8 / 10
犬馬の年
しおりを挟む
――文政6年(1823) 正月――
人が亡くなった年から、次の年へと跨ぐ正月は、どこか薄暗く、せっかくの飯もすっかり不味くなってしまうものである。それが、年を重ねて、親しき友人がこの世を去ったならば、なおさらであろう。
「だめだ。何も食べる気が起きない……」
「どうされたんですか……」
家族と離れた南畝の横にいるのは、彼がいつ知り合ったかも分からない妾。その名をお香といった。好色艶やかな南畝その人が、若い女を目の前にしても……思い出すのは、焉馬との昔のことばかりである。いつ頃の話だっただろうか。
「このくらいでどうかね」
「流石、手慣れの者は違うね、焉馬。一生、感謝してもしきれないぜ」
腕を組んで語り合う二人の目の前には、落成間近の南畝の邸宅が聳え立っていた。焉馬の本業は、何を隠そう、大工の棟梁である。
「中々の出来だろう」
「いやあ。お前さんは実に器用なやつだ。噺も巧いし、友人も豊富。おまけに狂歌も達者ときた。こりゃ敵わん」
「いや、文才では南畝に軍配があがると思うがな」
「俺には戯れる才能しかない。お前は実に真面目で……」
「突然そういうことを言うやつは、俺は信用しないことにしている」
「何を!」
はははは……
昨日のことのように思い出す。南畝の枯れた心は、月日が流れ、草花が活き活きと芽吹く季節になっても、一向に癒やされることはなかった。
ある日のことである。
「……お香、俺、もういいや」
「先生。何仰っているの」
「いや……この年まで、俺は何をしてきたのか、と思ってな」
「あら、珍しいこと。先生、そんなこと思われたこと今までありまして?」
「お前には分からん……どうせ気楽に生きている野郎だと、思ってんだろう」
「そんなことありませんわ、先生」
「それももう、遥か昔……ああ、昔は馬鹿で良かったなあ。はあ……ちょっと出掛けてくる」
「ええ?そんなご用事、先生、今日はなかったでしょう?」
「いいんだ……もし帰ってこなかったら、南畝は道端で転んで死んだよ、とでも言っておいておくれ。笑い噺の一つや二つになるだろ」
「まあ、死んだなんて。変なこと仰らないで」
「ふん……別にいいのサ。別にどうでも……」
南畝はすぐに出ていった。……ちなみに、このお香と名乗る女は、相当いい女であったようである。
ずっと歩いて、ついに永代橋近くに差し掛かった時、南畝は焉馬の言葉を思い出していた。
――不思議だと思うから、不思議なんだ。案外……自然なことかも知れんぞ――
「そう言われたってなあ……」
自分の二の腕を無闇に掻きむしりながら、南畝は呟いた。おや、よく見ると袖に、小さな虫が付いている。
「どこから付いてやがった。しっしっ」
手で払った拍子で、南畝は虫を潰してしまった。あゝ……。
「はは……随分呆気なく死んじまったな。……次は、俺の番……か」
その時、南畝の姿が一瞬にして消えた。
お香は待てど暮らせど南畝が帰ってこないので、ついに言いつけ通り、転んで死んだことにした。葬式もあげなかった為に、南畝の友人たちは、俄には信じ難いと彼女を非難したが、唯一、南北だけはその言葉を信じると言った。
「おい。儂らは死体も見ていないのに、妾の戯言を信じるのか」
「ああ、俺は信じるね。お香さん、忙しいところ悪いが、少しこの老いぼれと話をしないか」
南北は力強くお香の腕を引き、細い裏路地へと連れていった。
「何ですか……」
「南畝が死んだのは、嘘だね?」
「……実は、私も分からないのが本音ですわ」
「ふむ……もしかして、南畝は、永代橋の方に行かなかったかい」
「分かりませんわ。ただ……」
「ただ?」
「ひどく……ご友人の死に、落ち込んでいました」
「ご友人……焉馬か」
「はい……恐らく……」
「わかった。有難うよ。これ……何かの足しにでもしてくれ」
南北は懐から幾らかの銭を出し、お香に手渡した。
「ええ!こんなに頂けません」
「いいんだ。あいつには世話になったから。さあ、さあ」
南北は彼女が受け取ったことを確認すると、すっとその場から去ろうとした。
「待ってください!」
お香は必死に呼び止めたが、かの大戯作者は、背を向けて手を振るのみであった。
南北は中村座へと向かう道の途中で、こう呟いた。
「これか“渡り”か。南畝の奴、帰ってくるつもりは、一体あるのかね。もし……帰ってきて、俺が生きていなかったら、その時は……」
人が亡くなった年から、次の年へと跨ぐ正月は、どこか薄暗く、せっかくの飯もすっかり不味くなってしまうものである。それが、年を重ねて、親しき友人がこの世を去ったならば、なおさらであろう。
「だめだ。何も食べる気が起きない……」
「どうされたんですか……」
家族と離れた南畝の横にいるのは、彼がいつ知り合ったかも分からない妾。その名をお香といった。好色艶やかな南畝その人が、若い女を目の前にしても……思い出すのは、焉馬との昔のことばかりである。いつ頃の話だっただろうか。
「このくらいでどうかね」
「流石、手慣れの者は違うね、焉馬。一生、感謝してもしきれないぜ」
腕を組んで語り合う二人の目の前には、落成間近の南畝の邸宅が聳え立っていた。焉馬の本業は、何を隠そう、大工の棟梁である。
「中々の出来だろう」
「いやあ。お前さんは実に器用なやつだ。噺も巧いし、友人も豊富。おまけに狂歌も達者ときた。こりゃ敵わん」
「いや、文才では南畝に軍配があがると思うがな」
「俺には戯れる才能しかない。お前は実に真面目で……」
「突然そういうことを言うやつは、俺は信用しないことにしている」
「何を!」
はははは……
昨日のことのように思い出す。南畝の枯れた心は、月日が流れ、草花が活き活きと芽吹く季節になっても、一向に癒やされることはなかった。
ある日のことである。
「……お香、俺、もういいや」
「先生。何仰っているの」
「いや……この年まで、俺は何をしてきたのか、と思ってな」
「あら、珍しいこと。先生、そんなこと思われたこと今までありまして?」
「お前には分からん……どうせ気楽に生きている野郎だと、思ってんだろう」
「そんなことありませんわ、先生」
「それももう、遥か昔……ああ、昔は馬鹿で良かったなあ。はあ……ちょっと出掛けてくる」
「ええ?そんなご用事、先生、今日はなかったでしょう?」
「いいんだ……もし帰ってこなかったら、南畝は道端で転んで死んだよ、とでも言っておいておくれ。笑い噺の一つや二つになるだろ」
「まあ、死んだなんて。変なこと仰らないで」
「ふん……別にいいのサ。別にどうでも……」
南畝はすぐに出ていった。……ちなみに、このお香と名乗る女は、相当いい女であったようである。
ずっと歩いて、ついに永代橋近くに差し掛かった時、南畝は焉馬の言葉を思い出していた。
――不思議だと思うから、不思議なんだ。案外……自然なことかも知れんぞ――
「そう言われたってなあ……」
自分の二の腕を無闇に掻きむしりながら、南畝は呟いた。おや、よく見ると袖に、小さな虫が付いている。
「どこから付いてやがった。しっしっ」
手で払った拍子で、南畝は虫を潰してしまった。あゝ……。
「はは……随分呆気なく死んじまったな。……次は、俺の番……か」
その時、南畝の姿が一瞬にして消えた。
お香は待てど暮らせど南畝が帰ってこないので、ついに言いつけ通り、転んで死んだことにした。葬式もあげなかった為に、南畝の友人たちは、俄には信じ難いと彼女を非難したが、唯一、南北だけはその言葉を信じると言った。
「おい。儂らは死体も見ていないのに、妾の戯言を信じるのか」
「ああ、俺は信じるね。お香さん、忙しいところ悪いが、少しこの老いぼれと話をしないか」
南北は力強くお香の腕を引き、細い裏路地へと連れていった。
「何ですか……」
「南畝が死んだのは、嘘だね?」
「……実は、私も分からないのが本音ですわ」
「ふむ……もしかして、南畝は、永代橋の方に行かなかったかい」
「分かりませんわ。ただ……」
「ただ?」
「ひどく……ご友人の死に、落ち込んでいました」
「ご友人……焉馬か」
「はい……恐らく……」
「わかった。有難うよ。これ……何かの足しにでもしてくれ」
南北は懐から幾らかの銭を出し、お香に手渡した。
「ええ!こんなに頂けません」
「いいんだ。あいつには世話になったから。さあ、さあ」
南北は彼女が受け取ったことを確認すると、すっとその場から去ろうとした。
「待ってください!」
お香は必死に呼び止めたが、かの大戯作者は、背を向けて手を振るのみであった。
南北は中村座へと向かう道の途中で、こう呟いた。
「これか“渡り”か。南畝の奴、帰ってくるつもりは、一体あるのかね。もし……帰ってきて、俺が生きていなかったら、その時は……」
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
荷運び屋、お初
津月あおい
歴史・時代
享保の時代、板橋宿に女力持ちと評判の娘がいた。
娘の名はお初。
畑でとれた野菜を毎日山のように背負い、駒込の青果市場まで運んでいた。
ある日、飲んだくれの父が侍に無礼を働いてしまう。
お初はその代償に、宿場の飯盛り女として働かされそうに。それを阻止せんと病弱な母親が肩代わりしようとするがーー。
そこに謎の素浪人・半次郎が現れ、「娘の怪力は商売になる、ここはひとつ俺に任せろ」と助け船を出す。
お初は家の窮地を救われ、恩人の半次郎とともに見世物で有名な浅草寺に向かう。
力持ちの芸で銭を稼ぎながら、やがてお初はどんな荷物でも運ぶ「荷運び屋」となっていく。
浅井長政は織田信長に忠誠を誓う
ピコサイクス
歴史・時代
1570年5月24日、織田信長は朝倉義景を攻めるため越後に侵攻した。その時浅井長政は婚姻関係の織田家か古くから関係ある朝倉家どちらの味方をするか迷っていた。
鈍牛
綿涙粉緒
歴史・時代
浅草一体を取り仕切る目明かし大親分、藤五郎。
町内の民草はもちろん、十手持ちの役人ですら道を開けて頭をさげようかという男だ。
そんな男の二つ名は、鈍牛。
これは、鈍く光る角をたたえた、眼光鋭き牛の物語である。
夜鳴き屋台小咄
西崎 劉
歴史・時代
屋台を営む三人が遭遇する、小話。
時代設定は江戸頃としていますが、江戸時代でも、場所が東京ではなかったりします。時代物はまぁ、侍が多めなので、できれば庶民目線の話が読みたくて、書いてみようかなと。色々と勉強不足の部分が多いですが、暇つぶしにどうぞくらいなら、いいかなとチャレンジしました。
局中法度
夢酔藤山
歴史・時代
局中法度は絶対の掟。
士道に叛く行ないの者が負う責め。
鉄の掟も、バレなきゃいいだろうという甘い考えを持つ者には意味を為さない。
新選組は甘えを決して見逃さぬというのに……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる