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第三章 記憶と緩まる封印

鬼丸と七緒②

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「は……? 何を言って……現に俺の腹には封印の紋が深く刻まれているのだぞ。最小限に抑えた妖力で何ができると言うのだ」


 急激に口内の水分が干からび、喉奥が張り付く感覚に襲われる。


「うんにゃ。自分で一番分かっているんだろう? 君の膨大な妖力に、封印が限界を迎えつつあることに」


 鬼丸が自分に言い聞かせるように発した言葉は、七緒にゆるりと否定された。
 鬼丸が瞳を泳がせ、言葉を紡げない間にも、七緒は推論を続ける。


「そもそも、あやかしが何年も隠世かくりよに戻ることなく現世うつしよに留まっていること自体が異様なんだよ。他の使い魔は呼ばれた時にだけ、こちらにやってくるだろう? 僕だってそうさ。境界が曖昧になるこの時間だけ、迷えるお客人と戯れるために店を構えているけどさ、それ以外は向こうにいるのだから」


 七緒の言う通り、鬼丸は自らの膨大な妖力を抑えるために、封印の紋を刻んだ。それも全て、結衣の側に居るために。


「封印の紋が締め付けるような痛みをもたらすのは、さっきが初めてじゃないんだろう? うん、やっぱり随分と濃厚な揚力が漏れ出ているねえ」


 うーん、と七緒は唸りながら顎に手を添えて鬼丸の臍のあたりを凝視する。


「このままにしておくと、君が苦しむことになる。さっさと封印を解いてしまったらどうだい?」

「それは……できない」


 からりと簡単に宣う七緒に対し、鬼丸の表情は暗い。唇をキツく噛み締め、鋭い眼は床を睨みつけている。

 七緒の言わんとすることは理解できる。他の使い魔と同じように、必要な時にだけ呼びかけに応じればいいのだ。わざわざ力を封じてまで現世うつしよに固執する鬼丸の考えが理解できないのだろう。

 だが、鬼丸の封印が解けること、それはすなわち、結衣が記憶を取り戻すことを意味する。

 結衣の使い魔として、現世うつしよに住まう決断をした時に自ら課した制約だ。その条件で、呪詛師に封印の紋を刻んでもらった。膨大な妖力を封じた反動で、姿形が随分と幼くなってしまったが、元の姿だと結衣の記憶を刺激する可能性があるので好都合だった。


「どうして頑なに拒むんだい? 彼女は君が側でずっと見守らなければならないほど弱くはないだろう」


 どら焼きを食べ終え、ちびちびと茶を啜っていた七緒が、何もかも見透かすような琥珀色の瞳でゆっくりと鬼丸を見据える。


「そうまでして、彼女の側に居たいのかい? あやかしと人間は、結ばれはしないよ」

「……分かっている」


 分かっているのだ。痛いほどに。七緒に言われるまでもない。
 今の関係でいい。唯一無二の存在で、結衣の側に居ることができれば、それでいい。

 もし封印が解かれてしまったら、鬼丸は本能的に結衣を求めてしまうだろう。
 封印によって封じているのは、妖力だけではない。結衣に対する燃えるような恋情をも封じているのだから。
 それでもなお、結衣を愛しく、大事に想う気持ちは残っている。長年燻らせている決して淡いとは言えない恋心を今更どう扱えというのだろう。

 結衣を傷つけるわけにはいかない。そのためにも封印を解くことはできないのだ。

 それに、鬼丸は怖かった。

 結衣が力を失った原因が、ことがバレてしまったら――
 そのことを知りながら、これまで黙って結衣のそばにい続けたことがバレてしまったら――
 きっと結衣は鬼丸を拒絶するだろう。鬼丸は、何よりもそれが恐ろしくて仕方がないのだ。


「まあ、君がいいなら僕からとやかく言うことはできないけどさ。君の封印はもうギリギリだよ。それだけしっかり理解しておくことだねえ」


 煙管に再び火をつけて、ぷはぁと白煙を立ち上らせる。深刻な話をしているというのに、七緒はどこまでもゆったりと自らのペースを崩さない。


「……肝に銘じておこう」


 鬼丸はすっかり冷えた茶で喉を潤し、残りのどら焼きを一気に頬張ると七緒の店を出た。


「また困りごとがあったらいつでも訪ねておいでねえ」


 ひらひらとやる気のない見送りの手が視界の端にチラつく。鬼丸は硬い顔をしたまま、そろそろ結衣が戻っているであろう屋敷へと足を向けた。

 結衣が記憶を取り戻さなければ、鬼丸の封印が完全に解かれることはない。
 だから、少し腹痛を辛抱すれば、これまでの生活を守ることができる。
 境界の綻びも、辰輝が数日もすれば綺麗に修復するだろう。


「ふん、俺が結衣に愛を求めることは端っからできないんだよ」


 鬼丸の自嘲めいた呟きが、冷たく乾燥した空気に吸い込まれていく。

 その時、頬に冷たいものが舞い降りた。


「雪か……これは積もるだろうな。明日は雪かきの依頼が増えそうだ」


 鈍色にびいろの分厚い雲を背に、はらりはらりと舞い落ちる雪の花弁。

 肌に触れては吸い込まれるように消えていく雪の儚さを感じながら、鬼丸はゆっくりと屋敷へと歩みを進めた。
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