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第2章エクスプレス サイドB①魔窟の洋上楼閣都市/洋上スラム編

Part7 ――罪――/叫び〔それは母親として〕

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 その裏通りは小規模な倉庫街だ。東京アバディーンの敷地で行われる商業活動を支える裏の物流の場として時間をかけて整備された経緯がある。だが、街の様相が様相だけにビジネスの軌道にうまく載せられた建物ばかりだとは言えず、幾つかの倉庫は買い取り手も見つからずに放棄されており、朽ち果てたり、不法に住み着かれたり、非合法な闇工場として機能しているケースもある。そのまま土地の外れまで行けば小さな港湾岸壁となるために夜間の暗がりに紛れて密輸物資の荷揚げが行われている事もあった。
 ラフマニたちが暮らす廃ビルはそうした物流管理業者によるもので、子供らが住み着いても無理に追い出そうとせず黙認してくれている。子供らが住み着き、夜遅くまで灯火がついていることで周囲の建物での犯罪が急減している。そのため所有者としてはむしろ助かっているはずなのである。
 そのハイヘイズの子らの住む廃ビル倉庫の周囲もまた小規模な倉庫や物資の集積ヤードとなっている。大小様々な建物が並び、建物と建物の間には街灯一つ無い細い脇路地が広がっている。
 今、ローラが走ってくるカチュアを受け止めようとしているその通りにも一つの脇路地が口を開けている。裏通りと脇路地がT字路を形作っているその場所で、ローラはカチュアを抱きしめようとしている。
 
 そのローラとカチュアの間の距離が20m程ととなった時だ。その脇路地の奥の暗闇の中から一つの影が恐るべき闇を引き連れて姿を表したのである。
 
 それは大きなボロ布だった。薄汚れていて異臭すら漂っている。そのボロ布をマントのように身にまとい頭からつま先から全身を覆い隠している。その姿はひと目見て、より貧しい洋上ジャンク船のスラム民のような気配を漂わせていた。
 この街ではそんな風体の貧しい者たちなど決して珍しくは無い。むしろ溢れかえっているといっていいだろう。常日頃からそんな人々を見慣れていた事もあり、近づかぬようにやり過ごせばいいだけの話だ。
 今もまたフラフラと何処かへとねぐらを代えて何処かへと行ってしまう――はずであった。
 だがそのボロ布を纏った男は歩き去ろうとせずに、ローラとカチュアの間に割り入るように歩みを止める。そして無言のままで立ちはだかろうとしている。
 男のそんな行動を疑問に思いつつ、ローラは立ち上がり抗議の声をなげかけた。
 
「あの――邪魔です」

 はじめは小さく穏やかに問うていた。だが男からの反応はない。
 
「すいません、退いていただけませんか?」

 次いで、言葉は丁寧だが話し方のニュアンスの中に強い抗議の意思が込められていた。
 それでもボロ布の男は動こうとせず、むしろローラの方に背中を向けて立ちはだかろうとしている。流石にローラも優しい受け答えをする事はこれ以上は無理だ。敵意を隠すこと無く怒りをぶつけた。
 
「どう言うつもりですか?!」

 今、ローラの背後にラフマニが立ち、ローラの前方にボロ布の男が背中を向けて立っている。そして、そのボロ布男の前にはローラとの間を遮られて困惑しているカチュアが居る。そして廃ビルの入口近くではジーナとオジーが事の成り行きを不安げに眺めている。
 運命の歯車が一瞬止まり、静寂があたりを包んでいる。夜の海を航行する船舶が汽笛を鳴らした時、ボロ布の男はフードと脱ぐこと無く野太く低い声で、こう告げたのだ。
 
「どう言うつもり――だと?」

 それは一切の温もりも優しさも存在しない冷たく押しつぶすような威圧感を伴った声であった。
 ローラは知っていた。その声の主を。そしてローラしか知らなかった。その声の主の危険性を。
 
――なぜ、こいつがここに居るの?――

 ローラの胸の中を驚きと恐怖が襲う。血の気が引き正常な思考力を失いそうになる。そして男の名を口にすることは、自らの運命の破滅を受け入れてしまいかねない。そんな胸中にすらさせられるのだ。
 
「え?」

 ローラの体内の人工心臓が限界まで拍動している。呼吸は荒く酸素収支バランスが崩れかねないほどだ。ようやくに吐き出したローラの声に、男は背中越しに冷たく答える。
 
「ずいぶんと惰弱になったものだな。ローラ」

 男はローラの名を知っていた。その事実とその巨躯のシルエットからは男の名を導き出すことができる。その名を呼んではならない。だが呼ばねばならないことも分かっていた。
 静寂に包まれていたはずの運命の歯車は再び回りだす。――悲劇――へと突き進むかのように。
 ローラは覚悟を決めて男の名を呼んだ。
 
「ベルトコーネ?」

 ローラに名を呼ばれてベルトコーネはゆっくりと振り返った。フード代わりにまとっていたボロ布が着崩れて地面に落ちていく。その中から現れたのはバイカー風のレザージャケットの上下に身を包んだ白人系の風貌の巨躯の男だ。顔に、拳に、歴戦の傷跡が残されている。そして、かつての名残なのか衣装の各所に備わっていた拘束用のベルトは、幾つか根本からちぎれて失われている。
 その両の拳は固く握られており、それが友好を示すものでないことは十分解ろうと言うものだ。
 その拳は悪夢の象徴だ。破滅と悲劇を具現化する手段でもある。そしてなによりも、ローラは知っていた。その拳がどれほどまでに恐ろしいかを。
 
――逃げないと――

 頭では分かっている。
 
――皆に伝えないと――

 急がねばならない。猶予もない。
 
――お願い、みんな気付いて。コイツを刺激しないように急いで逃げて――

 些細な一言が悪夢をもたらすのは確実だ。ローラはその事を嫌というほどに知っている。
 なぜなら――

 ラフマニの視線を感じる。恐れと危機感を抱いているのが分かる。
 オジーがビルの玄関から出て歩きだそうとしている。カチュアを連れ戻すためだ。
 ジーナはビルの中へと戻っている。他の子供らを誘導して身を隠させるために。
 カチュアはまだ、この男の向こうで佇んでいるだろう。
 伝えたい。ただ一言「逃げて」と――

 だがベルトコーネが重く響くような声で、破滅の運命を告げる。
 
「迎えに来た。一緒に来るんだ」
 
 かつて彼女自身も、この男と同じ【テロリズム・アンドロイド】だった。彼女の過去そのものがその魔手を現したのだ。
 
 ベルトコーネが振り向きつつ頭上から見下ろしている。ローラの返答を待っている。回答如何によっては最悪の状況へと突き進んでしまうだろう。
 
――拒否は出来ない。拒否すればこの男は必ず怒り狂う!――

 ローラは思考を巡らせる。そしていかなる手段が取りうるのかを思案を重ね続けている。
 
――でも、この男に付いていくことなど在りえない。子どもたちと別れることなど出来ない!――
 
 どちらに転んでも。どう考えても、このベルトコーネと言う男を前にしては誰も傷つかずに穏やかに事を収める事など出来はしない。かと言って、こうして沈黙を続けていても、この男が強硬手段を取るだろうとは明らかだった。
 迷っていた。決断が下せない。カチュアを、そして子どもたちを守るのが最優先であることは分かっているがその手段がどうしても見つからなかった。その迷いはさらなる悲劇を招き入れることなるのだ。
 
 その時、カチュアの耳にはある言葉が聞こえていた。

――一緒に来るんだ――

 それはまだ年端もいかぬ3つになったばかりの子供の感性で受け止めるには、あまりに強すぎる言葉だった。そしてそれがもたらした物は、小さな心の溢れるほとばしりだった。
 カチュアは子供だ。幼子だ。その小さな心でこの世界のすべてを受け入れ理解することなど、到底できるものではない。心の中に湧いてた疑問すらも抵抗無く素直に口にしてしまう。カチュアは眼前の巨体の男――ベルトコーネへと強い口調で問いかけたのだ。
 
「おじちゃん」

 足元から聞こえる小さな声にベルトコーネは視線を向けた。
 
「ローラママ、連れて行っちゃうの?」

 カチュアの問いかけにベルトコーネは答えない。カチュアはさらに問いかけの言葉を発する。
 
「連れてっちゃやだ」

 涙混じりの声。その声に込められた切実な願いを重さをローラは痛いほどに分かっていた。だからこそ彼女は名乗ったのだ――〝ローラママ〟――の名を。
 だが、その涙声の意味を、この稀代のテロリストの後継者には、理解することなど到底できるものでは無い。遮る敵は薙ぎ払う。狙い定めた敵は必ずや打ち倒す。立ちはだかる全てを破壊し、なぎ倒すことで今日まで存在してきたのだ。ならば今、ベルトコーネが取りうる手段は一つだけである。
 
「これが、お前がこの土地から離れることの出来ない理由か」

 ローラには解っていた。それが彼女の立場を理解したがゆえの言葉では無いということを。
 
――お願い。やめて――

 ローラは心のなかで叫んでいた。彼女が恐怖と混乱を乗り越え動き出すよりも前に、冷徹な鉄の意志を持ってしてベルトコーネが酷薄に告げたのだ。
 
「ならば――お前がこの地に縛り付けられている〝理由〟を摘み取るまでだ」

 それは処刑宣告だ。テロリストによる断罪の宣言である。
 ベルトコーネの右腕が振り上げられ、一歩進み出ながらその右腕は、眼前の小さな体めがけて振り下ろされる。ベルトコーネのその殺戮の拳はカチュアのその小さな頭を確実に仕留めて打ち据えたのだ。
 一緒に寝かせてあげるはずだったクリーム色のパジャマ。それが鮮血を浴びて紅く染まっている。
 わずか90センチにも満たない小さな体だった。それが無残な放物線を描いて宙を舞っていたのだ。小さな命はまるでパンでも千切りとるように刈り取られたのだ。
 
 何が起きたのか即座に理解できた者は居なかった。
 ラフマニはローラとベルトコーネのやり取りに手を出すことも出来ずに、ただ威圧されて見守ることしかできなかった。オジーはカチュアを救い出そうと決死の思いで近づいていたが、今一歩のところで間に合わなかった。ましてやジーナのような年長の少女たちは廃ビルの中の子どもたちに静かにするように言い聞かせるだけで精一杯である。
 
 それは長い長い時間だった。数秒が、一時間にも二時間にも感じられるほどであった。
 ローラはその心のなかで神へと問いかけていた。それは抗議だった。怒りだった。そして、何よりも深い嘆きだったのである。
 
――神様。私は罪を犯してきました――
――無知でした。何も知らないがゆえに自分が成していることの罪の重さを理解することもありませんでした――
――傲慢でした。命を刈り取るという事の罪深さを理解すること無く、一つ一つの命が失われていく様に狂喜し歓喜し、そしてそれを認められるたびに満足していたのです――
――愚かでした。私と私のかつての仲間が犯した殺戮の結果として、世界中に嘆きの声が満ちたとしても、それを理解して後悔できるだけの心も知恵も持っていませんでした――

――神様、私は罪深い女です。いえ、人ですらありません――
――子を成すことも、乳で赤ん坊の飢えを満たしてあげることすら出来ませんでした――
――こんな私でも、自分自身を捨て去って、ただひたすら無心になって、寒さと寂しさに震える子どもたちを守ってあげることくらいはできるはず。そう信じてきました――
――でもソレすらも間違いだったのですか? 私は罪を償うことも許されないのですか?――

――でも神様――
――それでも、全ての〝罪〟への責めと咎は、全て私が背負うべき物です――
――地獄の業火に焼かれようが、天使の断罪の剣で切り刻まれようが、それは全て私が背負うべきものなのです――

――神様、カチュアに罪はありません――
――たとえあったとしても、それは私に背負わせてください――
――神様、それでもこの子が傷つく事があるとするならば、私の【罪】はそれほどに重いものなのでしょうか?――

――神様、どうかお願いです――
――私の目が見えなくなっても構いません。あの子の目を開かせてください――
――私の声が届かなくなっても構いません。あの子に喜びの歌を歌わせてあげてください――
――私は歩けなくなっても構いません。あの子を希望の持てる明日へと歩ませてください――
――私の胸の鼓動が止まっても構いません。あの子の命の火を絶やさないでください――

――神様、どうかお願いです――
――あの子をこの世界から奪わないでください。この世界から消え去るべきはこの罪深い私なのですから――

 それは投げ捨てられたテディベアのように2mほどの距離を飛んで、あっけなくアスファルトの上に横たわった。ぐったりとして指一本、動くことは無かった。その目が開かれる事は決して無かった。
 
――死――

 その事実をローラはようやくに理解する。そして、胸の奥から張り裂けるような声で叫んだのだ。
 
「カチュアーーーーーーッ!!!」

 天へも届くような声で叫びながらローラはカチュアの元へと駆け寄った。そして、身につけたワンピースドレスが血に染まることも厭わずに肩に羽織っていたショールで包みながら、カチュアのその小さな身体を抱き起こしたのだ。
 
「お願い、死なないで! お願い! 目を開いて! お願い! カチュア! カチュア!!」

 現実は無残だった。ローラの問いかけにカチュアの瞼は開かなかった。両手で抱きしめるがその手足に力はなく糸の切れた人形のように横たわるだけである。
 いつしか、ローラのその目には溢れんばかりの涙が流れていた。嘆きの涙、後悔の涙、苦痛の涙、しかし、どんなに涙を流したとしてもカチュアの身体に命の力が満ちることは無かったのだ。
 ローラは息を吸った。胸の中の呼吸器官へと許容量限界まで、夜空の冷たい空気を吸い込んでいく。そして、その総身で受け止めた嘆きと苦しみをすべて吐き出すかのように天に向けて叫んだのだ。
 
「うわぁああああああああああああああっっ!!!!」

 それは雄叫びのようであり、嘆きの声でもあった。取り返しのつかない現実が今まさにこの場で起きてしまったのだ。
 
「ぐうぅっ――、うっ――――、あっ、あっ、あーーーーー、あ、あ、あ……」

 今一度、息を吸い込みカチュアの身体を抱きしめながら顔を埋めるように抱き寄せて嗚咽の声を響かせるのだ。膝を折り、しゃがみ込み、しゃくりあげながらカチュアを抱きしめ続けた。

「ごめん、ごめんなさい――、あたしがここに来なければ――、あなた達のママになんかならなければ――こんなことには――」

 嘆いても、嘆いても、後悔をどんなに重ねても、時間が過去へと戻ることは在りえない。贖罪の日々を送ると覚悟を決めたローラを気遣い癒やしてくれた、心優しいカチュアの目が開くことはないのだ。
 その絶望の底へと叩き落されているローラの下へと近づいてきたのはベルトコーネだった。足音を鳴らしながらローラに背後から近づいてくる。そして、その背中を責め立てるように強く言い放つ。
 
「これで解ったはずだ。俺と行動をともにし我らが創造主の遺志を引き継ぐのだ。それすれらも拒むというのなら――」

 そこまでベルトコーネが声を発したときだ。
 まばゆい光がほとばしる。ローラの指先から、細く絞られ断罪の矢の如くと化した光が解き放たれる。それは、ベルトコーネの頬をかすめると深い傷となって痕を残していた。それは、ローラのもう一つの決意を象徴する光である。
 ローラは、左手でカチュアを抱きしめながら、顔を振り上げベルトコーネを睨みつけていた。それは怒りである。義憤である。そして命を守ると覚悟を決めたものだけが表すことのできる『深い母性』があるからこそ宿すことのできる『純粋な清廉な怒り』であるのだ。
 
 彼女の名は『光撃のローラ』
 光を武器とし、光を操る者。
 
「許さない――」

 そして、静かに立ち上がると正面からかつての仲間を睨み据えていた。
 
「あなたも、あの老人も、絶対に許さない」

 それは決別の怒りである。母を名乗る資格のある者だけが抱くことのできる切なる怒りの叫びであった。
 
「たとえ、天も地もあなたの事を認めても、わたしはあなたを絶対に認めない! この世から消し去ってやる! あの子達が、寒さから守ってくれる親すら居なかったあの子達が笑って暮らしていけるためなら! 刺し違えてでもあなたを打ち壊す!」

 涙はすでに止まっていた。しかし、ローラの頬を涙が流れたあとがくっきりと残っていた。ローラは涙を拭わずに、恐れること無く、怯むこと無く、眼前の暴力の権化へと毅然と向かい合ったのだ。
 母を名乗ったものとして、何よりも強い毅然とした視線で立ち向かおうとしている、かつての仲間を前にして、ベルトコーネは静かな怒りを抱いていた。
 
「俺や我らが創造主の遺志と袂を分かつと言うのか」

 その言葉を突きつけてもローラの決意は一ミリたりとも揺らぐことは無かった。
 ローラは答えない。ただ敵となったベルトコーネと向かい合い、その体に宿した力を解き放つだけだ。
  
「いいだろう。ならばこの俺も全力を持って叩き伏せるのみだ。我らの理想から離れたことを後悔するが良い」

 後悔? そんなものはありえなかった。
 
――今はただ、残された子たちを守るだけ。そして、刺し違えてでもコイツを打ち倒す――

 そこに立ち上がったのはテロアンドロイドではない。己の境遇を嘆き悲しむだけの少女でもない。
 いまこそローラは全身全霊をかけて〝母親〟となったのである。
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