちろん、俺もずっと一緒にいたい」と力強く答えた。
明美の瞳が少し潤んでいるのに気づき、彼は無言で彼女の肩を抱き寄せた。
二人の間には言葉はいらなかった。ただ、その瞬間、二人の間に流れる時間が永遠に続くかのような、そんな安心感があった。どこにいても、何をしていても、お互いの存在がそこにあるだけで満たされていた。
付き合い始めて三年が経ちお互い社会人として生活し始めた。この機会に同棲を始めようという矢先だった。あの事件が起こったのは。
夢から目覚めた俺は、自分が死ぬことも許されない存在だと受け入れざるを得ないと知った。
自分が死んでいなかったことにようやく気付き、両目を開けると辺りを見回す。誰かに気付かれて警察や救急車を呼んだ気配は無い。落ちてからそれほど時間は経っていないのだろう。
俺は無意識に両手で体を起こすと、歩道の上で正座した。うつぶせの状態で叩きつけられた肉体は骨が砕け在らぬ方向に曲がっているはずだった。肉片が飛び散り、辺りを血で染めているはずだった。実際に、自分の着ている病衣にも赤黒い染みが広がっている。歩道の上にも頭を置いていた辺りには血溜まりが出来ていた。
俺は両手を顔の前に持ってくると、しげしげと眺める。指も腕も骨折している個所は無いようだ。病衣を開〈はだ〉けて胸から腹を手で撫でてみるが、異常は感じられなかった。俺は、裸足でゆっくりと立ち上がると古びたビルの六階の非常階段を見上げる。死ぬには充分の高さである。
「どうして、俺は生きてるんだ」
あの高さから飛び降りて、かすり傷一つ残っていない。ただ、血痕の痕跡は残っているのが、不思議であった。立ち尽くしている俺の目の前に、黒いクラウンが止まると、運転席から見覚えのある人物が降りてくる。
「草薙さん。俺は一体、俺の体はどうなっているんだ」
彼は傘もささずに目の前に立つと、ポケットからナイフを取り出して言った。
「説明するより自分の目で見て見るが早いだろう」
俺の右腕を掴むと手のひらにナイフの刃先を走らせる。
「何しやがる」
俺は咄嗟に右手を草薙から引き剝がすと、自分の顔の前で傷口を見詰める。
一瞬焼けつくような痛みと共にぱっくりと口を開いた切り口から血が溢れ出す。右手が血で真っ赤に染まり手の平から腕に赤い筋が伝い流れる。暫く見ていると確かに切り裂かれたはずの切り口が、盛り上がるかのように一旦膨れていき瘡蓋〈かさぶた〉の様になった。その後、膨らみは他の組織に馴染むように平坦となり、切り裂かれた傷跡さえ残っていなかった。それは数十秒の間の出来事で、傷が治っていく過程を高速で見ているようなものだった。違いは、傷跡さえ残らないことだった。まるで魔法の様に、非現実の出来事を目撃した瞬間だった。
「わかったか。君の体は、人の数十倍の速さで再生する。傷跡さえ残すことなく」
草薙は俺に車へ乗るように指示した。仕方なく車に乗り込むと、運転席に座った草薙が、話を続ける。
「人間も他の脊椎動物も昆虫も生物には本来再生能力が備わっている。ただ、再生速度や再生の程度が違うだけなのを知っているか。生物の中で特に優れた再生能力を持つのが両生類で、君も知っているようにトカゲの尻尾が切れても再生するというのを聞いたことがあるだろう。尻尾だけでなく、腕や脚、目や心臓までも再生することが可能なんだよ」
草薙は、俺の方へ顔を向けて、
「その研究で得た試薬を君に試した」
おかっぱ頭の前の席に座っている松田明美に鉛筆のペン尻で背中を突く。明美は、背中をもぞもぞさせながら振り返ると
「村上君やめてよ。授業中よ」と教室中に聞こえるような大きな声で注意を惹く。
突然の大声に辺りを見回すと、顔を真っ赤にして明美に謝る。
「ご、ごめん」
黒板の前で、こちらを見て
「村上さん、授業中は集中して前を見る」と担任にまで叱られる。
高校では、中学の時の同級生とも会うことも無くなり、大学に入って一度同窓会の誘いはあったが、サークルの合宿で予定が立たなかった。懐かしい思いで覗いたSNSに明美の姿を見つけた。おかっぱの女の子が美しい女性になっていた。SNSを遡ると地元の同じ大学だった。
彼女と連絡を取りあった。幼馴染だけあって、お互いの素性も性格も知った仲だった。合えばお互い何も変わっていないことがわかった。当時付き合っていないことも好条件だった。
大学での再会後、彼らは急速に親密になっていった。
何度目かのデートで、季節は蝉が鳴き始めた良く晴れた日、二人は自宅近くにある公園に出かけた。吹き付ける風が心地よく、明美が、
「今日も最高の天気だね!」と微笑む。
政久はただ黙って頷きながら横を歩く彼女の手をそっと握った。彼女の手の温もりが、いつもの安心感を与えてくれた。
「覚えてる?中学の頃、部活終わりに皆でよくこの辺りで遊んだよね」と明美が懐かしそうに言った。
「ああ、覚えてるさ。でもあの頃は、俺たち、まだガキだったよな。」と政久は照れくさそうに答えた。彼女が成長して美しくなったことに、改めて気づいた。
その後、俺たちは公園を流れる小さな川沿いを歩きながらたわいもない話を続けた。大学での授業、サークル活動のこと、昔の友人たちのこと。時折、笑い声が響き、二人の距離はどんどん近づいていった。
公園のベンチに座り、夕暮れの空がオレンジ色に染まるのを眺めながら、明美が少し真剣な表情で言った。
「政久、これからもずっと一緒にいようね」
その言葉に俺は少し驚きながらも、明美をを見つめて、
「もちろん、俺もずっと一緒にいたい」と力強く答えた。
明美の瞳が少し潤んでいるのに気づき、彼は無言で彼女の肩を抱き寄せた。
二人の間には言葉はいらなかった。ただ、その瞬間、二人の間に流れる時間が永遠に続くかのような、そんな安心感があった。どこにいても、何をしていても、お互いの存在がそこにあるだけで満たされていた。
付き合い始めて三年が経ちお互い社会人として生活し始めた。この機会に同棲を始めようという矢先だった。あの事件が起こったのは。
夢から目覚めた俺は、自分が死ぬことも許されない存在だと受け入れざるを得ないと知った。
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