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第一部 はじまりの物語
第三十一章 もくろみ
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オブシディアン共和国、第二の首都と呼ばれるグラス・ラーバにある国の政治を行う場所。そこに場違いな、レースやフリルがうんと付けられた薄いピンクのドレスを着た女性が歩いていた。アレシア、その人である。しとやかに歩くその姿を見れば、一目で彼女が上流階級のものだと分かるだろう。けれど、彼女の瞳には怒りにも似た色が浮かんでいる。それを見れば誰であろうと彼女が怒っていることが見てとれた。そのため、あえて彼女に話し掛けようなどと思う者もいなかった。ただちらちらと彼女の様子をうかがっているようだった。
当の本人であるアレシアは周りの様子など気にした様子なく淡いピンクのハイヒールの音を廊下に響かせながら歩いていた。やがて、ひとつの扉の前へ来ると大きく扉を開け放った。
部屋の中には初老の男がひとりいるだけで他に人はいなかった。アレシアはその男に詰め寄る。
「お父様! なぜ、援軍の数が三千なのですか? ベスビアナイト国軍の数は、圧倒的に少ないですのに」
「アレシア、こちらとしてもあまり多くの即戦力を向こうに渡したくはない。向こうに援軍を送るということは国都が手薄になる。その隙を狙われる可能性もあるのだ。だから、あまり多くの援軍は送れん」
アレシアがぐっと歯を食いしばる。初老の男こと、アレシアの父親の言葉は確かにアレシアにも理解できる。けれど、理屈と感情というものはつりあわないのが常である。
「だとしても、もう少し援軍を増やすことは出来ないのでしょうか」
「戦に私情をはさんではならぬ。アレシアもそれは分かっているだろう?」
「わからないわ、私には政治なんてとんとわからないもの」
そういうとアレシアは部屋を出て行った。それを見届けて初老の男は溜息を吐き出す。すると、扉がノックされた。それに答えると秘書が部屋へ入ってきた。
「いま、お嬢様とすれ違いましたが何かございましたか」
するどい秘書が主である初老の男に問いかけると、初老の男は何でもないとだけ答えて秘書に先を促した。
「ツェーザル様、ベスビアナイト国の軍が“新しい兵器”を使い1万の兵で5万の兵を破ったとの連絡が参りました」
「それは真か、ハインリヒ」
初老の男ツェーザルは、秘書であるハインリヒに答え何やら考え込んだ。それから、援軍を送る人数を増やせと言った。
「よろしいのですか、いくら新しい兵器があると言ってもベスビアナイト国の軍は劣勢。“形だけの援軍”であったはずですが」
「いいから、援軍を5千にまで増やせ」
かしこまりました、と答えてハインリヒは出て行く。それを確認してからツェーザルは大きな溜息を零してしまう。それから、何やら書面に目を通した。
***
夜、セシリーはソロモンに呼び出されてマリアの天幕(テント)へ向かう。その途中でクレアとも会い、一緒に向かうこととなった。
「クレアも呼ばれたの?」
「ええ、きっと作戦会議だわ」
なるほど、それなら自分も呼び出された意味が分かる。ベスビアナイト国の兵器の開発は主にセシリーが行っているのだ。なんら呼ばれてもおかしな事はない。
この国に錬金術師があまりいないことと、そこまで錬金術が戦において重要視されていないというのもある。けれど、王妃はそれを逆に重要視し、セシリーに錬金術の腕を身につけさせた。
それにより、ベスビアナイト国の軍事力はぐんと上がったらしい。
セシリーにはそれなりに国に貢献できているのかな、というぐらいしか認識はないが、この国を守っているのは彼女の考案した兵器といっても過言ではないのが現状だ。
剣や弓といった武器の他に爆薬というものを生み出したのは彼女であるし、型に入れて爆弾というものを生み出したのも彼女だ。けれど、まだ実用に至っていないのも現状である。なにより、取り扱いが難しい。取り扱えるのが彼女しかいないため、彼女が側にいないと兵達も恐くて使えないのだ。
そんな理由もあって勝手に扱える代物ではなかった。他国には爆弾という物はまだ、開発すらされていないらしい。
「ねえ、セシリー。爆弾を使って兵を追い返したと聞いたけれど、本当なの?」
「ええ、爆弾ひとつあれば兵の十数人が一度に吹き飛ぶの」
セシリーの愛らしい容姿からは想像も出来ないほど物騒な言葉が飛び出した。けれど、それを気にとめる兵もいない。
セシリーのことを知らない兵がいたとしても、気にとめないだろう。軍に呼ばれて戦場へ赴くような少女が普通のはずがないのだ。
「まるで魔法ね」
「魔法ならもっと、平和的な解決をするでしょう?」
クレアの言葉にセシリーが返せば、それもそうかと頷く。セシリーが戦を好ましく思っていないのはクレアもよくわかっていた。クレアもまた戦は好きではなかったのだ。
セシリーは、ふと瞳の奧に悲しみを宿す。これから、戦の話をされると思うと気が重いらしい。クレアはその気持ちを汲み取って出来るだけ明るい声で言葉を発した。
「うちの参謀殿はね、戦わずして勝つことが良いんだと言ってたよ。そうしたら、誰も傷つかない」
にっこりと微笑んで見せればセシリーは笑みを浮かべて「ええ!」と答える。すると、いつの間にやら天幕(テント)についていた。セシリーは恐る恐るといった様子で中へ入る。すると、そこにはマリアを中心にレイヴァン、ソロモン、レジーにギル、エリスにクライドと勢揃いしていた。
思わずセシリーは顔が強ばってしまう。けれど、そんなセシリーの背をクレアが押して天幕(テント)の中へ入り、座らされた。
すると、ソロモンがセシリーの方を向いて軽く頭を下げる。
「お噂は伺っておりましたよ。セシリー殿。新しい兵器開発にご尽力いただいているとか」
「は、はい!」
答えたセシリーの声は裏返り、震えていた。思わずそんなセシリーにマリアが、出来るだけ柔らかく笑みを浮かべてみせる。
「そんなにかしこまらなくていいよ」
「ひゃ、ひゃい」
マリアの言葉にさらに緊張が走ったのか、セシリーは背筋をピシッと伸ばしたが舌足らずできちんと返事が出来なかった。赤面してしまうセシリーをギルがいやらしい目で見つめているとクレアがギッとギルを睨む。ギルは肩をすくめて見せて、マリアの方へ視線を向けた。
マリアは、困ったようにセシリーを見つめている。セシリーはというと赤面したままうつむいてしまった。
「セシリー、あなたのお陰で助かりました。まずお礼を言います。ありがとうございます」
マリアが告げればセシリーは、頬を紅潮させたまま、また舌足らずな言葉を紡いだ。
「ととととととんでもございません! あなた様のお役に立てたのなら、こっこここれ以上の幸せはございません!」
またしてもマリアが困ったように微笑んだ。緊張をほぐそうとしたのに逆効果のようだ。
確かにこの面目が集まれば緊張するのも頷ける。マリアも、たまに緊張して背筋を伸ばしてしまったことがある。
(うーん、どうにかして緊張をほぐしてあげられないだろうか)
「ねえ、セシリー。新しいあの爆弾のことを説明してはくれないか」
するとセシリーは、ぱあっと顔を上げてカバンを漁ると“黒い物体”例の爆弾を取りだした。
「ここにある安全装置を外した後、衝撃を与えると爆発する仕組みになっております。そのため、安全装置を外しただけでは爆発しません」
「へえ、そうなのか」
「はい! なので敵へ向かって投げる必要があるのです」
急に饒舌(じょうぜつ)になったセシリーにソロモンが絶句する。それから、にやりと笑うとマリアを眺めた。マリアはというとずっとにこにこしており、主君の風格などまるで感じさせない様子であった。
(なるほど、人をあやつるのも得意であるな)
ソロモンは密かにそんな感想を持つ。それから、小さく咳払いすると空気に切れ目を入れて言葉を発した。
「セシリー殿、その爆薬の威力はレイヴァンから聞きました。それを今後の戦力の一つと考えていこうと思っております」
セシリーはすっかり緊張もほぐれて満面の笑みで「はい」と答えた。それを見るとマリアまでもほっとして肩の力を抜いた。
「けれど、兵達が扱うにはまだ不安が残りましょう。それを使うときはセシリー殿に立ち会ってもらいますがよろしいですか」
セシリーは、こくりと頷くとソロモンの方をじっと見つめた。次の言葉を待っているのかも知れない。
ソロモンはマリアの方を向き直るとマリアにも同意を求めるように問いかける。
「それでよろしいですか」
「ああ、もちろん」
マリアは即決してソロモンを見つめ返した。皆もそれに異存はないようで無言であるけれど、視線で答えていた。
「では、反論は無さそうなのでその方向で。さて、これからのことでございますが向こうがどう出るのか。わかりますか、王子」
「えっと、守りを固めるのではないか」
「そうですね。こちらも奥の手である“爆弾”を使わなければならないほどに追い詰められている。それは、向こうも察している。ゆえに向こうは、“爆弾”を無駄に使わせて数を減らそうとしていることでしょう」
なるほど、とマリアは思った。いくらこちらに“爆弾”という手があるにしても数には限りがある。だから向こうはわざと5万ほどの軍隊をこちらへ送り、“無駄に”爆弾を使わせようとしている。それはつまり、王都へ付く前に爆弾の数を減らす、もしくは全部使わせて一気に攻めるつもりなのだ。
たしかに数ではこちらが圧倒的に不利であるからこそ、このような手段を使うのであろう。
「でも、それでいつまでもつのかしら?」
ずっと黙っていたクレアが零せば、皆の視線が集まる。けれど、それを気にした様子もなく発言した。
「確かに、爆弾の数を減らすためにこちらに軍を送り込もうとしているのか分かる。けれど、それでは自軍の兵も圧倒的に減ってしまうのではないかしら」
クレアの意見はもっともだ。爆弾の数を減らせることが出来ても、自軍の数が圧倒的に減ってしまう。それはコーラル国とて大きな痛手となろう。ソロモンは考えるように顎の手を当てた。
「コーラル国は兵は捨て駒のようにしか考えておらぬのかもしれん。もしくは、この戦法で行けと進言した輩がいるのか、王子ならどう思いますか」
コーラル国の軍の中に裏切り者がいるかもしれないと暗に言っていた。マリアはあるとすれば、客将だろうかと考える。確かにそれならば裏切ってもおかしくはない。それとも、本当に中に裏切り者がいるのか。
マリアが難しい顔で悩んでいるとセシリーがほわほわした調子でマリアを見つめる。それから、悩んだ後、言葉を発した。
「別に軍をこちらへ向かわせるだけが戦法ではないですよね? それに爆弾を使ったのは今回が初めてであるし、向こうはこちらにそんな物があるのを知らなかった可能性だってあります」
今回の戦いには確かに5万の兵が来たけれど、次から同じ人数が来るとも限らない。それにもっと別の方法で爆弾を消費させようとする。あるいは、間者を使って爆弾を盗むといった行為もするかも知れないとセシリーは口にした。
その言葉にマリアは目が覚める思いでセシリーを見つめた。
「なるほど!」
思わずマリアが発してセシリーを見つめた。ソロモンもまた柔らかく微笑んでセシリーを見つめていた。
「ええ、そうです。何も軍をこちらへ送る必要などない。こちらの爆弾をどうにかすれば良いだけの話なのですから。セシリー殿、参謀にも向くかも知れませんぞ」
ソロモンが半ば冗談で言えば、セシリーは、へらっと笑って冗談で「そうですか」と返した。それから、ソロモンはマリアの方を向き直る。
「向こうはおそらくあの5万の兵で我々を蹂躙しようとした。けれど、あの吹雪と爆弾で呆気なく退散させられたのだろうと思います。なので、向こうは守りを固めどうにかして我々の爆弾を無くそうと考えます」
マリアは、また難しそうに考え込んだ。守りを固められるということは、おびき出さなくてはならなくなる。おびき出すと言っても、果たしてどれが有効なのだろうか。
「戦わずして勝つ、それが一番大切なのです」
念を押すようにソロモンがマリアに告げた。それに小さく頷けばソロモンは言った。
「出来ればこちらとしても、爆弾を使いたくはない。ならば、相手をどう誘い出し、誘い込むか」
「誘い込む?」
「はい、誘い込みます。こちらが有利になるように、できるだけ戦わずしてすむように。そうすれば、我々も傷つかず向こうも傷つかず、そして無傷のまま王都を取り戻すことが出来る」
もうすでにコーラル国によって国民は傷ついているが、とソロモンは付け足した。そのことに少し悲しみを瞳に宿しながらマリアは頷く。
「そうだな、一刻も早く国民を救わなければ」
拳を握りしめてマリアが呟く。それを聞いてソロモンは小さく笑った。
「いますぐに答えを出さずともよいでしょう。自ら考え、動くことが大切です。では、今日はこの辺にいたしましょう」
ソロモンの言葉に皆が散り散りになる。けれど、マリアは悩むばかりでいっこうに動こうとしない。そんなマリアに残っていたセシリーが声をかけた。
「外に出ませんか?」
「ありがとう、だけど」
「考えているだけじゃ、答えを得られないときだってあります。外へ出て一度、それを忘れてみてはいかがですか」
セシリーの言葉にマリアは、頷いて見せて共に外へ出た。すると、冷たい風がマリアの頬を撫でる。空を見上げれば深夜であるからか深い闇に包まれていた。けれど、小さな星の輝きがあってどこか美しい。小さな星の輝きは地上を明るく照らしはしないけれど、それでも趣があって美しかった。
「きれい」
「よかったです。王子様、ずっと悩んでいるようでしたので」
セシリーにとても心配されていたようだった。マリアは思わず「すまない」と答えていた。けれど、セシリーは首を横に振り微笑んでみせる。
「いえ、あなた様が少しでも元気になられて良かったです」
「ありがとう」
柔らかく答えたマリアの言葉は夜の闇に溶けていった。
エリスとクライドは、ソロモンとレイヴァンの天幕(テント)にいた。どうやら、ソロモンから話があるらしい。
「どうかなさいましたか」
「実は二人に頼みたいことがあるのだが、頼めるか」
「諜報ですか?」
「ああ、そうだ。だが今回は“反間”だ」
ソロモンが言葉を発したとき、クライドが何かに反応して懐から戦輪を取りだすとそれを放った。戦輪は空を切り裂いてテントを切り、そこにいた“人物”をも切った。
皆してそこへ行くと足をケガしたラルスがうずくまっていた。
「お前はっ」
「こいつが、間者だったというわけさ」
レイヴァンの言葉にならない問いに、ソロモンがそう答えた。それから、ラルスに視線を投げかけるとラルスはギッとソロモンを睨み付ける。
「さあて、あんたにはやってもらいたいことがある」
「誰がそんなことを」
「今ここでお前を切り捨てることなど容易いんだぞ」
ラルスの言葉にソロモンが冷たくそう返した。ラルスに投げかける視線も氷のように冷たい。ラルスはぐっと息を飲み込んで答えた。
「わかったよ。で、おれに“反間”になれと?」
『反間』それは、敵の間者を手なずけて逆用することだ。
「ラルス、といったな。お前、コーラル国に買収されているのだろう?」
ラルスは言葉を失ってソロモンを見つめる。なぜ、わかったとでも言いたげな視線を投げかけるラルスにソロモンは笑って見せた。
「他の兵から聞いたぞ、お前が人一倍練習に励みだしたのは、あのコーラル国がシプリン支城に攻め入る少し前からだったと」
つまり、コーラル国はラルスを買収し、情報を集め攻め入る機会をうかがっていた。けれど、それは失敗に終わってしまった。
「何か甘言でも言われたのだろうが、向こうはおそらくお前を切り捨てる気だぞ」
「分かっているけれど」
「そこまで忠義を尽くす必要もあるまい」
少し考えているようだったラルスはゆるりと口を開いた。
「あんたはおれに何をさせたい?」
にやりとソロモンが不敵に嗤う。ラルスは汗をうかべてソロモンを見つめ返した。
「もちろん、情報収集だとも。他に何がある? お前ならば王都へ入り込みやすいであろう」
確かに、とラルスはどこか納得したように頷く。 それから、考え込むラルスにソロモンは釘を刺すように告げた。
「言っておくが、王子がお前のことを気にかけていなければ今すぐにでも首をはねていたぞ」
それが脅しではないことをラルスは、口調から察すれば口を噤んで何かを決めたようだ。それから、「わかった」と告げればソロモンはラルスを真っ直ぐに見つめる。
「お前には王都で情報収集をしてもらう。何でもいい、情報はこちらへ流せ」
「かしこまりました」
ケガを負った足でラルスはソロモンに跪いた。
「王子に気にかけてもらった分は返せ、いいな」
ソロモンがそう言ったときだった。マリアが偶然にもここを通りがかって、駆け寄ってきた。
「ラルス、こんなところで何して!」
「王子!」
ラルスはマリアを見て驚いたように目を瞬く。マリアもまた驚いてラルスに駆け寄った。
「ソロモン、これは一体?」
マリアは即座にラルスの足に処置を施しながら問いかければ、ソロモンは素知らぬ顔で「どこかにぶつけるか何かしたのではないですか」といった。ラルスは思わずソロモンを恨めしそうに眺めたけれど、すぐにその表情も消し去ってマリアを見つめ返す。
「はい、剣の稽古中にケガをしてしまいまして」
「大変じゃないか。それで、一体何の話をしていたんだ?」
マリアが問いかけるとソロモンはマリアの目を真っ直ぐに見つめて答えた。
「彼は間者として王都へ潜り込ませます。なので、しばらく我々からは別行動となります。王子にもお知らせするつもりでしたが、タイミング良く来てくださいました」
「そうか」
どこか腑に落ちない様子であったがマリアは、処置を終えて頷いて見せた。それから、ラルスの方を振り返ると「体に気をつけて」と言った。
「ありがとうございます」
ラルスが溢れる感情を抑え込むようにマリアに告げた。マリアにはラルスの真意が分からないけれど、彼が心の底からそう言ってくれるのなら彼は信頼しても良いとも思えた。
「さて、ラルス。お主には明朝には旅だってもらう」
ラルスはこくりと頷いて見せた。その瞳には確かな揺るぎない意志があった。
(ほう、いい目をする。姫様が関わるとここまでかわるのか)
思って密かにソロモンは、にやりとほくそ笑むと、それからマリアに向き直った。
「それでは、今日はもう寝ましょう」
わざとらしく欠伸をしてソロモンは、言うと天幕の中へ戻った。エリスとクライドもまだソロモンからの話があるのか、その後に続く。残されたマリアはラルスに手を貸してやり、立たせるとラルスが慌てたようにマリアの手をふりほどこうとする。
「大丈夫ですから」
「これくらいはさせてくれないか」
マリアは悲しげに微笑んでラルスに言えばレイヴァンは、ラルスに手を貸してマリアの腕を優しくほどいた。
「王子よりも俺の方が腕の力はありますから」
確かに、とマリアは納得したけれどレイヴァンの心の内は「こんな男にマリア様の手を煩わせるわけにはいかない」に集約する。ラルスもそれを何となく感じ取り、大人しくレイヴァンの手を借りていた。
「王子、しばらく王都へ向かわずにここへとどまる方がよいとソロモンが言っておりました。また明日にでもソロモンから話があると思いますが」
「わかった」
そんな会話をしている内に兵達の集まっている場所に来た。そこにラルスを預けた後、レイヴァンは兵達にラルスがこれから別行動することを告げると兵達は一気に盛り上がった。ソロモンから直接、ラルスに頼まれたと言うことであったから皆、浮かれているのだろう。
ソロモンは兵一人一人を見ていると兵達は解釈でもした様子だ。事実を知れば、そんなことも無くなるだろう。だが、こうして盛り上がるということは兵達の士気が上がることにもつながる。それは良いことだ。けれど、それは逆に命を捨てることと結びつくのだ。
マリアは複雑そうな思いで兵達を眺めた後、レイヴァンに自分の天幕まで送ってもらった。
「ありがとう、レイヴァン」
礼を言って天幕の中へ戻ろうとしたマリアをレイヴァンが止めた。
「マリア様、どうかソロモンのことを信じてやってはくれませんか。今はわからなくて不信感も募ることもございましょうが、きっと彼はあなたの力になってくれておりますから」
マリアがソロモンに対して若干であるが、不信感を抱いたのをレイヴァンは見逃さなかったのだ。それでこうやって、言葉足らずな旧友のために補うためにマリアに進言しているのだった。
そんなレイヴァンの方を振り返り、マリアはそっと笑みを浮かべて見せた。
「うん、信じるよ。それにわたしは、彼がそういう人だって分かってて仲間にしているのだから。今更、不信感なんて抱くべきではないよね」
自らにそう言い聞かせるように言うマリアにレイヴァンは、どこか複雑そうだ。そんなレイヴァンを眺めてマリアは苦笑いを浮かべるとレイヴァンの手を握った。
「ソロモンがわたしを守るために何かを隠しているのなら、わたしはそれも知りたい。無知ではありたくないのだから」
暗にすべて言って欲しいとマリアは告げた。レイヴァンはラルスのことをしゃべってしまおうかと思ったけれど、それはソロモンのするべき事だと思い直して言葉を飲み込んだ。
「それは、ソロモンから直接きいてください。俺から告げるべきではない」
「わかった、レイヴァン。困らせて悪かった。それから、何度も言うように、“その名前”で呼ばないでくれないか」
はっとしてレイヴァンは、思わずマリアに跪いて謝る。
「申し訳ございません! 俺としたことが」
「かまわないけれど、気をつけてくれないと。いや、わたしがその名前で呼んでと言ったのがいけないのかも知れないけれど」
苦笑いを浮かべながらマリアは言った。そんなマリアを見上げてレイヴァンは、フッと息を漏らす。そんなレイヴァンの瞳とマリアの瞳が絡み合う。そのとき、一陣の風が吹いて二人の髪と衣服を揺らした。それがまるで何かの合図のようにレイヴァンは、立ち上がるとマリアの手を取る。
「前にも申しましたが、俺の前ではどうか“お姫様”でいてはくださいませんか」
「今は出来ない。国を取り戻すまではわたしを“王子”として扱って欲しい。我が儘ということは百も千も承知の上だ」
言って微笑むマリアにレイヴァンは、また恭しく跪いた。
「御意」
臣下らしくレイヴァンが答えればマリアは、嬉しそうに微笑んだ。
*
一方、ソロモンはエリスとクライドに“あること”をお願いしていた。
「ということだが、二人とも“死間”をお願いできるか」
エリス、クライドは共に頷いて肯定の意を示した。
「かしこまりました」
「了解した」
前者がエリスで後者がクライドだ。二人の返事を聞いてソロモンは、険しい表情のまま二人を見つめて、何かあればすぐに帰ってこいと告げる。二人とも、それも承知のようで頷いて答えた。それから、これだけは守るようにと念を押してこう告げた。
「必ず生きて帰ってこい」
当の本人であるアレシアは周りの様子など気にした様子なく淡いピンクのハイヒールの音を廊下に響かせながら歩いていた。やがて、ひとつの扉の前へ来ると大きく扉を開け放った。
部屋の中には初老の男がひとりいるだけで他に人はいなかった。アレシアはその男に詰め寄る。
「お父様! なぜ、援軍の数が三千なのですか? ベスビアナイト国軍の数は、圧倒的に少ないですのに」
「アレシア、こちらとしてもあまり多くの即戦力を向こうに渡したくはない。向こうに援軍を送るということは国都が手薄になる。その隙を狙われる可能性もあるのだ。だから、あまり多くの援軍は送れん」
アレシアがぐっと歯を食いしばる。初老の男こと、アレシアの父親の言葉は確かにアレシアにも理解できる。けれど、理屈と感情というものはつりあわないのが常である。
「だとしても、もう少し援軍を増やすことは出来ないのでしょうか」
「戦に私情をはさんではならぬ。アレシアもそれは分かっているだろう?」
「わからないわ、私には政治なんてとんとわからないもの」
そういうとアレシアは部屋を出て行った。それを見届けて初老の男は溜息を吐き出す。すると、扉がノックされた。それに答えると秘書が部屋へ入ってきた。
「いま、お嬢様とすれ違いましたが何かございましたか」
するどい秘書が主である初老の男に問いかけると、初老の男は何でもないとだけ答えて秘書に先を促した。
「ツェーザル様、ベスビアナイト国の軍が“新しい兵器”を使い1万の兵で5万の兵を破ったとの連絡が参りました」
「それは真か、ハインリヒ」
初老の男ツェーザルは、秘書であるハインリヒに答え何やら考え込んだ。それから、援軍を送る人数を増やせと言った。
「よろしいのですか、いくら新しい兵器があると言ってもベスビアナイト国の軍は劣勢。“形だけの援軍”であったはずですが」
「いいから、援軍を5千にまで増やせ」
かしこまりました、と答えてハインリヒは出て行く。それを確認してからツェーザルは大きな溜息を零してしまう。それから、何やら書面に目を通した。
***
夜、セシリーはソロモンに呼び出されてマリアの天幕(テント)へ向かう。その途中でクレアとも会い、一緒に向かうこととなった。
「クレアも呼ばれたの?」
「ええ、きっと作戦会議だわ」
なるほど、それなら自分も呼び出された意味が分かる。ベスビアナイト国の兵器の開発は主にセシリーが行っているのだ。なんら呼ばれてもおかしな事はない。
この国に錬金術師があまりいないことと、そこまで錬金術が戦において重要視されていないというのもある。けれど、王妃はそれを逆に重要視し、セシリーに錬金術の腕を身につけさせた。
それにより、ベスビアナイト国の軍事力はぐんと上がったらしい。
セシリーにはそれなりに国に貢献できているのかな、というぐらいしか認識はないが、この国を守っているのは彼女の考案した兵器といっても過言ではないのが現状だ。
剣や弓といった武器の他に爆薬というものを生み出したのは彼女であるし、型に入れて爆弾というものを生み出したのも彼女だ。けれど、まだ実用に至っていないのも現状である。なにより、取り扱いが難しい。取り扱えるのが彼女しかいないため、彼女が側にいないと兵達も恐くて使えないのだ。
そんな理由もあって勝手に扱える代物ではなかった。他国には爆弾という物はまだ、開発すらされていないらしい。
「ねえ、セシリー。爆弾を使って兵を追い返したと聞いたけれど、本当なの?」
「ええ、爆弾ひとつあれば兵の十数人が一度に吹き飛ぶの」
セシリーの愛らしい容姿からは想像も出来ないほど物騒な言葉が飛び出した。けれど、それを気にとめる兵もいない。
セシリーのことを知らない兵がいたとしても、気にとめないだろう。軍に呼ばれて戦場へ赴くような少女が普通のはずがないのだ。
「まるで魔法ね」
「魔法ならもっと、平和的な解決をするでしょう?」
クレアの言葉にセシリーが返せば、それもそうかと頷く。セシリーが戦を好ましく思っていないのはクレアもよくわかっていた。クレアもまた戦は好きではなかったのだ。
セシリーは、ふと瞳の奧に悲しみを宿す。これから、戦の話をされると思うと気が重いらしい。クレアはその気持ちを汲み取って出来るだけ明るい声で言葉を発した。
「うちの参謀殿はね、戦わずして勝つことが良いんだと言ってたよ。そうしたら、誰も傷つかない」
にっこりと微笑んで見せればセシリーは笑みを浮かべて「ええ!」と答える。すると、いつの間にやら天幕(テント)についていた。セシリーは恐る恐るといった様子で中へ入る。すると、そこにはマリアを中心にレイヴァン、ソロモン、レジーにギル、エリスにクライドと勢揃いしていた。
思わずセシリーは顔が強ばってしまう。けれど、そんなセシリーの背をクレアが押して天幕(テント)の中へ入り、座らされた。
すると、ソロモンがセシリーの方を向いて軽く頭を下げる。
「お噂は伺っておりましたよ。セシリー殿。新しい兵器開発にご尽力いただいているとか」
「は、はい!」
答えたセシリーの声は裏返り、震えていた。思わずそんなセシリーにマリアが、出来るだけ柔らかく笑みを浮かべてみせる。
「そんなにかしこまらなくていいよ」
「ひゃ、ひゃい」
マリアの言葉にさらに緊張が走ったのか、セシリーは背筋をピシッと伸ばしたが舌足らずできちんと返事が出来なかった。赤面してしまうセシリーをギルがいやらしい目で見つめているとクレアがギッとギルを睨む。ギルは肩をすくめて見せて、マリアの方へ視線を向けた。
マリアは、困ったようにセシリーを見つめている。セシリーはというと赤面したままうつむいてしまった。
「セシリー、あなたのお陰で助かりました。まずお礼を言います。ありがとうございます」
マリアが告げればセシリーは、頬を紅潮させたまま、また舌足らずな言葉を紡いだ。
「ととととととんでもございません! あなた様のお役に立てたのなら、こっこここれ以上の幸せはございません!」
またしてもマリアが困ったように微笑んだ。緊張をほぐそうとしたのに逆効果のようだ。
確かにこの面目が集まれば緊張するのも頷ける。マリアも、たまに緊張して背筋を伸ばしてしまったことがある。
(うーん、どうにかして緊張をほぐしてあげられないだろうか)
「ねえ、セシリー。新しいあの爆弾のことを説明してはくれないか」
するとセシリーは、ぱあっと顔を上げてカバンを漁ると“黒い物体”例の爆弾を取りだした。
「ここにある安全装置を外した後、衝撃を与えると爆発する仕組みになっております。そのため、安全装置を外しただけでは爆発しません」
「へえ、そうなのか」
「はい! なので敵へ向かって投げる必要があるのです」
急に饒舌(じょうぜつ)になったセシリーにソロモンが絶句する。それから、にやりと笑うとマリアを眺めた。マリアはというとずっとにこにこしており、主君の風格などまるで感じさせない様子であった。
(なるほど、人をあやつるのも得意であるな)
ソロモンは密かにそんな感想を持つ。それから、小さく咳払いすると空気に切れ目を入れて言葉を発した。
「セシリー殿、その爆薬の威力はレイヴァンから聞きました。それを今後の戦力の一つと考えていこうと思っております」
セシリーはすっかり緊張もほぐれて満面の笑みで「はい」と答えた。それを見るとマリアまでもほっとして肩の力を抜いた。
「けれど、兵達が扱うにはまだ不安が残りましょう。それを使うときはセシリー殿に立ち会ってもらいますがよろしいですか」
セシリーは、こくりと頷くとソロモンの方をじっと見つめた。次の言葉を待っているのかも知れない。
ソロモンはマリアの方を向き直るとマリアにも同意を求めるように問いかける。
「それでよろしいですか」
「ああ、もちろん」
マリアは即決してソロモンを見つめ返した。皆もそれに異存はないようで無言であるけれど、視線で答えていた。
「では、反論は無さそうなのでその方向で。さて、これからのことでございますが向こうがどう出るのか。わかりますか、王子」
「えっと、守りを固めるのではないか」
「そうですね。こちらも奥の手である“爆弾”を使わなければならないほどに追い詰められている。それは、向こうも察している。ゆえに向こうは、“爆弾”を無駄に使わせて数を減らそうとしていることでしょう」
なるほど、とマリアは思った。いくらこちらに“爆弾”という手があるにしても数には限りがある。だから向こうはわざと5万ほどの軍隊をこちらへ送り、“無駄に”爆弾を使わせようとしている。それはつまり、王都へ付く前に爆弾の数を減らす、もしくは全部使わせて一気に攻めるつもりなのだ。
たしかに数ではこちらが圧倒的に不利であるからこそ、このような手段を使うのであろう。
「でも、それでいつまでもつのかしら?」
ずっと黙っていたクレアが零せば、皆の視線が集まる。けれど、それを気にした様子もなく発言した。
「確かに、爆弾の数を減らすためにこちらに軍を送り込もうとしているのか分かる。けれど、それでは自軍の兵も圧倒的に減ってしまうのではないかしら」
クレアの意見はもっともだ。爆弾の数を減らせることが出来ても、自軍の数が圧倒的に減ってしまう。それはコーラル国とて大きな痛手となろう。ソロモンは考えるように顎の手を当てた。
「コーラル国は兵は捨て駒のようにしか考えておらぬのかもしれん。もしくは、この戦法で行けと進言した輩がいるのか、王子ならどう思いますか」
コーラル国の軍の中に裏切り者がいるかもしれないと暗に言っていた。マリアはあるとすれば、客将だろうかと考える。確かにそれならば裏切ってもおかしくはない。それとも、本当に中に裏切り者がいるのか。
マリアが難しい顔で悩んでいるとセシリーがほわほわした調子でマリアを見つめる。それから、悩んだ後、言葉を発した。
「別に軍をこちらへ向かわせるだけが戦法ではないですよね? それに爆弾を使ったのは今回が初めてであるし、向こうはこちらにそんな物があるのを知らなかった可能性だってあります」
今回の戦いには確かに5万の兵が来たけれど、次から同じ人数が来るとも限らない。それにもっと別の方法で爆弾を消費させようとする。あるいは、間者を使って爆弾を盗むといった行為もするかも知れないとセシリーは口にした。
その言葉にマリアは目が覚める思いでセシリーを見つめた。
「なるほど!」
思わずマリアが発してセシリーを見つめた。ソロモンもまた柔らかく微笑んでセシリーを見つめていた。
「ええ、そうです。何も軍をこちらへ送る必要などない。こちらの爆弾をどうにかすれば良いだけの話なのですから。セシリー殿、参謀にも向くかも知れませんぞ」
ソロモンが半ば冗談で言えば、セシリーは、へらっと笑って冗談で「そうですか」と返した。それから、ソロモンはマリアの方を向き直る。
「向こうはおそらくあの5万の兵で我々を蹂躙しようとした。けれど、あの吹雪と爆弾で呆気なく退散させられたのだろうと思います。なので、向こうは守りを固めどうにかして我々の爆弾を無くそうと考えます」
マリアは、また難しそうに考え込んだ。守りを固められるということは、おびき出さなくてはならなくなる。おびき出すと言っても、果たしてどれが有効なのだろうか。
「戦わずして勝つ、それが一番大切なのです」
念を押すようにソロモンがマリアに告げた。それに小さく頷けばソロモンは言った。
「出来ればこちらとしても、爆弾を使いたくはない。ならば、相手をどう誘い出し、誘い込むか」
「誘い込む?」
「はい、誘い込みます。こちらが有利になるように、できるだけ戦わずしてすむように。そうすれば、我々も傷つかず向こうも傷つかず、そして無傷のまま王都を取り戻すことが出来る」
もうすでにコーラル国によって国民は傷ついているが、とソロモンは付け足した。そのことに少し悲しみを瞳に宿しながらマリアは頷く。
「そうだな、一刻も早く国民を救わなければ」
拳を握りしめてマリアが呟く。それを聞いてソロモンは小さく笑った。
「いますぐに答えを出さずともよいでしょう。自ら考え、動くことが大切です。では、今日はこの辺にいたしましょう」
ソロモンの言葉に皆が散り散りになる。けれど、マリアは悩むばかりでいっこうに動こうとしない。そんなマリアに残っていたセシリーが声をかけた。
「外に出ませんか?」
「ありがとう、だけど」
「考えているだけじゃ、答えを得られないときだってあります。外へ出て一度、それを忘れてみてはいかがですか」
セシリーの言葉にマリアは、頷いて見せて共に外へ出た。すると、冷たい風がマリアの頬を撫でる。空を見上げれば深夜であるからか深い闇に包まれていた。けれど、小さな星の輝きがあってどこか美しい。小さな星の輝きは地上を明るく照らしはしないけれど、それでも趣があって美しかった。
「きれい」
「よかったです。王子様、ずっと悩んでいるようでしたので」
セシリーにとても心配されていたようだった。マリアは思わず「すまない」と答えていた。けれど、セシリーは首を横に振り微笑んでみせる。
「いえ、あなた様が少しでも元気になられて良かったです」
「ありがとう」
柔らかく答えたマリアの言葉は夜の闇に溶けていった。
エリスとクライドは、ソロモンとレイヴァンの天幕(テント)にいた。どうやら、ソロモンから話があるらしい。
「どうかなさいましたか」
「実は二人に頼みたいことがあるのだが、頼めるか」
「諜報ですか?」
「ああ、そうだ。だが今回は“反間”だ」
ソロモンが言葉を発したとき、クライドが何かに反応して懐から戦輪を取りだすとそれを放った。戦輪は空を切り裂いてテントを切り、そこにいた“人物”をも切った。
皆してそこへ行くと足をケガしたラルスがうずくまっていた。
「お前はっ」
「こいつが、間者だったというわけさ」
レイヴァンの言葉にならない問いに、ソロモンがそう答えた。それから、ラルスに視線を投げかけるとラルスはギッとソロモンを睨み付ける。
「さあて、あんたにはやってもらいたいことがある」
「誰がそんなことを」
「今ここでお前を切り捨てることなど容易いんだぞ」
ラルスの言葉にソロモンが冷たくそう返した。ラルスに投げかける視線も氷のように冷たい。ラルスはぐっと息を飲み込んで答えた。
「わかったよ。で、おれに“反間”になれと?」
『反間』それは、敵の間者を手なずけて逆用することだ。
「ラルス、といったな。お前、コーラル国に買収されているのだろう?」
ラルスは言葉を失ってソロモンを見つめる。なぜ、わかったとでも言いたげな視線を投げかけるラルスにソロモンは笑って見せた。
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つまり、コーラル国はラルスを買収し、情報を集め攻め入る機会をうかがっていた。けれど、それは失敗に終わってしまった。
「何か甘言でも言われたのだろうが、向こうはおそらくお前を切り捨てる気だぞ」
「分かっているけれど」
「そこまで忠義を尽くす必要もあるまい」
少し考えているようだったラルスはゆるりと口を開いた。
「あんたはおれに何をさせたい?」
にやりとソロモンが不敵に嗤う。ラルスは汗をうかべてソロモンを見つめ返した。
「もちろん、情報収集だとも。他に何がある? お前ならば王都へ入り込みやすいであろう」
確かに、とラルスはどこか納得したように頷く。 それから、考え込むラルスにソロモンは釘を刺すように告げた。
「言っておくが、王子がお前のことを気にかけていなければ今すぐにでも首をはねていたぞ」
それが脅しではないことをラルスは、口調から察すれば口を噤んで何かを決めたようだ。それから、「わかった」と告げればソロモンはラルスを真っ直ぐに見つめる。
「お前には王都で情報収集をしてもらう。何でもいい、情報はこちらへ流せ」
「かしこまりました」
ケガを負った足でラルスはソロモンに跪いた。
「王子に気にかけてもらった分は返せ、いいな」
ソロモンがそう言ったときだった。マリアが偶然にもここを通りがかって、駆け寄ってきた。
「ラルス、こんなところで何して!」
「王子!」
ラルスはマリアを見て驚いたように目を瞬く。マリアもまた驚いてラルスに駆け寄った。
「ソロモン、これは一体?」
マリアは即座にラルスの足に処置を施しながら問いかければ、ソロモンは素知らぬ顔で「どこかにぶつけるか何かしたのではないですか」といった。ラルスは思わずソロモンを恨めしそうに眺めたけれど、すぐにその表情も消し去ってマリアを見つめ返す。
「はい、剣の稽古中にケガをしてしまいまして」
「大変じゃないか。それで、一体何の話をしていたんだ?」
マリアが問いかけるとソロモンはマリアの目を真っ直ぐに見つめて答えた。
「彼は間者として王都へ潜り込ませます。なので、しばらく我々からは別行動となります。王子にもお知らせするつもりでしたが、タイミング良く来てくださいました」
「そうか」
どこか腑に落ちない様子であったがマリアは、処置を終えて頷いて見せた。それから、ラルスの方を振り返ると「体に気をつけて」と言った。
「ありがとうございます」
ラルスが溢れる感情を抑え込むようにマリアに告げた。マリアにはラルスの真意が分からないけれど、彼が心の底からそう言ってくれるのなら彼は信頼しても良いとも思えた。
「さて、ラルス。お主には明朝には旅だってもらう」
ラルスはこくりと頷いて見せた。その瞳には確かな揺るぎない意志があった。
(ほう、いい目をする。姫様が関わるとここまでかわるのか)
思って密かにソロモンは、にやりとほくそ笑むと、それからマリアに向き直った。
「それでは、今日はもう寝ましょう」
わざとらしく欠伸をしてソロモンは、言うと天幕の中へ戻った。エリスとクライドもまだソロモンからの話があるのか、その後に続く。残されたマリアはラルスに手を貸してやり、立たせるとラルスが慌てたようにマリアの手をふりほどこうとする。
「大丈夫ですから」
「これくらいはさせてくれないか」
マリアは悲しげに微笑んでラルスに言えばレイヴァンは、ラルスに手を貸してマリアの腕を優しくほどいた。
「王子よりも俺の方が腕の力はありますから」
確かに、とマリアは納得したけれどレイヴァンの心の内は「こんな男にマリア様の手を煩わせるわけにはいかない」に集約する。ラルスもそれを何となく感じ取り、大人しくレイヴァンの手を借りていた。
「王子、しばらく王都へ向かわずにここへとどまる方がよいとソロモンが言っておりました。また明日にでもソロモンから話があると思いますが」
「わかった」
そんな会話をしている内に兵達の集まっている場所に来た。そこにラルスを預けた後、レイヴァンは兵達にラルスがこれから別行動することを告げると兵達は一気に盛り上がった。ソロモンから直接、ラルスに頼まれたと言うことであったから皆、浮かれているのだろう。
ソロモンは兵一人一人を見ていると兵達は解釈でもした様子だ。事実を知れば、そんなことも無くなるだろう。だが、こうして盛り上がるということは兵達の士気が上がることにもつながる。それは良いことだ。けれど、それは逆に命を捨てることと結びつくのだ。
マリアは複雑そうな思いで兵達を眺めた後、レイヴァンに自分の天幕まで送ってもらった。
「ありがとう、レイヴァン」
礼を言って天幕の中へ戻ろうとしたマリアをレイヴァンが止めた。
「マリア様、どうかソロモンのことを信じてやってはくれませんか。今はわからなくて不信感も募ることもございましょうが、きっと彼はあなたの力になってくれておりますから」
マリアがソロモンに対して若干であるが、不信感を抱いたのをレイヴァンは見逃さなかったのだ。それでこうやって、言葉足らずな旧友のために補うためにマリアに進言しているのだった。
そんなレイヴァンの方を振り返り、マリアはそっと笑みを浮かべて見せた。
「うん、信じるよ。それにわたしは、彼がそういう人だって分かってて仲間にしているのだから。今更、不信感なんて抱くべきではないよね」
自らにそう言い聞かせるように言うマリアにレイヴァンは、どこか複雑そうだ。そんなレイヴァンを眺めてマリアは苦笑いを浮かべるとレイヴァンの手を握った。
「ソロモンがわたしを守るために何かを隠しているのなら、わたしはそれも知りたい。無知ではありたくないのだから」
暗にすべて言って欲しいとマリアは告げた。レイヴァンはラルスのことをしゃべってしまおうかと思ったけれど、それはソロモンのするべき事だと思い直して言葉を飲み込んだ。
「それは、ソロモンから直接きいてください。俺から告げるべきではない」
「わかった、レイヴァン。困らせて悪かった。それから、何度も言うように、“その名前”で呼ばないでくれないか」
はっとしてレイヴァンは、思わずマリアに跪いて謝る。
「申し訳ございません! 俺としたことが」
「かまわないけれど、気をつけてくれないと。いや、わたしがその名前で呼んでと言ったのがいけないのかも知れないけれど」
苦笑いを浮かべながらマリアは言った。そんなマリアを見上げてレイヴァンは、フッと息を漏らす。そんなレイヴァンの瞳とマリアの瞳が絡み合う。そのとき、一陣の風が吹いて二人の髪と衣服を揺らした。それがまるで何かの合図のようにレイヴァンは、立ち上がるとマリアの手を取る。
「前にも申しましたが、俺の前ではどうか“お姫様”でいてはくださいませんか」
「今は出来ない。国を取り戻すまではわたしを“王子”として扱って欲しい。我が儘ということは百も千も承知の上だ」
言って微笑むマリアにレイヴァンは、また恭しく跪いた。
「御意」
臣下らしくレイヴァンが答えればマリアは、嬉しそうに微笑んだ。
*
一方、ソロモンはエリスとクライドに“あること”をお願いしていた。
「ということだが、二人とも“死間”をお願いできるか」
エリス、クライドは共に頷いて肯定の意を示した。
「かしこまりました」
「了解した」
前者がエリスで後者がクライドだ。二人の返事を聞いてソロモンは、険しい表情のまま二人を見つめて、何かあればすぐに帰ってこいと告げる。二人とも、それも承知のようで頷いて答えた。それから、これだけは守るようにと念を押してこう告げた。
「必ず生きて帰ってこい」
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