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国分山
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彼は随分と長い間、眠っていたようだ。まだ、腰の辺りがじりじりと痛むのを感じていた。辺りを見渡すと、晴れ渡った青空に、木々が生き生きと生い茂っている。ピヨピヨ、ピョヨ。しかし、どうも見慣れない光景だ。どこかの山奥であるのは間違い無いのだが、それにしては、違和感がある。冷静に考えて、いや、冷静など今の彼にあるのかわからないが、酒場からこのような場所にいるのも可笑しい。
「やっと、お目覚めのようね」
あの女の声がする。彼は尋ねた。
「ここは……どこですか……」
「そうねえ……。私の記憶の中、とでも言っておきましょうか」
彼には状況が一向に掴めない。女の言葉の意味もわからない。女のすました顔の形相も彼に疑問符を増やす大きな材料だった。これは、夢の類なのだろうか。いや違う、彼の痛覚が即座に否定した。手にチクチクと、雑草が刺さっている。どうやら頬をつねる必要はないらしい。
「そうね。わからないわよね。無理ないわ」
女は優しく声をかけた。
「そんな感じで悪いけど、まあ、ちょっと連れて行きたい場所があるから、付いてきて」
彼は何にも馴染めないまま、女の繊手に引かれるままに、林の奥へと、進むや進む。
「はは……懐かしいわね。……そんなこと言ったって、どうもしないのだけどね」
藪の中で、女はため息混じりにつぶやいた。彼は、理性を取り戻す一環として、無理矢理にでも会話をしようと試みた。
「結局、ここは具体的には、どこなのでしょう」
女は早口言葉のように答えた。
「天平宝字五年、近江国」
彼は言葉を思わず失いかけた。天平、という言葉を聞くのは高校生の時分ぶりである。しかし、彼の頭はこの極めて特殊な状況に少しずつ慣れてきたようだった。彼はかろうじて言葉を繋いだ。
「どうして……そんな時代に……?」
「もうすぐわかるわ」
女は小高く、少し開けたところに着くと、向こうの方を指差した。
「あれが、私の家族よ」
彼はさすがに唖然とした。「慣れてきた」前言撤回である。
女の指の先に見えるのは、なんと“狐”の親子ではないか!大きい狐が一匹、その子供と思われる小狐が三匹見えた。そんな視覚的事実はどうでもいい。開いた口を塞ぐことに専念するか、へらへらと笑ってその場の時間を過ごすか。あれやこれやと思案するうち、女の方が先に口を開けた。
「何度も驚かせちゃって、ごめんなさいね……。そう、あれが私の幼い頃。かれこれ千年以上前のことかしらね……」
そう語ると、横にいる女の尻あたりから、ふさふさとした尻尾が立ち現れた。ふさふさと、など言っている場合ではない。思考が一向に追いつかない。あらゆる言葉の意味を、すっかり彼は忘れてしまった。
「………なんで……」
彼は固まったまま、精一杯の言葉を紡ごうとした。しかし肝心の舌が動かず、冷酷に時は過ぎていくばかりだった。それを女は察してか、思い出話を淡々と語り始めた。
「私の父は狐の中でも嫌われ者でね。その理由は私も知らない。父は多くを語りたがらなかった。とにかく、私たち家族は、他の狐たちから不当な扱いを長いこと受けていた。冬の雪の降る時なんか、よその狐はぬくぬくと洞穴で暮らしていたのに、私たちだけ、貧相な空(うろ)。父は何度も私たちに謝っていた。こんなに辛い思いをさせて、ごめんな……ごめんな……ってね」
女の話は続く。
「父はなんとかして、幸せになろうと、試みた。それで……思いついたのが……父は化けるのが得意な方だったから、人間に化けて、人間社会で、うーんと幅を利かせてやろう、っていう計画だった。たまたまその時、流行病で死んだ坊さんがいたからね」
彼は落ち着いてきたようだった。今なら、少しばかりまともな言葉が返せる。
「それで、結局どうしたのですか」
「父は、その禅師になりかわり、朝廷に潜り込もうとした、ということよ。見ておいき、もうすぐ父が化けるから」
親狐はくるりと宙返りしたかと思うと、一瞬にして、法衣を身に包んだ坊主の姿へと変った。
「この時の父は、野心に燃えていた。理不尽な状況に、きっと我慢がならなかったのでしょう。きっとお前たちに、人間の貴族が食べるような、美味い飯を食わせてやる。そう言っていたのを、よく覚えているわ」
「ちなみに、お名前を聞いても……」
女はぽつりとつぶやいた。
「……弓削道鏡。父は人間社会で、道鏡と名乗った」
「道鏡?」
彼は思わず聞き返した。高校時代、日本史の授業など上の空であったが、その字面と音韻にかすかな覚えがあった。
「ええ。そうよ。あの悪名高き、ね……」
女はどこか違う方に視線を向けた。
「見ていたらわかったと思うけれど、父はえらく意気込んで、都へ向かったわ。それから幾日か森に帰らなかった。わたしたち子どもは心配で、心配で……。ついに、都の近くまで行くことにしたの。もちろん、命の補償なんてなかったけれど」
「化ければよかったのでは」
「そこまでまだ上手じゃなかったの。さあ、人間の足で歩くのはちょっと辛いから、都まで“飛ぶ”わよ。さあ、目を瞑って」
女はすっと手で彼の瞼を閉じた。
「やっと、お目覚めのようね」
あの女の声がする。彼は尋ねた。
「ここは……どこですか……」
「そうねえ……。私の記憶の中、とでも言っておきましょうか」
彼には状況が一向に掴めない。女の言葉の意味もわからない。女のすました顔の形相も彼に疑問符を増やす大きな材料だった。これは、夢の類なのだろうか。いや違う、彼の痛覚が即座に否定した。手にチクチクと、雑草が刺さっている。どうやら頬をつねる必要はないらしい。
「そうね。わからないわよね。無理ないわ」
女は優しく声をかけた。
「そんな感じで悪いけど、まあ、ちょっと連れて行きたい場所があるから、付いてきて」
彼は何にも馴染めないまま、女の繊手に引かれるままに、林の奥へと、進むや進む。
「はは……懐かしいわね。……そんなこと言ったって、どうもしないのだけどね」
藪の中で、女はため息混じりにつぶやいた。彼は、理性を取り戻す一環として、無理矢理にでも会話をしようと試みた。
「結局、ここは具体的には、どこなのでしょう」
女は早口言葉のように答えた。
「天平宝字五年、近江国」
彼は言葉を思わず失いかけた。天平、という言葉を聞くのは高校生の時分ぶりである。しかし、彼の頭はこの極めて特殊な状況に少しずつ慣れてきたようだった。彼はかろうじて言葉を繋いだ。
「どうして……そんな時代に……?」
「もうすぐわかるわ」
女は小高く、少し開けたところに着くと、向こうの方を指差した。
「あれが、私の家族よ」
彼はさすがに唖然とした。「慣れてきた」前言撤回である。
女の指の先に見えるのは、なんと“狐”の親子ではないか!大きい狐が一匹、その子供と思われる小狐が三匹見えた。そんな視覚的事実はどうでもいい。開いた口を塞ぐことに専念するか、へらへらと笑ってその場の時間を過ごすか。あれやこれやと思案するうち、女の方が先に口を開けた。
「何度も驚かせちゃって、ごめんなさいね……。そう、あれが私の幼い頃。かれこれ千年以上前のことかしらね……」
そう語ると、横にいる女の尻あたりから、ふさふさとした尻尾が立ち現れた。ふさふさと、など言っている場合ではない。思考が一向に追いつかない。あらゆる言葉の意味を、すっかり彼は忘れてしまった。
「………なんで……」
彼は固まったまま、精一杯の言葉を紡ごうとした。しかし肝心の舌が動かず、冷酷に時は過ぎていくばかりだった。それを女は察してか、思い出話を淡々と語り始めた。
「私の父は狐の中でも嫌われ者でね。その理由は私も知らない。父は多くを語りたがらなかった。とにかく、私たち家族は、他の狐たちから不当な扱いを長いこと受けていた。冬の雪の降る時なんか、よその狐はぬくぬくと洞穴で暮らしていたのに、私たちだけ、貧相な空(うろ)。父は何度も私たちに謝っていた。こんなに辛い思いをさせて、ごめんな……ごめんな……ってね」
女の話は続く。
「父はなんとかして、幸せになろうと、試みた。それで……思いついたのが……父は化けるのが得意な方だったから、人間に化けて、人間社会で、うーんと幅を利かせてやろう、っていう計画だった。たまたまその時、流行病で死んだ坊さんがいたからね」
彼は落ち着いてきたようだった。今なら、少しばかりまともな言葉が返せる。
「それで、結局どうしたのですか」
「父は、その禅師になりかわり、朝廷に潜り込もうとした、ということよ。見ておいき、もうすぐ父が化けるから」
親狐はくるりと宙返りしたかと思うと、一瞬にして、法衣を身に包んだ坊主の姿へと変った。
「この時の父は、野心に燃えていた。理不尽な状況に、きっと我慢がならなかったのでしょう。きっとお前たちに、人間の貴族が食べるような、美味い飯を食わせてやる。そう言っていたのを、よく覚えているわ」
「ちなみに、お名前を聞いても……」
女はぽつりとつぶやいた。
「……弓削道鏡。父は人間社会で、道鏡と名乗った」
「道鏡?」
彼は思わず聞き返した。高校時代、日本史の授業など上の空であったが、その字面と音韻にかすかな覚えがあった。
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女はどこか違う方に視線を向けた。
「見ていたらわかったと思うけれど、父はえらく意気込んで、都へ向かったわ。それから幾日か森に帰らなかった。わたしたち子どもは心配で、心配で……。ついに、都の近くまで行くことにしたの。もちろん、命の補償なんてなかったけれど」
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「そこまでまだ上手じゃなかったの。さあ、人間の足で歩くのはちょっと辛いから、都まで“飛ぶ”わよ。さあ、目を瞑って」
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