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第9話 インフルエンザ その3
しおりを挟む「気がついたかい、少年」
「……」
目を開けると、目の前に黒髪の女がいた。
悠人がぼんやりとした頭で、今の状況を把握しようとする。
自分の部屋の天井が見えた。と言うことは、ここは俺の家だ。
左手が動かしづらい。その上にあるものを見て納得する。どうやら点滴をされているようだった。
そうだ俺……急に吐き気が来て……トイレで吐いて……
「小鳥は!」
「彼女なら君の隣だよ」
女がそう言った。頭を動かすと、自分の手を握ったまま、枕元で寄り添う様に眠っている、小鳥の姿が目に入った。悠人がほっとした様子で微笑む。小鳥の頬には、涙の跡が幾筋も残っていた。
まだぼんやりしていた。目が回り、息が熱い。
「タオルを変えよう」
女がそう言って額のタオルを取り、台所に歩いていった。
「……すいません……お世話になったようで……」
「気にすることはない。これも何かの縁なんだろう」
タオルを絞って戻ってきた女が、悠人の額にタオルをそっと乗せた。
「あの……それで……」
「私は深雪、木之本深雪だ。この部屋の下の住人だ」
そう言われて悠人は、深雪の顔に見覚えがあることを思い出した。何度かエレベーターを待っている姿を見ていた。
「しかし驚いたよ少年。エレベーターに乗ろうとしたら、中に少女がいた。見たら小鳥くんだ。ああ、小鳥くんとは以前、そこの堤防で会ったんだがね……様子が尋常じゃなかった。泣きながら私の顔を見て、しがみついてきた。
混乱している小鳥くんに困っていたら、小鳥くんの後にいた金髪少女が説明をしてきた。沙耶くん……だったね。彼女の話で、君が嘔吐したままトイレから出てこないと言うことが分かった。
申し訳なかったが部屋に入らせてもらい、トイレの扉をこじ開けさせてもらった」
「こじ開けた……」
「ああ。鍵がかかっていたからね、悪いが破壊した。君は彼女たちに、情けない姿を見せたくないと思い、無意識に鍵をかけたんだろう。しかしこんな時に鍵をかけるのは、無謀だぞ」
「ははっ……」
「とにかく開けると、君は便器を抱えたまま気を失っていた。その君を布団に運ぶのには往生したよ。小鳥くんは混乱して、泣きながら君から離れない。熱を測ったら39度越えだ。すぐに近所の医者に電話をして、ここに来てもらった訳なんだが……おめでとう少年。季節外れのインフルエンザだそうだ」
「インフル?」
「そうだ。君、最近体調がすぐれないので、何度か風邪薬を飲んでたみたいだけど、残念ながら無駄な抵抗だったようだ」
「まいったな……今年は予防注射、うってなかったしな……」
「注射と点滴の処置をして先生は退散、そうして今に至るわけだ。ちなみにこれが最後の点滴だ」
「今、何時ですか」
「昼前、11時だよ」
「ええっ!じゃあ俺、あれからずっと寝てたんですか」
「よく眠ってたよ」
「会社!」
「朝、君の携帯に会社から電話がかかってきたよ。すまんが取らせてもらった。なんて言ったかな……そう、白河くんって女性からだったよ。一応君の状態を報告しておいたから、安心したまえ。白河くんは今週いっぱい休むよう、社長に伝えておくと言ってたよ」
「……」
「白河くんも心配してたよ。君の様子を告げると、耳がつぶれるぐらい叫んでいたからね。多分あの乙女も今夜辺り、ここに来るんじゃないかな。まだ具合が悪いから来るべきじゃないと言ったんだが、顔だけでも見たい、そう言ってたからね」
「そうですか……」
「しかし色男だな、君も。たかがインフルぐらいで、三人もの女を泣かせるとはね」
「いや……それはちょっと違うでしょう……そうだ、沙耶は?」
「金髪少女なら隣の部屋で寝ているよ。大丈夫だから家に帰りなさいと言ったんだが、そばにいたいと言って聞かなかった。彼女も明け方までこの部屋にいたんだが、流石に沈没しそうだったんで、隣に布団を敷かせてもらった。離れたくないと言ってたが、何かあればすぐ知らせると言って説得した」
「色々と……お世話になったみたいですいません。それから……ありがとうございました」
「気にするな少年。世知辛い世の中だが、ご近所のよしみだ。こんな時ぐらい助け合っても、罰は当たらないだろう」
「下の階の人なんですよね、いつもうるさくしてご迷惑かけてます」
「全くだ。私は静かな生活を望んでいる。だからこのマンションが好きだったわけだが、どうもこの一ヶ月ほど、上の階が騒がしいと思っていたんだよ」
「……申し訳ないです」
「おいおい冗談だよ、真面目に受け取らないでくれ。しかし驚いたよ。ついこの前小鳥くんに出会ったんだが、まさか同じマンションの住人だったとはね。年頃の女の子が、こんな過疎マンションに住んでいたとは驚きだ」
「まあ、色々ありまして」
「だが君を見て、彼女のことが少し分かった気がするよ」
「え?」
「大好きな悠兄ちゃん」
「な……」
悠人の顔が赤くなった。
「あははははははっ、かわいいな、君は」
「からかわないでくださいよ」
「いやすまない。まあ小鳥くんも少年も、しっかり悩んで成長したまえ」
「いやだから……と言うか、さっきから少年少年って気になるんですけど、どう見ても深雪さんって、僕より年下ですよね」
「そうだね。女性の年を詮索するのはいただけないが、それも若さ故と言うことで許してあげよう。ちなみに私は三十路前だ」
「ほら、思いっきり年下じゃないですか。僕はこれでも39歳です」
「39にしては、きれいな瞳をしている」
そう言って深雪が、悠人の顔を覗き込む。
「え……ちょ……ち、近いですよ深雪さん」
「純情だねえ。やっぱり可愛いじゃないか少年。年は10ほど上かもしれないが、それでは私から少年と言われても仕方ないな」
「ゆ……悠人です。せめてそう……呼んでください」
「悠人くんか……いい名前だね、少年」
「だから悠人ですって」
「そう言うな少年。君にはなぜか、こっちのほうがしっくりくる」
「しっくりって……」
悠人が小さくため息をついた。しかし確かに、年下なのに姉のように感じた。
「さて……」
深雪が立ち上がった。
「約束だからね、あの金髪少女を起こすとしよう。彼女もかなり心配してたようだし……ちゃんと謝っておくんだよ。私はひとまず退散する」
「あ……深雪さん」
「なんだい少年」
「本当にお世話になりました。このお礼は、改めてさせてもらいます」
「楽しみにしてるよ。君はとにかく、しっかり栄養を取って休むことだ。それから……すまないが、後で小鳥くんを少し借りてもいいかね」
「小鳥をですか?」
「ああ色々とその……ゆっくり話をしてみたいと思ってね」
「分かりました」
「冷蔵庫にプリンが入ってる。少し食欲が出たら食べたまえ」
「はい、ありがとうございます」
深雪は隣に行き、沙耶に声をかけた。しばらくして沙耶が、寝癖で爆発した頭のまま部屋に駆け込んできた。
「遊兎、気がついたのか!」
「ああ沙耶、迷惑かけたな」
「馬鹿者が……迷惑などと言うでない……よかった……本当によかった……」
そう言って沙耶が、悠人の頭を抱き締めた。その姿に微笑みながら、深雪は部屋を出て行った。
「遊兎、何か欲しいものはないか。お前は病人だ、なんでも私に言うがよい」
「お前、バイトは?」
「連絡はすませてある。遊兎が倒れたと伝えたら、私と小鳥に日曜まで休暇をくれた。こっちのことは気にせず、お前をしっかり看病してやれと言ってたぞ」
「そうか……色々すまんな」
「それより遊兎、何かないのか。喉は渇いてないか」
「ああそうだな……じゃあ少し、ポカリをもらえるか」
「まかせておけ!」
沙耶が小走りで、冷蔵庫からポカリを持ってきた。そして起き上がろうとする悠人を制した。
「病人は寝ていろ、私が飲ませてやる」
「いや、ポカリぐらい自分で……」
そう言ってポカリを取ろうとしたが、左手は点滴をしていて動かせなかった。
「点滴はあと一時間はかかる。それぐらいに深雪が来て抜いてくれるそうだ」
「抜くって……そんなこと、勝手にして大丈夫なのか」
「うむ、どうやらあの深雪という女、看護師の資格を持っているらしい。医者とそんな話をしていた」
「そうなのか」
仕方なく右手を動かそうとしたが、右手は小鳥に握られている。
「そうだった……」
「むふふふふっ」
沙耶が悪人顔で、にんまりと笑った。
「観念しろ遊兎。こういう時は安静にしているものだ。ポカリは私が……口移しで飲ませてやろう」
そう言うと、沙耶が口にポカリを含んだ。
「ちょ……沙耶……」
沙耶の小さな唇が、悠人に迫ってくる。甘い香りがする。
「沙耶、や、やめ……」
「……」
万事休すかと思ったその時、ひらめいた悠人が言った。
「沙耶、どうでもいいけどお前、頭が爆発してるぞ」
「……!」
その言葉に沙耶は飛び跳ね、慌てて自分の頭を触った。そして顔を真っ赤にすると、洗面所へと走っていった。
「ふぎゃあああああっ!」
沙耶の叫び声が聞こえる。悠人は苦笑しながら、左手をゆっくりと動かし、ポカリを飲んだ。
そして再び小鳥の顔を見る。
可愛い寝息を立てて眠っている小鳥。昨夜の小鳥の混乱した様子を思い出し、悠人の瞳が少し曇った。あの狼狽は普通じゃなかった、あの時、小鳥に一体何が起こったんだ……悠人は小鳥を脆く、そして儚く感じた。
(小百合……小鳥に一体、何があったんだ……)
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