絵の女

八花月

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 教えられた道を行くと、やがて鬱蒼と杉木立の繁る林道に入った。この先を行ったところにあった集落に、かつて私は住んでいたらしい。

 学校など作られそうもない程の戸数なので、おそらく下に通っていたのだろう。

 空は曇り、湿気が強い。林道とは言いながら最近人の通った形跡がない。柔かい腐葉土は私の体重がかかると、むわっとした独特の臭気を放つ。夏の近さを感じさせた。

 山奥に入るにつれ、細かい水の飛沫が私の顔に当たるようになった。滝でもあるのか、枝の露かと考えていたが、どうやら小雨が降りだしたようだ。急がなければ。

 山の天気は変わりやすい。

 急ぎ足で辿るのも難儀な山道を登っていくと、だんだん脳内の霞が晴れていくのを感じた。

 そうだ、そうだ、そうだ! 思い出してきたぞ! 私は確かに短い間、ここに住んでいたことがある。

 両親に連れられ、転々と住居を移していたあの頃、中でも別けてここは殊更に何か変だった。

 仕事の都合で引っ越しを繰り返していたはず、なのだがこのような場所に仕事などあるのだろうか?

 ここにいる時、両親は何をしていただろう? 

 仕事……。そうだ、ここにいる時、両親はいつも近隣の人々と何か話をしていた。

 日がな一日、他人の家や自分の家、呼んだり呼ばれたり、私もそこに同席させられたりした。

 よく呼ばれていた。何を話していたのだろう? 

 怒号が聞こえる。そして宥めたり、脅したり、抗弁。居丈高に、下手に出て、交渉し、決裂、新しい神主、挨拶、宴もたけなわ……。

 記憶の網にほころびが生じてきたような気がする。思い出すのは断片ばかり。個々の思い出が繋がらない。

 私自身がバラバラになっていくような妙な感覚。

 なのに、気分は昂揚し身体が熱い。

 もっともっと。

 急き立てられるように、半ば跳ねるように私は登り路を駆けた。

 下にあった川は大きくカーブしている。一旦分かれていた杣道と流れはここに来て合流した。

 ここだ!

 パァッと視界が開ける。ここだここだ! いつのまにか空は晴れ上がり群青の面を覗かせている。

 手入れのされていない荒れ放題の杉木立が切れ、目の前には清らに澄んだ流れが現れた。

 何物にも侵されていない、美しい渓流。大きなごつごつとした岩々でさえ、なにか神寂びて自然の奥秘を宿しているように見える。

 そうだ、私はここを描いたのだ!

 岩の中には、なにか不自然に平らな場所があった。水に渡したまな板のように、ぽかりと宙に浮いたように林立する岩の中に開けている。


 あ、女がいるぞ!


 白いワンピース、腰まで届く濡れ羽色の髪。陽光までも吸い尽くしてしまいそうな漆黒。

 背中しか見えない。でも、間違いない。あれだ。

 思い出した。完全に思い出した。ここは聖域なのだ。

 私はこけつまろびつ川に降りた。靴と靴下を濡らしながら、祭壇に上がった。

 女の背中がある。幻ではない。やった! ついにやったんだ!

 女は振り向いた。細面の、貝殻を連想する白皙の肌に、墨を落としたような眉が美しい曲線を作っている。整った鼻梁、紅い唇、清新な楚々とした佇まい。全てが完璧。

 私はゆっくりと近づいて行った。

 女は笑っている。

 女はゆるゆると口を開けた。口内は血塗られたように真っ赤だ。口は段々大きくなる。

 顔の半分ほどになり、額の、髪の生え際まで裂け……やがて、顔を超えて随分と大きくなって……真っ赤な地獄の洞窟のようになった口に、私はぐるるっと呑み込まれた。
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