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相飲まむ酒

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時代は戻って、現代。
「お父様は、結局何を言いたかったのでしょう」
「それは私にも、わからないわ。私はただ、清麻呂殿の子孫によろしくと……。あの後、一度も奈良へ戻ったことはなかったし」
「そうですよね……」
女はふと、彼のグラスに目をやった。
「あら、貴方、氷が溶けちゃったみたいね。新しいの、持ってきましょうか。私の奢りでいいわよ」
「じゃ、じゃあ、同じのを……」
「同じの?折角だから、思い出の酒にさせて。味が嫌いだったらごめんなさいね」
女は奥の棚から、年季の入った酒を取り出した。そこには“そらみつ”と書かれていた。
「そらみつってどういう意味ですか?」
「貴方、中々めざといわね。そらみつ、というのは古代の奈良ことばのひとつで、大和にかかる枕詞。いろんな解釈があるけれど、私は……空見つ、つまり神様が空からこの世界を見守っているのかなって」
「へえ……」
「何か言いたげね、貴方」
「いや……僕は、空満つ、逆に人間の側が、空を見ていたんじゃないかな、と思って」
何気ない彼の言葉に、女は少し驚いた顔をして、
「ふふ……そうかもね」
新しいグラスを取り出した。
「父はね、お酒が好きだった。……とりわけ、この酒は。というのも……」
「というのも?」
「父は何回か、帝と酒を飲む機会があった。その時、教えてもらったみたいなの」
「なんと教えられたんですか?」
「別れた人が、遠く離れた所から帰ってきた時に、人間は酒を準備して迎え入れるのだ……ってね。その時語り合ったこと、当時のことのように思い出せるんだって」
「そうなんですか……」

――古の奈良の都にて――

「道鏡よ。おぬしら狐たちにも、死は存在するのか」
「はい。私にも、いつしか死が訪れましょう。しかし、人とは大きく異なりますゆえ、千年、いやそれ以上のちのことでございます」
「千年、か。朕には想像もつかぬ」
「しかしながら陛下、私は人が羨ましいのですよ。短い命だからこそ、また出逢いたいと思い、別れた後も、思いを馳せる。人とはそういう生きものなのでしょう。狐の世界では再会を誓ったり、亡くしたものを思い出したりは、決して致しませぬ」
「そうか。朕は、いつでもおぬしを、思い出せるぞ」
「ははは、陛下よりも、私の命のほうが長いと、先ほどお話ししたではありませんか。かたじけのうございますが、思い出すのは私の方です、確実に」
「道鏡。おぬしは一つ、勘違いをしている。こうした営みに、この世に流れる時間などは関係ないのだ……。人が人との再会を望めば、きっとそこには……」
「こうした感情は、時間すら乗り越えると、仰るのですか」
「そうじゃ。それを人は、“縁”と呼んできたのよ」
「ううむ。私には難しい……」
「ははは、よう考えよ……」
帝は静かに盃を置いた。

ごくごく、ごく。男は“そらみつ”を流し込んだ。
「おいしいです」
「それは、よかったわ。ねえねえ、私の思い出ばっかり話すのも何だから、今度は貴方の家族の話でもしてよ……。もう終電もなくなっちゃったし、ね……」
「そ、そうですか……。困りましたね……。うーん……。こんな大それた話はないんですけど……祖母の話でも……してみましょうか」
「いいじゃないの」
「実はですね、僕が……小学生くらいの頃によく、昔話をしてくれて……」
「あ、それって、もしかして……」
「ご存じなのですか」
「ふふふ……」
二人はいつまでも語り合い、笑い合った。店の扉の隙間から、声と光が小さく漏れていた。

そんな二人をよそに、夜の闇は一向にその表情を変えようとはしない。冷たい風が吹いて、木製の吊り下げ看板がひっそりと、揺れているのみであった。
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