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画狂老人 山海茫茫
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皆さんは、一度でも父の『富嶽三十六景』を、ご覧になったことはありますでしょうか。様々に富士が描かれておりますが、もし、ご覧になったことがあるならば、どれが一番だと思いますか。私のお気に入りは……ふふふ、『五百らかん寺さゞゐどう』でしょうか。どうも私は、雄大な、力強い富士の山は好かず、ひょっこりとその顔を覗かせるような富士が好きなのです。あと、あの女の美しさときたら!よく見ると、子どもの手を握っているのですが、そこに父の何とも言えない、優しさが見えると言いましょうか……面白い。恥ずかしいほどの身内贔屓ですみません。他の人は一体何て言うかしら。ちょっと想像してみましょう。あくまで想像ですからね、口調等はあしからず。
西村屋八の場合
――えェ?どれが一番好きか?そうだねえ。やっぱり『神奈川沖浪裏』になるのかねえ。ざぱァーっと、あの引き込むような波は、さすが先生といったところ。初めて見た時は、腰を抜かすほどだったな。だってサ、自信満々で出してくるんだよ。富嶽と冠した作品で、あの波を……。いやあ、すごいね。まあ、一時はどうなるかと思ったけど、天下一の腕は衰えていなかったようで、安心しました。他の絵師の奴らも、これくらい描いてくれたら……我々も安泰なんすがね。ええ、コホン、それはこちらだけの話でしたな、はははは――
渓斎英泉の場合
――先生のあれかい?ううん、何かな……これは難しいぜ……どの絵も俺は好きだからなア。そうだね、強いて言うなら、『相州梅沢左』かもしれねえ。俺は「左」っつう意味はわからねえけれども。あれの何が好きってね、鶴なんだよ。先生はそんな美人を描く印象ないし、それでも美人画の勉強の意味なら、『東海道吉田』なんかを褒めるべきなんだろうが……あの鶴には、どうも女の佇まいを感じてね。よっぽど参考になると思ってサ。飛んでゆく二羽、あれは番いだったのかなア……。くくく、また今度、先生に聞いてみようかね。え?お前さん、師匠の絵について講釈垂れてなんかないで、早く何でもいいから描けって?大丈夫でさあ。俺の絵なんか、誰も見なくて結構、結構――
一立斎の場合
――そうですな。いやあ、私も風景画は非常によく描く故、私自身勉強させて頂いた点で見ることしか、出来ませんなあ。はは、これは浮世絵師の性、とも言えるかも知れませんがね。一作をえらべ、とのことであれば……私は『駿州江尻』ですかな。あの芸当は先生にしかできないでしょう。浮世絵に「風」を見たのは、あれが最初で最後であるような気がいたします。私も挑戦するべきところですが、どうもうまくゆかない。一瞬の自然の表情を描けない。実に、悔しい限りでございます。是非ともその極意を……と言いたいところではありますが、お互い江戸に生きる男。私の方も決して負けたとは思っておりませぬ。やっぱり……やめておきましょう――
「おい、何をぼうっとしとる」
「はっ」
「お前もいよいよ耄碌婆だな」
「本物の爺が何を言ってんだい」
「……今日中には、裏富士のひとつは仕上げるぞ」
「……うン」
それから夕暮れ時まで、私たちはずうっと手を動かしておりました。
明くる日のことです。
「おうい。文の類が届いたようだ。開けて読んでくれ」
「ああ、はいはい」
ええと……
前略 画狂老人卍殿
汝、いと面白き富士を描きて候
されども以前とは全くの如き業
一体どこで学びしものか
しゃしんに見えてくることかぎりなし
さすがにへいせいを知るものは他と異なり
今までは 俺のことだと 思うたに 他がいるとは こいつはわからん
草々
どこかで見たことのある字面でございました。しかし、肝心の送り主の名がありませんから、どうしようもありません。
「鉄蔵、どうやら“へいせい”の話をしてるみたいだよ」
「なにい。儂にも見せろ」
ちゃんと聞いていなかったようです。ま、いつものことか。
「何か知っているかい」
「いや。儂以外に“へいせい”にいる奴などはいなかった筈だ」
「あとサ、この字、どっかで見たことあると思わないかい」
「儂もそう思っとった。ううむ……どこかで……」
この日は、手紙の主が気になって二人とも仕事に身が入りませんでした。父も筆をその辺に落としたり、私も煙草を吸っていたら段差で転びそうになったり……すべてこの一通の手紙のせいでございます。私たちは一日中考えてこんでしまったのです。日が沈んでも、夜もすがら……。
西村屋八の場合
――えェ?どれが一番好きか?そうだねえ。やっぱり『神奈川沖浪裏』になるのかねえ。ざぱァーっと、あの引き込むような波は、さすが先生といったところ。初めて見た時は、腰を抜かすほどだったな。だってサ、自信満々で出してくるんだよ。富嶽と冠した作品で、あの波を……。いやあ、すごいね。まあ、一時はどうなるかと思ったけど、天下一の腕は衰えていなかったようで、安心しました。他の絵師の奴らも、これくらい描いてくれたら……我々も安泰なんすがね。ええ、コホン、それはこちらだけの話でしたな、はははは――
渓斎英泉の場合
――先生のあれかい?ううん、何かな……これは難しいぜ……どの絵も俺は好きだからなア。そうだね、強いて言うなら、『相州梅沢左』かもしれねえ。俺は「左」っつう意味はわからねえけれども。あれの何が好きってね、鶴なんだよ。先生はそんな美人を描く印象ないし、それでも美人画の勉強の意味なら、『東海道吉田』なんかを褒めるべきなんだろうが……あの鶴には、どうも女の佇まいを感じてね。よっぽど参考になると思ってサ。飛んでゆく二羽、あれは番いだったのかなア……。くくく、また今度、先生に聞いてみようかね。え?お前さん、師匠の絵について講釈垂れてなんかないで、早く何でもいいから描けって?大丈夫でさあ。俺の絵なんか、誰も見なくて結構、結構――
一立斎の場合
――そうですな。いやあ、私も風景画は非常によく描く故、私自身勉強させて頂いた点で見ることしか、出来ませんなあ。はは、これは浮世絵師の性、とも言えるかも知れませんがね。一作をえらべ、とのことであれば……私は『駿州江尻』ですかな。あの芸当は先生にしかできないでしょう。浮世絵に「風」を見たのは、あれが最初で最後であるような気がいたします。私も挑戦するべきところですが、どうもうまくゆかない。一瞬の自然の表情を描けない。実に、悔しい限りでございます。是非ともその極意を……と言いたいところではありますが、お互い江戸に生きる男。私の方も決して負けたとは思っておりませぬ。やっぱり……やめておきましょう――
「おい、何をぼうっとしとる」
「はっ」
「お前もいよいよ耄碌婆だな」
「本物の爺が何を言ってんだい」
「……今日中には、裏富士のひとつは仕上げるぞ」
「……うン」
それから夕暮れ時まで、私たちはずうっと手を動かしておりました。
明くる日のことです。
「おうい。文の類が届いたようだ。開けて読んでくれ」
「ああ、はいはい」
ええと……
前略 画狂老人卍殿
汝、いと面白き富士を描きて候
されども以前とは全くの如き業
一体どこで学びしものか
しゃしんに見えてくることかぎりなし
さすがにへいせいを知るものは他と異なり
今までは 俺のことだと 思うたに 他がいるとは こいつはわからん
草々
どこかで見たことのある字面でございました。しかし、肝心の送り主の名がありませんから、どうしようもありません。
「鉄蔵、どうやら“へいせい”の話をしてるみたいだよ」
「なにい。儂にも見せろ」
ちゃんと聞いていなかったようです。ま、いつものことか。
「何か知っているかい」
「いや。儂以外に“へいせい”にいる奴などはいなかった筈だ」
「あとサ、この字、どっかで見たことあると思わないかい」
「儂もそう思っとった。ううむ……どこかで……」
この日は、手紙の主が気になって二人とも仕事に身が入りませんでした。父も筆をその辺に落としたり、私も煙草を吸っていたら段差で転びそうになったり……すべてこの一通の手紙のせいでございます。私たちは一日中考えてこんでしまったのです。日が沈んでも、夜もすがら……。
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