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第一部 はじまりの物語

第三十三章 君命

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 ちゃらり、と鎖が音を立てた。それを煩わしそうにしながらオーガストは牢獄の中にいた。上の方に小さな小窓があるだけで光なんてとんと射さない。
 昼間であってもそんな調子であるから今が昼か夜かとしかわからず、何日の何時なのかすらも分からない。
 それでも、最近はときどきグレンが来てくれるから時間の感覚を取り戻しつつあった。
 前はひどかった。呆気なくコーラル国に捕らえられ、人目の付かないこの牢獄に押し込まれれば人はほとんど訪れないし、足音が近づいても誰も気づかずここを通り過ぎてしまうのだ。
 逃げだそうにも手足に付いた枷がそれを許さない。せめてこれが無ければ、逃げられるのだけれど。
 そんなことを考えていると扉が開かれた。その人物を見てそっと笑みを浮かべる。
 グレンである。自分に仕えると言ってくれたときは、疑心暗鬼であったが彼は彼自身にとって「利」になることを良しとしている節がある。そのため、今は彼にとって利になると思われる自分に仕えてくれている。
 彼なりの信念に従って動いている彼は、ある意味まっすぐな人間だと思う。

「どうかいたしましたか」

「いや」

 あまりに彼を見つめすぎたようだ。グレンが不思議そうにこちらを見つめている。すぐに顔を引き締めて、こちらを見つめ返してきた。

「陛下、やはり王妃様の行方はまだつかめておりません」

「そうか」

 少し残念だとオーガストは思った。彼にアイリーンの行方探しを命じてすでに一週間が過ぎている。聡明そうな彼ならば、もしかしてと思ったけれど難しそうだ。
 そもそも、アイリーンはこういう事態こそじっとしていられないタチであることを自分が一番、よく知っている。
 アイリーンはベスビアナイト国で産まれた貴族の娘であるが、母親が平民の子であるからか自分より下位の子等とよく遊ぶ娘であった。そのため平民の娘と勘違いされることも多々あったようだ。逆にオーガストは城で勉学を学び、剣術を学んだ。そして、当時の国王が望んだような自分では何も考えない愚かな王子へと成長していた。そんな折、オーガストの十五歳の誕生パーティーの日。
 貴族達が、ひとりひとりオーガストの元へ来て飴細工のような言葉を吐いて自分の娘を嫁がせようとする中、ひとりだけ親のおべっかを剥ぐようにその娘はこう言った。

「つまらない人」

  これには、どう反応して良いかわからなかった。誰もが自分に対してうわべだけの言葉を並べ立てる中。その娘だけは飾り立てず、思ったことをそのまま口にしたのだ。親は慌ててオーガストや国王の機嫌を損ねないように弁解し、娘に謝るよう叱ったが……

「つまらない人につまらないと言って何が悪いの?」

 娘の方は強情だった。それが、初めての出会い。とんでもない我が儘娘だったとアイリーンは言っていたが、それで良かったとオーガストは思う。もし誰にも指摘されずに、当時の国王にいいように操られるような人間では王として恥ずかしい。
 その時は、なんでそんな親に刃向かうことをするような娘なんだろうと不思議に思ったが。確かに、今ならば分かることがある。
 君命に受けざる事があるように「おかしい」ことは「おかしい」とハッキリと言える娘だったのだ。
 アイリーンはそのあと親の反対を押し切って当時、帝国だったオブシディアンへ錬金術を学びに行った。この行動から彼女は自分がいいと思ったことはすぐに行動に移すタイプだと実感した。その数年後だったと思う。当時の帝王が病に倒れると国民が城へ押し寄せて内乱が起こったのは。
 当時からオブシディアンの領土を狙っていた、シトリン帝国軍が領土を狙ってやってきた。
 それを退けたのは、ベスビアナイト国軍だった。オーガストが自ら率い、軍を退けるとオブシディアン国の亡くなった帝王の息子は、国民を沈めるためなのもあって「共和国」にすることを宣言した。
 オーガストは息子に賛成し、援助をすると約束した。それから、アイリーンの元へ向かうとバートに赤子のグレンとアイリーンを押しつけられ

「ここにいては、いけない」

 と言われた。何でも国民から錬金術の廃止と錬金術師を処刑する運動が始まったらしい。その見せしめとしてバートの処刑が決まったようだった。錬金術を禁止していないベスビアナイト国へ戻れとの事だった。なかなか首を縦には振らないアイリーンであったが、バートに説得されなんとか納得しベスビアナイト国へ帰国した。
 そのあと、アイリーンに求婚した。渋っていたがなんとか首を縦に振らすことに成功したのだ。当時の国王には、とても苦い顔をされてしまったが。
 なんて、今までのことを思い返しているとグレンが口を開いた。

「それで王子の事なんですが」

「ああ、マリアはどうしてる?」

「それが王都に近づいてきていたのですが、今はじっとこちらの様子を伺っているようで」

 オーガストは不思議に思った。マリアは確かにしたたかではあるが、どちらかと言えば王妃に似て何でも力で解決しようと考える方だと思っていた。けれども武力に訴えず、何かを待っているとなるとマリアに知恵を授けている人物がいるのだろうか。

「それで、陛下。この国の元参謀殿が王子に付いていると思うのですが」

 グレンの言葉に頷こうと思ったが、オーガストは考え込み眉を潜めた。

「いや、わたしに付いていた参謀であるならばそんなことはしない」

 前に参謀としてオーガストに仕えている者ならば、じっと待つなんてことはしないだろうと告げた。もし彼ならばじっとせずに進んでは後退し、進んでは後退するという行動をするのではないかいと告げる。

「それは、こちらをおびき出すと言うことですか」

「ああ、彼ならそうすると思うんだがな。前に城に立てこもった敵を誘い出すときにそうしたのだ。だから、もし彼ならばそうするのではないかと。いや、確信はないが」

 オーガストは戦にはあまり、詳しくはないため口ごもった。戦をよく知らない者がどうこう言えるものではないのは本人が一番、よくわかっている。それでも言葉にせずにはいられなかったのだ。
 グレンは眉を潜めて目を伏せる。

「とりあえず、もうしばらく様子を見ます」

「ああ、ありがとう。それでコーラル国の方はどうだ?」

「戦力が半減な上に、この寒さですから。地の利ではこちらが不利であることは変わらないので、攻めることが出来ないのが現状です」

「なるほど、つまりマリア達は守り固めたコーラル国側と睨めっこしている状態なのだな」

「そうなりますね」

 オーガストが今度はコーラル国側の戦力を問うた。グレンは元々10万の兵力であったが、本国からの増援で15万ほどの兵士がいる。ほとんどが病に倒れ7万ほどしかいないことを告げた。

「7万か……それでも、マリア達からすれば厳しい状態か」

「そうなのですか」

「ああ、お前から話を聞いたところによるとエイドス支城とシプリン支城が合流したのだったな」

 はい、と答えてからグレンは“新種の兵器”がエイドス支城で出来たことも告げた。それを聞いてオーガストは目を見開いた。

「そうか、ツェツィが」

「ツェツィとは」

「ああ。昔、教会に捨てられていた子どもだよ。アイリーンが世話をして錬金術を教え、今はエイドス支城で王宮に認められた錬金術師として働いている。確か洗礼名はセシリーだったから、皆にはセシリーと呼ばれていた」

 本名はツェツィーリエ・バッハシュタインというらしい。本名を名乗るのが嫌らしく、初対面であってもセシリーと名乗るらしい。なんでも、自分を捨てた親がくれた名前なんて名乗りたくないと言うことだった。

「そんな人がいるのですか」

「まあね。でも嫌と良いながらその名前を捨てないのは、どこかで自分を捨てたには何か理由があるんじゃないのかと思っているからなんだろうな」

 オーガストは、小さく笑った。といっても、伸びきった髪とひげによって口元が少し動いたようにしか見えないが。

「ところで、洗礼名とは何ですか」

「洗礼を受けるときに付けられる名だよ。我が国では成人の一環で行われるが、宗教でもよく行われたりする」

 グレンは「なるほど」と呟いた後、真剣な眼差しをオーガストに向けた。

「本筋に戻りますが、エイドス支城とシプリン支城とで、どれほどの兵力になるのですか」

「シプリン支城は、おそらく1万5千ほどの兵力だと思われる。エイドス支城はそれより少し多くで1万7千。どうだ」

「確かに圧倒的に数には劣りますね」

 グレンが難しげに眉間に皺を寄せた。オーガストはなんてことないように、笑顔を浮かべてみせる。

「陛下?」

「どうかしたかい」

「いえ、笑っていらしたので何か楽しいことでもあるのかと」

「いや、ここは父親としても何かしてやらねばならぬと思ってな」

 くすくすと上品に笑ってオーガストが答えた。グレンは不思議そうに、小首を傾げる。

「5万もの兵をエイドス支城とシプリン支城の軍が追い払ったのであろう? 数が劣っているというのに」

 グレンは目を見開いてらしくもなく口をぽかんと開けた。オーガストに言われるまで気づかなかったようだ。

「確かに、そうですね」

「それからマリア達は何かをじっと待っているというのだから、おかしなもんだ」

 はっとしてグレンはオーガストを見つめる。するとオーガストは無言でコクリと頷いた。

「まさか、崩れるのを待っている?」

「おそらくは。しかも、それは成り行き任せにしているのではなく、“人為的に”起こそうとしている」

「一体どうやって?」

 オーガストはゆっくりと足を動かした。それだけで鎖がちゃらりと音を立てる。静かな牢屋ではとてもよく響いた。

「それはわからぬ。ただマリア達が何か行動を起こすはずだ」

「行動ですか」

「おそらく、ラルスという兵士を一人送り込んできたのはそのことを起こす前の手始めだと考える。ならば、次に何をすると思う?」

「それは、ラルスが“反間”ということですか。しかし、ラルスはもう向こう側には戻れないはず。どうやって、連絡を取るというのですか?」

「暗号か、あるいは間者か」

「確かに間者であれば、連絡を受け取れそうなものでありますが」

 最近の出入りする人でそんな人はいないのか、とオーガストが問いかけるとグレンは首を横に振る。少なくとも、グレンが知る限りではいなかった。

「もう少ししたら、“生間”を送り込んでくる可能性が高い。城下町へ降りて調べてみてはくれないか」

「かしこまりました」

 そう答えるとグレンはその場をあとにして、地下牢を出た。すると待ち構えていたヒデが相変わらずのどこかとぼけたような顔で立っていた。

「よっ、どこか出かけるのか」

「少し城下町にな」

「へえ、付き合おうか?」

 グレンは首を横に振って否定するがヒデがグレンの後ろをぴったりついて離れない。

「付き合わなくて良いと言っているだろう」

「そんなこと、言ってないじゃないか」

「なら、今言った。だから――」

 かまうなと紡がれようとした唇が、ヒデの人差し指によって塞がれる。にこり、と邪気のない笑みをヒデが浮かべればグレンは「好きにしろ」とだけ呟いて城下町へ降りた。すると辺りはすでに宵闇に包まれており夜であることを告げていた。側を吹き抜ける風も冷たく凍り付いてしまいそうだとグレンは思う。凍り付きそうな足にムチを打ち、道の狭い路地へと入る。
 間者というのは比較的、こういう所に潜んでいるものだ。
  まあ、大っぴらに情報交換なんてする間者がいるはずもないが。なんて、グレンが思っているとラルスに体格の似ている男を見つけた。もしや、と思いグレンが追いかけるとそれは案の定、ラルスで小柄な男と何やら話していた。
 小柄な男は、闇のような髪を持ち薄い金色の瞳をしていた。ふとその瞳とグレンの瞳が絡み合う――刹那。小柄な男は、こちらに気づいてラルスと二言ほど言葉を交わすととその場を早々に去って行った。

「あの男、前にも生間として潜り込んでいたな。追ってみますか」

 小柄な男を追おうとするヒデを、手で制するとグレンはその場を後にする。

(生間が現れたということは、次に死間を送り込んでくる気だろうか)

 ヒデは不思議そうにしながらもグレンの後ろを歩く。

「なあ、なんで追わないんだ。あれ、絶対“生間”だぜ」

「追ったところでどうする? 敵陣に一人で乗り込んでいったって殺されるだけだ」

 ヒデは小さく笑って肩をすくめてみせる。それから、「変だ」と呟いた。それを聞いてグレンがいぶかしそうに眉を潜める。

「何が」

「だから、グレンがだよ。別に一人で乗り込むなんて言ってないぜ?」

 うぐ、とグレンは言葉を詰まらせる。それから、ちらりとヒデの方を見ればヒデは何やらニタニタとグレンを見ていた。

「何だ、その気持ちの悪い笑顔は」

「別に。ただ最近のグレンは、嬉しそうだなと」

 ぎゅとグレンの眉間に皺が寄ればヒデは小さく息を吐き出して、やれやれとでも言いたげな表情を作った。

「まるで主の為に走り回っているように見えてね」

 グレンは眉を潜めるばかりで口を開かない。そんなグレンにヒデは、ふと真剣な眼差しを向けて低い声で問いかけた。

「最近、地下牢へよく行っているみたいだけど正騎士長に会いに行っているわけじゃないんだろう? 何か隠しているみたいだけど俺には分かるんだよ」

 言われればグレンは、うっすらと額に汗をうかべて言いよどむ。自分を隠すことに長けていた彼であったが、少なからずヒデには情があるようで戸惑った表情を浮かべていた。それを見てヒデはあきらめたように顔を伏せると次にはいつものおどけた表情を作って肩を組んできた。

「ま、言いたくないなら良いんだけどな」

「すまない、今は言えない。その時だと思ったときに話す」

「りょーかい! で、これからどうすんだ」

 ヒデの問いかけにグレンは考え込むように表情を硬くした。それから、ヒデの方を向いて真剣な眼差しを向ける。

「ベスビアナイト国側が何か動くかも知れない。そのとき、出来るだけ内密に俺に知らせて欲しい」

「知らせるだけでいいのか」

 こくんと頷いてグレンは念を押すように「知らせるだけで良い」と呟いた。ヒデはまたおどけた調子で了解、と答えると笑みを浮かべた。

「それはつまり、何も手出しはするなと?」

「ああ」

 ヒデは答えに「ふうん」とだけ返して今は聞けそうにないなと結論づけるとそれ以上、聞くのは止めることとした。
 すぐに引き下がってくれるヒデをグレンは、結構快く思っていた。しつこいときもあるが、それでもこうして根掘り葉掘り聞かない彼をグレンは重宝していたりする。
 ふと空を見上げると闇に閉ざされた世界に光を運ぶ星々が見えた。

「今夜は星がよく映える」

 ヒデはグレンの言葉を聞いて笑うと、頷いて見せた。

「ああ、そうだな」



 アイリーンとバルビナは、シプリン支城に着いていた。

「どうします、王妃様。マリア様はもう王都へ乗り込む準備を行っているようですが」

「そうね、もうすでに乗り込んでいるかも知れないし」

 アイリーンは錬金術の工房で前にセシリーが考案した新しい兵器を自ら作っていた。前に作り方をセシリーにもらっていたのだ。

「でも、我が軍は明らかに劣勢。そう簡単に攻め入ることなんて出来はしないわ」

 アイリーンの言葉にバルビナは頷いて肯定の意を示す。そこへシプリン支城の主、バルナバスが来た。

「王妃様、例の物を準備して参りましたが」

「あら、ありがとう。助かるわ」

 答えてアイリーンはバルナバスから袋を受け取る。それを見てバルビナは「何ですか」と問いかけた。アイリーンは王妃らしからぬいたずらっ子のような笑顔を浮かべたかと思えば口で「じゃーん」と効果音を発して袋から何かを取りだした。

「何ですか、それ」

「ふっふー、聞いて驚きなさい。睡眠薬よ!」

「睡眠薬? そんなものいかがなさるのですか」

「これを爆弾に仕込むのよ」

 アイリーンの答えにバルビナとバルナバスは絶句する。

「あの、それで何が出来るのですか」

「もちろん、睡眠爆弾!」

 バルビナは呆れたような疲れたような表情を浮かべていたが、すぐに引き締めてメイドらしく告げた。

「爆弾に睡眠薬を仕込んでも、爆発するから眠る前に木っ端微塵になるのではないですか」

 まるでそのことが抜け落ちていたようにアイリーンは目を瞬き、どんどん青ざめていく。バルビナは本気で言っていたのかと主に対して思わず思ってしまってどこか呆れた表情をしてしまった。その表情を慌てて取り繕うと口を開いた。

「でも、そうですね。爆弾ではなく、爆弾を使う前にばらまいたら効果はありそうですけれど」

 ハッとしてアイリーンは、その手があったかと呟いた。その手も何もバルビナはそれしか思いつかなかったが、アイリーンからすれば相当な驚きであったらしい。思考が一時ストップしたほどだ。
 その思考をなんとか働かせるとアイリーンは何やらぶつぶつと呟く。

「そういえば、マリア様に知恵を貸している方は何という方なのですか」

 アイリーンを放っておいてバルビナはバルナバスに問いかける。すると、バルナバスはソロモンと答えた。

「ソロモン様!? あの彼がマリア様に知恵を貸していると」

「はい」

 ありえないとでも言いたげにバルビナは目を見開いた。そんなバルビナにアイリーンがほくそ笑んで見せて口を開く。

「彼は確かに頭が良いけれど自分が好きな物にしか興味の無い男だったわね」

 ハッとなってバルビナが嫌そうな表情を浮かべる。それを汲み取ってアイリーンは無邪気に笑う。バルビナは嫌そうな顔をさらに嫌そうにした。

「あんな男に好かれるなんて、マリア様は……」

 先の言葉はバルビナ自身が飲み込んだ。アイリーンがあの男を「面白い」といって気に入っていたからであった。

「あら、バルビナ。そんなにあの男が嫌い?」

「だって」

「そうよねえ、ソロモンが王都に居た頃、レイヴァンったらやたら彼と一緒にいたんだものねえ」

 バルビナは言葉を詰まらせる。それからなんてこと無いように「そんなことはありません」と告げた。けれどアイリーンは、面白そうに不敵な笑みを浮かべる。

「好きな人が他の人とばかり仲良くしてちゃあ、面白くないわよねえ」

「そ、そんなことは!」

 アイリーンの言葉に反対しようとしたがアイリーンが面白がっているのに気づいて言葉を引っ込めた。それから疲れたような表情を浮かべる。
 落ち着きを取り戻してバルビナはアイリーンに告げる。

「どちらにしても、レイヴァンの眼中にはマリア様しかいらっしゃいませんから」

「それは、主従でしょう? 恋愛は別よ」

「いいえ、レイヴァンは主従以上です」

 短く答えてバルビナは落ち込んだ。確かにこの目でハッキリと確認してしまったのだ。マリアの首筋に着いた愛の噛み跡を。それを見てしまえば明らかに主従以上で恋愛感情があるのはわかりきっている。
 その上、跡の付いた場所が首筋だ。執着の証である跡を見て恋愛感情がないと思うはずがない。けれど、それを王妃に告げる勇気はバルビナには無かった。

「何か、あったの?」

「……!」

 見破られてバルビナは言葉に詰まりうつむかせる。そんな様子にアイリーンはなんてこと無いように問いかけた。

「接吻(キス)でもしてた?」

 刹那にバルビナが息を飲んだ。それで確信したらしく、アイリーンは「ふうん」と呟いた。

「そう、レイヴァンがねえ」

 おそるおそるといった様子でアイリーンの方を見ると、死んだ魚の目で爆弾を作っていた。

「お、王妃様!?」

「どうしたの、バルビナ」

「いや、何だか急に様子がおかしくなったように見えましたので」

 アイリーンはやはり死んだ魚の目をしており、バルビナの方を見ているにもかかわらず焦点が合ってはいなかった。バルビナは寒気を覚え、背筋を冷たい何かが這う。

(レイヴァン、なんか……ごめんなさい)

***

「っくしゅ!」

「どうした。風邪か?」

 天幕(テント)の中でレイヴァンがくしゃみをすれば、隣にいたソロモンが問いかけてきた。

「体はいたって健康体なんだがな」

 答えながらレイヴァンは、鼻をすする。ソロモンはどこか面白がって誰かが噂しているのではないか、と問いかけた。意地に悪い笑みを浮かべる旧友にレイヴァンは疲れたような表情を浮かべる。

「そんなわけないだろう」

 今夜は更に冷え込むだろうとレイヴァンは、思いながら剣の手入れを再開する。

「冗談は置いといて」

 結局は冗談だったのかと思ったが、それを口には出さずにレイヴァンは呆れた表情だけを作って先を促した。

「そろそろ、エリスとクライドを死間として向かわせるが」

 レイヴァンは真剣な表情で頷いて答えた。ソロモンもまた真剣な眼差しで頷く。

「姫様への説明は俺からしたが、思っていた以上に落ち着いていた。ある程度はわかってたようだった」

 ソロモンの言葉にレイヴァンは、少しばかり顔をうつむかせた。表情の読めないレイヴァンにソロモンが、どうかしたのかと問いかければレイヴァンはどこか不安そうな声色で呟いた。

「マリア様はするどい所がお有りだからだろう。だが、それ故に何かを知っても全てをため込んでしまいそうだ」

 ソロモンも同意するように頷いた。

「ああ、だからこそ危うい。レイヴァン、姫様にとってお前は心のよりどころだ。お前が支えてやるべきだ」

 レイヴァンは頷くと、剣を鞘におさめた。それから、ソロモンはエリスのもとへ向かうと言ってテントを出た。レイヴァンもマリアのことが心配でテントを出るとマリアのテントへと向かう。けれど、そこにはレジーがいるだけでマリアの姿はなかった。
 レジーに場所を聞いたがレジーは、首を傾げるばかりで場所を知らない様子だった。
 仕方なくマリアの姿を探していると少し離れた森の出入り口付近でマリアの姿が見えた。
 夕闇のかすかな光を浴びて薄い金の髪が宝石のように煌めく。夜の闇でもよく映えるその髪は、人ならざる怪しい輝きをもっており、見るものを魅了する。
 いつも顔を合わせることの多いレイヴァンですら見ほれてしまうほどのきれいな髪だ。触れれば絹のように柔らかいことをレイヴァンは知っている。それを“独占”したいと思ってしまう自分はどれほど醜いのだろうとレイヴァンは自身を嘲笑する。
 柔らかいあの髪も肌もすべて自分のものにしたいと思うのは、明らかに主従を超えており自分でも歯止めがきかないことがある。その“わがまま”な愛情は、増すばかりで何も出来ない。
 『騎士』として手を取り、髪にふれることはあっても『男』として触れることは叶わない。

(俺は臆病で卑怯者なんだろうな)

 自らをそう評し、また嘲笑した。すると、マリアがこちらに気づいて毒気のない表情で駆け寄ってくる。そんな嬉しそうな顔で駆け寄られればどこか背徳感に襲われてレイヴァンはあいまいな表情を作ってしまった。

「レイヴァン、どうかした?」

「いいえ、何でもございません」

 レイヴァンはそう答えることしか出来なかった。首を傾げるマリアに何でも無いですよと念を押して言えばマリアは不思議そうな表情のまま、それ以上は何も問わなかった。それから、ふと真剣な表情になるとマリアはレイヴァンに言った。

「エリスとクライドは、近い日に死間としておもむくのだな」

 レイヴァンも真剣に頷いて答えた。

「はい。ですが、ソロモンの策です。きっと生きて戻って来ますよ」

 不安を宿したマリアの瞳を見てレイヴァンが安心させるように告げた。マリアも頭では分かっているようでこくこくと頷いてみせる。

「うん、わかってる。だけど……」

 心配なのだろう。無理もないことだ。戦場もろくに知らぬ娘からすれば死間など仲間にやらせたくないと思っているに違いない。
 レイヴァンは出来るだけ優しい笑顔を浮かべて見せて口を開いた。

「不安なのも無理はございません。けれど、エリスとクライドは危険を承知で向かうのです。そんな彼らの決意を受け入れてくださいませ」

 マリアは目を伏せてそっとレイヴァンに近寄ったかと思えばぎゅと服を握り締めてしがみついた。たちまちレイヴァンの衣服に皺が寄る。

「ごめん、レイヴァン。少しだけこうしていても良いだろうか」

 レイヴァンは笑みをそっと浮かべるとマリアの肩を優しく抱いて「はい」と答えた。マリアはただ、そうしてレイヴァンに抱きしめられていた。
 それをやはり少し遠くからソロモンが眺めていた。

(自分を隠しなさいと忠告したが、やはりレイヴァンがうんと甘やかしてしまうな。でも、たまにそうでもしなければ姫様は自我を保てない。ならば、これでいいのかも知れない)

 ソロモンは気づかないふりをしてその場を離れた。
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