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夢の憂橋
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――文化5年(1808) 夏――
暑さ堪える夜であった。
「あの噺は本当か。南畝」
「ああ、これは正真正銘、本当の噺だ」
三升連(みますれん)の仲間たちはその夜、南畝の話を聞いて目を丸くした。怪談噺に慣れた連中も、ぎゅっと息の詰まる感覚を覚えた。何故ならば……
「永代橋、あれが崩れたのが去年のことだね。実に凄惨な事故だったが……」
「ああ、覚えている」
「その後のことなんだが……」
「……?」
「結論から言おう。人が忽然と……橋の近くで忽然と消えているんだ」
「ひいい、こわい、こわい」
一人が恐怖で足を強く床に打ち付けた。
「しっ。もう少し、詳しく話そう。俺はいろんな人にあの例の一件について聞いて回ったんだが……勿論、事故の詳細を話してくれる奴もいた。しかし……俺があえてこの場所だけで話したいのは、そのことだ」
「これまで、そんなことはどれくらいあったんだ」
「今まで十件ほど聞いている。いや……よく起こったら困るがね。そのすべては、爺さん、婆さんが通りかかった時らしい」
「神隠しっていうのは、普通、子どもじゃないのかい」
「そう。俺もそう思ったサ。それに関しては今もよくわからん。……大事なのは、別に橋から落っこちたわけじゃねえってことさ。あの事故の“後”のことなんだ」
「そうだな……」
「……それを俺は、“渡り”と名付けたい」
「ほう、“渡り”とな」
「橋は、何かを渡るためにあるもんだ。川なり、谷なり。それはまあ、色々だろう?」
「ふむ」
「それが崩れたりしたときにゃあ、夢と現との間を、人が跨いだって不思議じゃねえ……」
「ほう……俄には信じられないが、面白い、面白い」
「我が身に起きんことを祈っておくとするかあ」
皆から感嘆のため息がでた。その後、陽が昇ってきて散会となったが、焉馬は南畝を呼び止めた。
「なあ、南畝、お前が“渡り”と名付けたもの、あの噺はまるで……」
「そう。源内先生のあれにそっくりだ。……お前にだけは言おうと思っていた」
南畝は鋭い視線を焉馬に向けた。
「まさか、えれきてるとは……」
「そう、俺の“渡り”を作為的に行うもの……だったかも知れねえ」
「お前さん、その目はもしや……」
「えれきてるは、源内先生しか扱えなかった。俺は……もう一度先生に逢いたいんだ」
「“渡り”の噺は恐ろしい限りだ。それは、あまりに危険すぎやしないか」
「……それでもいいんだ」
「それに、源内は行って、帰ってきてないのだぞ。戻る保証はない」
「先生は……もとから江戸になんか帰るつもりはなかったんだ。きっと、別の世界に……」
「五十を優に越えた老いぼれが世迷言はよせ。お前には官人としての仕事もあろうに」
「人生五十年というならば、もうこの身はとっくのとうに自由なはずなんだがな……」
それから毎日、南畝は永代橋を通るようにし、“渡り”が自身の身に起こることを待ち望んだ。
「アジャラカモクレン……」
ぶつぶつと呪文を唱えども唱えども、一向にその気配はなかった。
「くそっ。今日もだめだった」
周囲の人間は実に不思議そうに南畝の姿を見ていた。
――文政5年(1822) 夏――
ガラガラガラ。
「おや、“あんた”も来てくれたのかい。少しばかり、懐かしい顔ぶれが、揃いましたナ。はははは」
「おい、笑うな。俺は本気で心配してやっているのだぞ……。“渡り”の謎を解かずに、お前は……お前は、逝ってしまうのか」
「お前ほどのやつが笑うな、とはな。南畝、聞きたいんだが、こんなに江戸中で人が毎日死んでゆく中で、なぜ“渡り”が、特別なことのように起きるのか?」
「変なことを聞く。どういう意味だ」
「おぬしはかつて言ったな。橋は、跨ぐものであると。だから、人も夢と現を跨ぐのだと。しかし、人の生き死にを考えれば……それも、“渡り”のひとつではないのか」
「焉馬、お前は何を……」
「だからな、南畝。“渡り”は、何ら不思議なことではない、ということさ」
「……」
「不思議だと思うから、不思議なんだ。案外……自然なことかも知れんぞ」
南畝はその言葉を聞いてはっとして、足早に出て行ってしまった。
「おい、“渡り”とは何だ」
隅にいた南北が尋ねた。
「俺の聞いた南畝の話だよ、“渡り”とはだな……」
焉馬はあの夜に南畝が話したこと、永代橋に何年も通って、その謎を解こうとしていることを語った。
「なるほどね……。それにしても、あんた、さっき面白いこと言ったね。俺たちが不思議だと思っていることが、自然なことだと。俺が歌舞伎で描いた幽霊といった類も、どこかにいるのかねエ」
「俺が、向こうで見てきてやろう」
「そいつは頼もしいね。絵も頼む」
「絵は……ほら、あいつに頼んでくれよ、ええと……」
「葛飾北斎、か?」
「そう、そう。あいつなら……」
「はっはっは。実にその通り。……俺も、そろそろ帰るとするかな。焉馬、体を大事にしろよ」
「おう、ありが……ごほっ……ぐっ」
「おいおい、無理するなよ。さっきから、話し過ぎたんだな」
「いや、俺は噺家だ。話して死ねるなら本望よ」
暑さ堪える夜であった。
「あの噺は本当か。南畝」
「ああ、これは正真正銘、本当の噺だ」
三升連(みますれん)の仲間たちはその夜、南畝の話を聞いて目を丸くした。怪談噺に慣れた連中も、ぎゅっと息の詰まる感覚を覚えた。何故ならば……
「永代橋、あれが崩れたのが去年のことだね。実に凄惨な事故だったが……」
「ああ、覚えている」
「その後のことなんだが……」
「……?」
「結論から言おう。人が忽然と……橋の近くで忽然と消えているんだ」
「ひいい、こわい、こわい」
一人が恐怖で足を強く床に打ち付けた。
「しっ。もう少し、詳しく話そう。俺はいろんな人にあの例の一件について聞いて回ったんだが……勿論、事故の詳細を話してくれる奴もいた。しかし……俺があえてこの場所だけで話したいのは、そのことだ」
「これまで、そんなことはどれくらいあったんだ」
「今まで十件ほど聞いている。いや……よく起こったら困るがね。そのすべては、爺さん、婆さんが通りかかった時らしい」
「神隠しっていうのは、普通、子どもじゃないのかい」
「そう。俺もそう思ったサ。それに関しては今もよくわからん。……大事なのは、別に橋から落っこちたわけじゃねえってことさ。あの事故の“後”のことなんだ」
「そうだな……」
「……それを俺は、“渡り”と名付けたい」
「ほう、“渡り”とな」
「橋は、何かを渡るためにあるもんだ。川なり、谷なり。それはまあ、色々だろう?」
「ふむ」
「それが崩れたりしたときにゃあ、夢と現との間を、人が跨いだって不思議じゃねえ……」
「ほう……俄には信じられないが、面白い、面白い」
「我が身に起きんことを祈っておくとするかあ」
皆から感嘆のため息がでた。その後、陽が昇ってきて散会となったが、焉馬は南畝を呼び止めた。
「なあ、南畝、お前が“渡り”と名付けたもの、あの噺はまるで……」
「そう。源内先生のあれにそっくりだ。……お前にだけは言おうと思っていた」
南畝は鋭い視線を焉馬に向けた。
「まさか、えれきてるとは……」
「そう、俺の“渡り”を作為的に行うもの……だったかも知れねえ」
「お前さん、その目はもしや……」
「えれきてるは、源内先生しか扱えなかった。俺は……もう一度先生に逢いたいんだ」
「“渡り”の噺は恐ろしい限りだ。それは、あまりに危険すぎやしないか」
「……それでもいいんだ」
「それに、源内は行って、帰ってきてないのだぞ。戻る保証はない」
「先生は……もとから江戸になんか帰るつもりはなかったんだ。きっと、別の世界に……」
「五十を優に越えた老いぼれが世迷言はよせ。お前には官人としての仕事もあろうに」
「人生五十年というならば、もうこの身はとっくのとうに自由なはずなんだがな……」
それから毎日、南畝は永代橋を通るようにし、“渡り”が自身の身に起こることを待ち望んだ。
「アジャラカモクレン……」
ぶつぶつと呪文を唱えども唱えども、一向にその気配はなかった。
「くそっ。今日もだめだった」
周囲の人間は実に不思議そうに南畝の姿を見ていた。
――文政5年(1822) 夏――
ガラガラガラ。
「おや、“あんた”も来てくれたのかい。少しばかり、懐かしい顔ぶれが、揃いましたナ。はははは」
「おい、笑うな。俺は本気で心配してやっているのだぞ……。“渡り”の謎を解かずに、お前は……お前は、逝ってしまうのか」
「お前ほどのやつが笑うな、とはな。南畝、聞きたいんだが、こんなに江戸中で人が毎日死んでゆく中で、なぜ“渡り”が、特別なことのように起きるのか?」
「変なことを聞く。どういう意味だ」
「おぬしはかつて言ったな。橋は、跨ぐものであると。だから、人も夢と現を跨ぐのだと。しかし、人の生き死にを考えれば……それも、“渡り”のひとつではないのか」
「焉馬、お前は何を……」
「だからな、南畝。“渡り”は、何ら不思議なことではない、ということさ」
「……」
「不思議だと思うから、不思議なんだ。案外……自然なことかも知れんぞ」
南畝はその言葉を聞いてはっとして、足早に出て行ってしまった。
「おい、“渡り”とは何だ」
隅にいた南北が尋ねた。
「俺の聞いた南畝の話だよ、“渡り”とはだな……」
焉馬はあの夜に南畝が話したこと、永代橋に何年も通って、その謎を解こうとしていることを語った。
「なるほどね……。それにしても、あんた、さっき面白いこと言ったね。俺たちが不思議だと思っていることが、自然なことだと。俺が歌舞伎で描いた幽霊といった類も、どこかにいるのかねエ」
「俺が、向こうで見てきてやろう」
「そいつは頼もしいね。絵も頼む」
「絵は……ほら、あいつに頼んでくれよ、ええと……」
「葛飾北斎、か?」
「そう、そう。あいつなら……」
「はっはっは。実にその通り。……俺も、そろそろ帰るとするかな。焉馬、体を大事にしろよ」
「おう、ありが……ごほっ……ぐっ」
「おいおい、無理するなよ。さっきから、話し過ぎたんだな」
「いや、俺は噺家だ。話して死ねるなら本望よ」
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