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直子の家
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――平成8年(1998) 4月――
ブイーン……ブーン……
「直子さん……」
「なに?」
「俺がマンガのアイデアを考えてる時に、掃除はやめてくれよ」
「森山くん、君は、描きたい時に描く、私も、掃除したい時に、掃除する。どうせすぐ終わるわよ」
直子は森山よりも四つ年上で、元担当編集者である。彼女の厳しい、厳しいダメ出しによって、磨かれた作品も決して少なくない。結婚を機に仕事は辞めたが、彼女の敏腕ぶりには凄まじいものがあったので、とある所からの情報によると、復帰が熱望されているらしい。……そういえば、昔にこんなことがあった。二人が結婚する前のことである。
「森山くん、このキャラは違うかなあ」
「何でですか!めちゃくちゃ魅力的でしょう!」
「どこに魅力を、感じてるの」
「え……ほら、男の美学っていうか、その……そう!自分を貫き通してるとこ……とか……」
「ううん」
「何ですか……」
「そういうのってねえ……難しいのよ。ほら、マンガってさ、セリフもちゃんと書くでしょう?森山くんの言う“男の美学”は、言い換えれば“沈黙の美学”のようなものでね……読者に必ずしもわかるとは限らない。モノローグも必然的に多くなって、テンポがいいとは言えないし」
「じゃあ、ベラベラ喋らせるんですか」
「そうなったら、全然雰囲気違うでしょう」
「こまったな……」
「そうだ!一回、これ、女性にしてみてくれない?」
「えエ!そんなの描けないです……」
「君、そんな女性を描いた経験ないし、実力の面で、流行りの美少女路線は無理だと思う。だからさ、練習だと思って、頑張れ」
「はあ……」
こうして出来上がったキャラクターは、どこか見覚えのある女性であった。
「ううむ……」
「あんた、床に寝転がっちゃって、何考えてるの」
「いやあね、影野忍兵衛か……って思って」
「ああ、私が言ったやつ?」
「そうだよ」
「これ……見てよ。新聞の記事!」
直子は相当な江戸マニアである。その熱と知識量は、とても常人の比ではない。わざわざ書くことでもないとは思うが、『コメディーお江戸でござる』の放送は欠かさず見ている。しかし、普段はその面影を他人に見せない。森山でさえも結婚した後にその正体を見たのである。本人曰く、女は化粧の下に、何でも隠せるのだと言う。
さて、彼女について少々語りすぎた。ええと、彼女は棚の上から、新聞の切り抜きを持ってきた。
「ほう……」
そこには、江戸時代の建築における新発見について記されていた。
「読んでみて」
「ふうん……それが何か忍兵衛と関係あるわけ……」
「あんた、本当わかんないわねー。萌えよ、萌え。市井の人がどんな家にいたのか、何を読んでいたのか、何を食べていたのか……それを考えているだけで、ウズウズする人間なのよ。私は」
「はあー。俺にはさっぱり分からん、最近の言葉もな」
「でも、前より興味はありそうね。何かあった?」
「いやあね。岡田がさ……」
「岡田さんって、あんたの友達だったわね」
「そう。実は……」
森山は、北斎と岡田との物語を妻に初めて語った。そこには多少の脚色もあったが……マンガ家たるもの、そういうものであろう。
「へえ……それって、私たちが結婚する前?」
「そう。……直前くらいだったな……おい、何ふくれてんだよ」
「だって……めっちゃ羨ましくて……絶対面白いじゃん……」
「む、俺がいても面白くないみたいに……まあ、刺激ではあるよな」
「あんたも……何か描くなり何なりしてよ……」
「歴史物か?」
「でも、そのまま描くのはだめよ。それはマンガ家として禁じ手だから……」
「はいはい。いつか描きましょうかねえ……」
「ところでさ……」
「何?」
「どうして、岡田さんや、あんたには北斎が見えて、他の人には、見えなかったのかしらね?」
糊が今にも剥がれてしまいそうな新聞記事には、こう書かれていた。直子はそういうところは実に大雑把なのである。
「この邸宅は、江戸のマルチ文化人として有名な大田南畝が住んでいたと思われる邸宅であり……」
ブイーン……ブーン……
「直子さん……」
「なに?」
「俺がマンガのアイデアを考えてる時に、掃除はやめてくれよ」
「森山くん、君は、描きたい時に描く、私も、掃除したい時に、掃除する。どうせすぐ終わるわよ」
直子は森山よりも四つ年上で、元担当編集者である。彼女の厳しい、厳しいダメ出しによって、磨かれた作品も決して少なくない。結婚を機に仕事は辞めたが、彼女の敏腕ぶりには凄まじいものがあったので、とある所からの情報によると、復帰が熱望されているらしい。……そういえば、昔にこんなことがあった。二人が結婚する前のことである。
「森山くん、このキャラは違うかなあ」
「何でですか!めちゃくちゃ魅力的でしょう!」
「どこに魅力を、感じてるの」
「え……ほら、男の美学っていうか、その……そう!自分を貫き通してるとこ……とか……」
「ううん」
「何ですか……」
「そういうのってねえ……難しいのよ。ほら、マンガってさ、セリフもちゃんと書くでしょう?森山くんの言う“男の美学”は、言い換えれば“沈黙の美学”のようなものでね……読者に必ずしもわかるとは限らない。モノローグも必然的に多くなって、テンポがいいとは言えないし」
「じゃあ、ベラベラ喋らせるんですか」
「そうなったら、全然雰囲気違うでしょう」
「こまったな……」
「そうだ!一回、これ、女性にしてみてくれない?」
「えエ!そんなの描けないです……」
「君、そんな女性を描いた経験ないし、実力の面で、流行りの美少女路線は無理だと思う。だからさ、練習だと思って、頑張れ」
「はあ……」
こうして出来上がったキャラクターは、どこか見覚えのある女性であった。
「ううむ……」
「あんた、床に寝転がっちゃって、何考えてるの」
「いやあね、影野忍兵衛か……って思って」
「ああ、私が言ったやつ?」
「そうだよ」
「これ……見てよ。新聞の記事!」
直子は相当な江戸マニアである。その熱と知識量は、とても常人の比ではない。わざわざ書くことでもないとは思うが、『コメディーお江戸でござる』の放送は欠かさず見ている。しかし、普段はその面影を他人に見せない。森山でさえも結婚した後にその正体を見たのである。本人曰く、女は化粧の下に、何でも隠せるのだと言う。
さて、彼女について少々語りすぎた。ええと、彼女は棚の上から、新聞の切り抜きを持ってきた。
「ほう……」
そこには、江戸時代の建築における新発見について記されていた。
「読んでみて」
「ふうん……それが何か忍兵衛と関係あるわけ……」
「あんた、本当わかんないわねー。萌えよ、萌え。市井の人がどんな家にいたのか、何を読んでいたのか、何を食べていたのか……それを考えているだけで、ウズウズする人間なのよ。私は」
「はあー。俺にはさっぱり分からん、最近の言葉もな」
「でも、前より興味はありそうね。何かあった?」
「いやあね。岡田がさ……」
「岡田さんって、あんたの友達だったわね」
「そう。実は……」
森山は、北斎と岡田との物語を妻に初めて語った。そこには多少の脚色もあったが……マンガ家たるもの、そういうものであろう。
「へえ……それって、私たちが結婚する前?」
「そう。……直前くらいだったな……おい、何ふくれてんだよ」
「だって……めっちゃ羨ましくて……絶対面白いじゃん……」
「む、俺がいても面白くないみたいに……まあ、刺激ではあるよな」
「あんたも……何か描くなり何なりしてよ……」
「歴史物か?」
「でも、そのまま描くのはだめよ。それはマンガ家として禁じ手だから……」
「はいはい。いつか描きましょうかねえ……」
「ところでさ……」
「何?」
「どうして、岡田さんや、あんたには北斎が見えて、他の人には、見えなかったのかしらね?」
糊が今にも剥がれてしまいそうな新聞記事には、こう書かれていた。直子はそういうところは実に大雑把なのである。
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