10 / 10
寝惚先生漂流記
しおりを挟む
――平成8年(1998) 5月――
うわ!痛てえ……おい、ここはどこだ……。うう、臭え!ごほんごほん……。
南畝は思わず咽せてしまった。頬を抓らなくとも、これが夢ではないことを早々に悟った。しかし、問題はそれとは違うところにあった。
「あれ……俺って誰だっけ……」
南畝はきょろきょろと辺りを見渡した。完全に記憶を失ってしまったのである。南畝は急に恐ろしくなって、
「あんた、ねえ、あんた」
女のようなか細い声で道ゆく人に何度も声をかけたが、誰も一向に振り向く気配がない。春の日差しは暖かかったが、南畝に吹きつける風はいささか冷たかった。
「怖いなあ……でも、なんとかしねえと……」
うなだれながらよろよろと歩き始めた、その時である。
「きゃ!」
それは正面衝突だった。
「痛……え?」
「ええ?」
二人は顔を見合わせた。二人とは、南畝と、直子である。
「おい、あんた、俺が……わかるかい?」
その質問に答えないうちに、
「わあ!すごく精巧な小袖!素敵ですねえ!」
直子は袖の部分を親指と人差し指で、何度も手触りを確かめた。
「やめとくれ……」
南畝は呆気に取られた様子で、直子の顔を見た。
「髪型もリアル~。すごい」
「……触るな!」
南畝は思わず直子の手を払い除けた。
「すみません……」
「いやあ、いいけどよ。ここは、一体どこなんだい。説明してくれねえか」
直子は困惑した様子で、
「ここはドコって言われても……両国ですとしか……。何処から来られたのですか?」
南畝は空を見上げながら、
「それが……思い出せねえんだ」
「え?じゃあ、名前は……」
「それもなんだよ……」
南畝は、おいおい泣き出した。
「あらら、それは……大変ですね。こんなところで……」
直子はその時、森山の友人の岡田の話を思い出した。この人、もしかして北斎と同じように、江戸から来た人ではないのか。なぜなら、周囲の人間は一切この老人に気づいている様子はないからである。直子は妙案を思いついた。
「ちょっと、家まで来ませんか?お腹も減っていることでしょう」
南畝は半ば諦めたような様子で、直子の手に引かれるままであった。
「ただいま」
「えらく早いなア……ん?」
玄関先で出迎えた森山は、直子の奥にいる老人の存在に気づいた。
「……」
「ああ……北斎と一緒の感じね……。でもさ、わざわざここに連れてこなくったって……」
「いいの。私が責任を持ちます。任せなさい」
直子は買い物袋をどんと置くと、奥の方へと南畝を連れて行き、
「ここ、使っていいですよ。普段は使ってませんから」
と空き部屋を案内した。
「ああ!そこは俺が気分転換するときに使う……」
「い・い・で・しょ」
「うう……負けた。負けたよ。使っていいよ、爺さん」
南畝はおどおどしながら部屋に入ると、ふと、新聞の記事が目についた。自身の邸宅の跡を見て、南畝は何か思い出しそうになった。しかし、頭がキリキリと痛みだし、脳内の景色には再び靄がかかった。
次の朝、森山は岡田に電話をかけた。
「おい。聞いてくれ。うちの嫁が、江戸時代の人を連れてきた」
「へえ。北斎さんと一緒の類かあ……どんなひと?」
「それがどうも……記憶を無くしてしまっているみたいなんだ。年は、北斎と同じくらいで、服装も似ている。でも、北斎ほどのパワーはない感じだ。北斎って、結構タフなご老人だったんだなあ」
「どうする?またエレキテルで帰ってもらうか?」
「今回は、どこの時代に返してやればいいのかわからんし、覚えてないままなのも可哀想だから、しばらくお世話するよ」
「経験者は語るが、中々大変だよ」
「ああ、でも北斎ほどの変なやつではないだろう。はははは」
その森山の楽観的な予想は、暫くして大きく覆されることになる。
うわ!痛てえ……おい、ここはどこだ……。うう、臭え!ごほんごほん……。
南畝は思わず咽せてしまった。頬を抓らなくとも、これが夢ではないことを早々に悟った。しかし、問題はそれとは違うところにあった。
「あれ……俺って誰だっけ……」
南畝はきょろきょろと辺りを見渡した。完全に記憶を失ってしまったのである。南畝は急に恐ろしくなって、
「あんた、ねえ、あんた」
女のようなか細い声で道ゆく人に何度も声をかけたが、誰も一向に振り向く気配がない。春の日差しは暖かかったが、南畝に吹きつける風はいささか冷たかった。
「怖いなあ……でも、なんとかしねえと……」
うなだれながらよろよろと歩き始めた、その時である。
「きゃ!」
それは正面衝突だった。
「痛……え?」
「ええ?」
二人は顔を見合わせた。二人とは、南畝と、直子である。
「おい、あんた、俺が……わかるかい?」
その質問に答えないうちに、
「わあ!すごく精巧な小袖!素敵ですねえ!」
直子は袖の部分を親指と人差し指で、何度も手触りを確かめた。
「やめとくれ……」
南畝は呆気に取られた様子で、直子の顔を見た。
「髪型もリアル~。すごい」
「……触るな!」
南畝は思わず直子の手を払い除けた。
「すみません……」
「いやあ、いいけどよ。ここは、一体どこなんだい。説明してくれねえか」
直子は困惑した様子で、
「ここはドコって言われても……両国ですとしか……。何処から来られたのですか?」
南畝は空を見上げながら、
「それが……思い出せねえんだ」
「え?じゃあ、名前は……」
「それもなんだよ……」
南畝は、おいおい泣き出した。
「あらら、それは……大変ですね。こんなところで……」
直子はその時、森山の友人の岡田の話を思い出した。この人、もしかして北斎と同じように、江戸から来た人ではないのか。なぜなら、周囲の人間は一切この老人に気づいている様子はないからである。直子は妙案を思いついた。
「ちょっと、家まで来ませんか?お腹も減っていることでしょう」
南畝は半ば諦めたような様子で、直子の手に引かれるままであった。
「ただいま」
「えらく早いなア……ん?」
玄関先で出迎えた森山は、直子の奥にいる老人の存在に気づいた。
「……」
「ああ……北斎と一緒の感じね……。でもさ、わざわざここに連れてこなくったって……」
「いいの。私が責任を持ちます。任せなさい」
直子は買い物袋をどんと置くと、奥の方へと南畝を連れて行き、
「ここ、使っていいですよ。普段は使ってませんから」
と空き部屋を案内した。
「ああ!そこは俺が気分転換するときに使う……」
「い・い・で・しょ」
「うう……負けた。負けたよ。使っていいよ、爺さん」
南畝はおどおどしながら部屋に入ると、ふと、新聞の記事が目についた。自身の邸宅の跡を見て、南畝は何か思い出しそうになった。しかし、頭がキリキリと痛みだし、脳内の景色には再び靄がかかった。
次の朝、森山は岡田に電話をかけた。
「おい。聞いてくれ。うちの嫁が、江戸時代の人を連れてきた」
「へえ。北斎さんと一緒の類かあ……どんなひと?」
「それがどうも……記憶を無くしてしまっているみたいなんだ。年は、北斎と同じくらいで、服装も似ている。でも、北斎ほどのパワーはない感じだ。北斎って、結構タフなご老人だったんだなあ」
「どうする?またエレキテルで帰ってもらうか?」
「今回は、どこの時代に返してやればいいのかわからんし、覚えてないままなのも可哀想だから、しばらくお世話するよ」
「経験者は語るが、中々大変だよ」
「ああ、でも北斎ほどの変なやつではないだろう。はははは」
その森山の楽観的な予想は、暫くして大きく覆されることになる。
0
お気に入りに追加
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
鈍牛
綿涙粉緒
歴史・時代
浅草一体を取り仕切る目明かし大親分、藤五郎。
町内の民草はもちろん、十手持ちの役人ですら道を開けて頭をさげようかという男だ。
そんな男の二つ名は、鈍牛。
これは、鈍く光る角をたたえた、眼光鋭き牛の物語である。
荷運び屋、お初
津月あおい
歴史・時代
享保の時代、板橋宿に女力持ちと評判の娘がいた。
娘の名はお初。
畑でとれた野菜を毎日山のように背負い、駒込の青果市場まで運んでいた。
ある日、飲んだくれの父が侍に無礼を働いてしまう。
お初はその代償に、宿場の飯盛り女として働かされそうに。それを阻止せんと病弱な母親が肩代わりしようとするがーー。
そこに謎の素浪人・半次郎が現れ、「娘の怪力は商売になる、ここはひとつ俺に任せろ」と助け船を出す。
お初は家の窮地を救われ、恩人の半次郎とともに見世物で有名な浅草寺に向かう。
力持ちの芸で銭を稼ぎながら、やがてお初はどんな荷物でも運ぶ「荷運び屋」となっていく。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
蒼雷の艦隊
和蘭芹わこ
歴史・時代
第五回歴史時代小説大賞に応募しています。
よろしければ、お気に入り登録と投票是非宜しくお願いします。
一九四二年、三月二日。
スラバヤ沖海戦中に、英国の軍兵四二二人が、駆逐艦『雷』によって救助され、その命を助けられた。
雷艦長、その名は「工藤俊作」。
身長一八八センチの大柄な身体……ではなく、その姿は一三○センチにも満たない身体であった。
これ程までに小さな身体で、一体どういう風に指示を送ったのか。
これは、史実とは少し違う、そんな小さな艦長の物語。
局中法度
夢酔藤山
歴史・時代
局中法度は絶対の掟。
士道に叛く行ないの者が負う責め。
鉄の掟も、バレなきゃいいだろうという甘い考えを持つ者には意味を為さない。
新選組は甘えを決して見逃さぬというのに……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる