上 下
1 / 16

遠景

しおりを挟む
婆やは幼い頭を掻き撫で、よくこう言ったものだった。
「あんたはなア、えらい貴族の血を継いでるさかいになア……」
無垢な子供はこう問い返した。
「その、えらい貴族って、誰なん?」
「それは……。あんた、高校行ったら歴史の授業で習うさかいに、楽しみにしとき」
「うん。わかった。べんきょうするね」
「そうや。よう覚えとき」
婆やは、彼が中学生になった頃、亡くなってしまった。

彼が高校に入る頃には、そんな話はとうの昔に忘れてしまっていた。彼は教室の端を好み、毎日同じ雲を眺めていた。進学を機に、一人で東京へ出た。大学ではなんとなく経済を学んだ。指先でペンを回す毎日だった。当時ある男から言われたことを、今でもよく憶えている。
「お前って、もしかして、けっこう真面目?」
その男はその後、鼻で笑ったような素振りを見せた。自分が真面目だとは一切思ったことはない。むしろ、不真面目の方がよく似合っていると思われる。彼にとっては、全てがつまらないのだ。一時の快楽にも興味がない。過去の栄光の記憶に必死に縋って、取り繕うなどもっともであった。惰性の中で、毎日同じように呼吸をまわすこと、その連続が人生のすべてであると信じていた。
就職活動もそれなりにし、とある不動産会社に落ち着いた。そこで働き出して、五年目になる。たいした出世も望めぬ身だと、はやくも彼は理解しているらしい。職場のコーヒーが不味く思えるのは、決して最近の話ではない。昨日は、コピー紙の角で指を怪我した。
彼が退社するのは月が傾く頃である。足元を見ると、どうやら靴紐が解けてしまったらしい。直すのが面倒なのでそのままにしていると、道ゆく老人にそれを指摘された。彼は、とっさに苛立ちの眼差しを老人にむけた。老人は思わずたじろぎ、そそくさと怯えたように立ち去ろうとする。その後ろ姿を見ながら、ああ、自分の心はなんて惨めなのだろうかと、呆れて靴紐を結び直した。
電車とは、一見温厚そうに見えて、実はたいそう無愛想な乗り物である。様々な人の感情まで載せているのだから、無理もないだろう。本当は吐き出したくてたまらないのを、無理して我慢しているのだ。結局、通り一遍の優しさはあるが、完全な包容はない、そんな乗り物である。……ドアが開いた。
そこから降りて、彼は安弁当を買い、暗い家路をただひたすらに歩く。くたびれたスーツは弁当の重みすら耐えられそうにない様子だった。それはひ弱な彼の指のせいなのか、それとも夜のせいなのか、それは誰にも分からない。
家の間取りは一般的なワンキッチンである。自分で料理はしない性分だ。彼はスーツを脱ぎ、どっと疲れた様子で、だらりと横になった。……ん、部屋の電球が何やら切れかけている。買い直すのは、通販で済ませることにする。口径は、果たしてどれくらいだったか。
呆然とした目で弁当を食べる。別に何も思いはしない。惰性そのものだ。一人での食事もすっかり慣れてしまった。人間は慣れる動物だと、かつて語ったのはドストエフスキイである。慣れとは恐ろしいものだが、当の本人がそれを自覚できない、する気がないところに、慣れの本質があるように思える。気付くと時計は十二時を指していた。明日の仕事に備えるために、彼はシャワーを軽く浴び、眠ることにした。
しかし、この日、彼はどうも眠ることができなかった。体を覆わんとする布団にどうしても違和感を覚えてしまうのだ。よく働かないまなこで、窓の方を見た。いつの間にか夜露に濡れている。表通りのぼやけた青信号の光を見た瞬間、彼の中で、何処かの箍がはずれた音がした。ごそごそと、彼はおもむろに着替えだし、家の鍵を手に取った。その背中を見る限り、行き先に当てなど、あるはずもなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

ワイルド・ソルジャー

アサシン工房
SF
時は199X年。世界各地で戦争が行われ、終戦を迎えようとしていた。 世界は荒廃し、辺りは無法者で溢れかえっていた。 主人公のマティアス・マッカーサーは、かつては裕福な家庭で育ったが、戦争に巻き込まれて両親と弟を失い、その後傭兵となって生きてきた。 旅の途中、人間離れした強さを持つ大柄な軍人ハンニバル・クルーガーにスカウトされ、マティアスは軍人として活動することになる。 ハンニバルと共に任務をこなしていくうちに、冷徹で利己主義だったマティアスは利害を超えた友情を覚えていく。 世紀末の荒廃したアメリカを舞台にしたバトルファンタジー。 他の小説サイトにも投稿しています。

なにわしぶ子
歴史・時代
はるか昔、奈良時代。 歌を詠み、月を愛でた華やかな貴族社会の中で 波乱万丈な人生を歩んだひとりの女性が居た。

大奥~牡丹の綻び~

翔子
歴史・時代
*この話は、もしも江戸幕府が永久に続き、幕末の流血の争いが起こらず、平和な時代が続いたら……と想定して書かれたフィクションとなっております。 大正時代・昭和時代を省き、元号が「平成」になる前に候補とされてた元号を使用しています。 映像化された数ある大奥関連作品を敬愛し、踏襲して書いております。 リアルな大奥を再現するため、性的描写を用いております。苦手な方はご注意ください。 時は17代将軍の治世。 公家・鷹司家の姫宮、藤子は大奥に入り御台所となった。 京の都から、慣れない江戸での生活は驚き続きだったが、夫となった徳川家正とは仲睦まじく、百鬼繚乱な大奥において幸せな生活を送る。 ところが、時が経つにつれ、藤子に様々な困難が襲い掛かる。 祖母の死 鷹司家の断絶 実父の突然の死 嫁姑争い 姉妹間の軋轢 壮絶で波乱な人生が藤子に待ち構えていたのであった。 2023.01.13 修正加筆のため一括非公開 2023.04.20 修正加筆 完成 2023.04.23 推敲完成 再公開 2023.08.09 「小説家になろう」にも投稿開始。

ARIA(アリア)

残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……

未来への転送

廣瀬純一
SF
未来に転送された男女の体が入れ替わる話

獅子の末裔

卯花月影
歴史・時代
未だ戦乱続く近江の国に生まれた蒲生氏郷。主家・六角氏を揺るがした六角家騒動がようやく落ち着いてきたころ、目の前に現れたのは天下を狙う織田信長だった。 和歌をこよなく愛する温厚で無力な少年は、信長にその非凡な才を見いだされ、戦国武将として成長し、開花していく。 前作「滝川家の人びと」の続編です。途中、エピソードの被りがありますが、蒲生氏郷視点で描かれます。

処理中です...