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第8話 謎の美女・深雪 その4
しおりを挟む小鳥は彼女に、昨晩から自分の身に起こっている変化を話した。
鉛筆を走らせながら、その女性は黙って聞いていた。
「なるほど……」
鉛筆を止め、コーヒーを一口飲むと、その女性は小鳥の顔を優しくみつめた。
「可憐な乙女、悩むことはない。君は今、本当の恋をしてるんだよ」
「本当の……恋……」
「君は今までその……悠兄ちゃんなる男性に憧れ、慕い、そばにいると安心感を得ることが出来た。それは『家族』から得ることの出来る安らぎに近い。君は彼を一人の男として愛してきたというより、兄や父に近い思いで見て来たんだと思う」
「家族……」
「しかし今、君は彼のことを考えると苦しくなる。きっと君は、彼を一人の男として意識し始めているんだよ」
「人を愛するって、苦しいことなんですか」
「苦しみもある、と言った方がいいかな。その人を想い、心に描くだけで胸が締め付けられそうになる。でもそれは、幸せ故の苦しさなんだよ」
「よく分かりません」
「失いたくない、もっと自分を見て欲しい。意識して欲しい、愛して欲しい……相手に求めるその気持ちは、自分だけではどうにもならない。相手の気持ちに入ることは出来ないからね。だから苦しむし、不安にもなる。
でもその苦しみがあるからこそ、相手をいたわり、大切にしようとする気持ちが育まれていく。お互いがそういう気持ちになったらどうだい?最高の関係が築けると思わないかい」
「そうですね……はい、そう思います」
「本当に素直だな、君は。その素直な気持ち、大切にして欲しいと切に願うよ。君のような人種、今じゃ絶滅危惧種だからね」
「褒められてます?」
「ああ、褒めているとも。で、だ。もう一つの君の疑問も、今の答えから導き出される。
乙女。君は悠兄ちゃんを、男として意識するようになった。愛して欲しい、自分を女として見て欲しい、そう願う自分になった。そう思って改めて周りを見ると、自分と同じく、彼を男として意識している者たちがいた。その時君は彼女たちに対して、今まで感じたことのない嫌な気持ちを感じた」
「はい」
「それは嫉妬という感情だ」
「嫉妬……」
「そう。人は異性を愛すると、時を同じくして嫉妬という感情が芽生えてくる。これまで悠兄ちゃんは、君にとっては家族、父や兄のような存在だった。だから彼に好意を持つ者が現れた時、君は喜んだ。そして彼女たちと仲良くしたい、そう思った。
だが彼を一人の男として意識した今、彼女たちは正真正銘の『恋敵』になったんだ。勿論君は彼女たちと、これからも仲良くしていくことだろう。だが、彼のことになると話は別だ。君にとって彼女たちは、同じ男を奪い合う敵なのだから」
「そんな、敵だなんて」
「なぜだか分かるかね?」
「……」
「恋人の席は、一つしかないからだ」
「あ……」
「家族であれば、隣に座る席はいくらでもある。友人であるなら、その席が多いほど、それはその人の財産になるだろう。だが恋愛だけは別だ。
複数の異性と同時に恋することが出来て、相手もそれを認める例外的な人種は別だが、隣に座る席は基本一つしかない。
その席に誰が座るのか。悠兄ちゃんの隣に座れるのは誰なのか。そう思った時、ライバルに対して芽生える感情、それが嫉妬なんだ。誰にも取られたくない、他の子を見ないで欲しい、自分だけを見ていて欲しい……自然な感情だよ。そのことで自分を責める必要もない」
「……でも私、サーヤや弥生さんたちのことも大好きなんです」
「ああ、それは素晴らしい気持ちだ。友達は大切にするがいい。友情は人生の宝だよ。愛する異性は一人でいいが、友情を育む同性は多ければ多いほど、君の人生を豊かにするからね」
「……」
「少し難しかったかね、乙女」
「いえ……でも、恋愛が苦しいなんて……私がサーヤに嫉妬なんて……」
「多いに悩むがいいさ。一つ一つ、人生の階段を上っていけばいい。そうしていつか振り返った時、今悩んでいることが全て、君を大きくするための糧だったことに気付くよ」
「そんなものでしょうか」
「最後にもう一つ。悩んでいる乙女に人生の先輩、恋愛の先輩としての助言をしてあげよう。
恋愛は求めるものじゃない。求められるように自分を磨くものなんだ。
彼が別の女性に目を向けた、他の女性が彼に色目を使っている。そんなことで一喜一憂するのではなく、自分が愛されるためにどうあるべきなのか、それを考え行動していく。そうすればきっと君は、誰よりも輝いた魅力ある女性に成長していくよ」
その言葉に、小鳥がはっとした。
(そうだ……私は誰よりも、悠兄ちゃんのことをずっと思ってきたんだ……この気持ちだけは誰にも負けない。誰が悠兄ちゃんのことを見ていても、悠兄ちゃんはきっと私を見てくれる、でなきゃ私が振り向かせてみせる、そう思ってた……なんで私、忘れてたんだろう……)
「先生、ありがとうございました」
小鳥が晴れやかな顔で頭を下げた。
「何か見えたようだね、乙女。私の話が役にたったのなら、嬉しい限りなんだが……その先生と言うのはちょっと気恥ずかしいな。私は深雪だ。そう呼んでくれて構わんよ」
「分かりました、深雪さん。私は小鳥、水瀬小鳥です」
「小鳥くんか。いい名前をもらったね。きっと君のご両親は、君のことを心から愛しているんだろう」
「ありがとうございます。私もこの名前、すっごく気に入ってるんです。深雪さん、また会えますか?」
「ここに来れば、また会えると思うよ」
「分かりました。今度は悠兄ちゃんのこと、いっぱい話してあげますね」
「ああ、楽しみにしてるよ」
「じゃあ私、帰って悠兄ちゃんの晩御飯作ります。今日は奮発して、すき焼きにしちゃいます」
「そうか。悠兄ちゃんも、きっと喜ぶよ」
「はい。じゃあ失礼します」
小鳥が大きく頭を下げて、その場から走り去っていく。
「元気な乙女だね」
小鳥が走っていく後姿を、深雪が優しいまなざしで見送った。
「悠兄ちゃん待っててね。今日も小鳥の愛情、いっぱいあげるからね」
朝の小鳥の様子に心配していた悠人だったが、帰宅してそれが杞憂だったと感じていた。
小鳥は玄関まで小走りで迎えに来て、抱きついてきた。
テーブルを囲み、小鳥はいつものように陽気に話しかけてくる。対照的に、今度は沙耶が無口になっていた。
初めての立ち仕事で足が筋肉痛になっている沙耶は、心身共に疲れた様子だった。しかしすき焼きなる物を口にした途端、その味に衝撃を受け、気がつけばいつもの饒舌さが戻っていた。
「なんだ、このうまさは。牛丼と言いすき焼きと言い、小鳥よ、庶民はいつもこのようなものを食しているのか」
「そんな訳ないよ。すき焼きは庶民の夢なんだよ」
「いつの時代だよ、それは」
「そうか、やはりこれはご馳走なのだな、納得だ。しかし庶民は面妖な食し方をするものだな。この肉と生卵のコラボは絶妙だぞ」
「足りなかったら言ってね。卵はまだあるから」
「ところで沙耶。バイトの方はどうだったんだ」
「聞いてくれる?悠兄ちゃん」
「なんだ小鳥、やっぱりなんかあったのか」
「あったじゃないよ、すごかったんだから。サーヤってこの通りでしょ。でも流石に仕事だから、接客ぐらい出来ると思ってたのに……お客さんが何か尋ねてきた時、『私に聞くな、自分で探せ』って突き放すんだよ」
「やっぱりか……」
「それにね、トイレを借りに来たお客さんにも、『貴様の家にトイレはないのか』って」
悠人が頭を抱える。
「当然だ。どこの世界に、コンビニで用を足すバカがいるのだ」
「だからサーヤ、それもコンビニのサービスなんだってば」
「明日、おばちゃんに謝っとかないとな……」
「最後にはもう立てないって言って、カウンターの中で椅子に座ってたんだよ」
「どんな店員だよ。で、クビにはならなかったのか」
「うん。おばちゃんも、『初めてなら仕方ないね』って言ってくれて、結局小鳥一人で走り回ってたんだから」
「おばちゃんは?」
「それがね、おばちゃんサーヤを気にいっちゃって、可愛い可愛いって言って、サーヤと一緒にずっとおしゃべりしてたんだよ」
「なんだそりゃ」
「でもね、お客さんの反応は不思議とよかったの」
「よかった?」
「うん。最初はサーヤの言葉や雰囲気にびっくりするんだけど、それが癖になってくみたいで、わざわざサーヤに話しかけに来る人もいるんだ」
「……ここの住人たちはドMなのか」
「とにかくだ」
沙耶が口を開いた。
「遊兎、それに小鳥……ありがとうございます」
そう言って、沙耶が二人に頭を下げた。
「今日は私にとって、記念すべき一日になった。生まれて初めて勤労の厳しさ、楽しさを知った。私は本当にここに来てよかったと思っている。遊兎よ、それに小鳥。お前たちには感謝してもしきれない」
「いや、勤労になってないぞ」
「朝起きて働いて、そして夜にはこうして皆で食事を楽しむ。これまでになかった喜びだ」
「続けていけそうか」
「うむ。足は痛いが、勤労後の食事がこんなに美味だとは知らなかった。これは病みつきになる」
「そうか。なら俺からも、おばちゃんに頼んでおくよ」
「サーヤ、明日も頑張ろうね」
明かりのついた家に帰る。食卓で会話がはずむ。これまでになかった安息間。
あらためて悠人は、この今のあたたかさがもう少し続いて欲しい、そう思った。
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